「名前、どうしたのですか」

「………」

「名前」

ジャーファルさんの優しい声が頭上から降ってくる。顔を上げることを促しているみたいだけど、今はどうにも上げられそうにない。きっと、情けない顔をしている。声をかけて、服を掴んで、何も言わずに俯いている私にこんなにも優しくしてくれるなんて、ジャーファルさんはやっぱり素敵な人だ。
そんな彼のことだ。他の国へ行ったら、どうなってしまうのだろう。我らが王、シンドバットさまのように女癖が悪いわけではないから、女性とそのような関係を持つだなんてことはない、と思う。けれど万が一、かわいらしい女性に好かれてしまったら。ジャーファルさんが、出先から帰ってこなかったら。そう考えたら言い様のない何かに頭を支配されて、気がつけば、仕事の最中であるジャーファルさんの服を掴んでいたのである。
明日はきっと、朝早くに立つでしょう。文官に話していた予定を聞いて、いてもたってもいられなかった。だけど冷静になった今、この状況をどうしたものかと頭を悩ませている。

「…あ、の、ジャーファルさん…」

「はい。なんです?」

「……っ、ややや、やっぱりなんでもないです!」

すみません、と叫んで走り出す。後方へ続く長い廊下に足を踏み出せば、「名前!」と私を呼ぶ声が聞こえた。ああ情けない、こんな顔見せられない。こんなことのためにジャーファルさんの仕事を邪魔してしまうなんて、文官失格だ。つん、と鼻の奥が痛くなるのが分かった。

「名前っ!」

「わ!」

腕が力強く引かれたと思えば、そのまま体が傾く。ぼすん。落ちた先は、柔らかい匂いに包まれたジャーファルさんの腕の中だった。そのことに気づき急いで離れようとするけど、腕の力が余計に強くなる。

「名前、顔を上げて」

「い、いやです」

「いいから顔を上げなさい」

「ちょ、うええ!」

ぐいっと無理矢理顔を上げさせられ、ジャーファルさんの顔が大きく見えた。綺麗な瞳に、整った顔。相変わらずお美しい。女の私なんて比べ物にならない。
だからこそ、嫌なのだ。こんなにも綺麗な彼のことを好きな女性なんて、ごまんといる。私がそうであり、他の文官や侍女も彼を敬愛し、好意を抱いているのだ。自分勝手な理由で仕事の邪魔をしたくない。だけど行ってほしくない。そもそも私たちは恋仲でもなんでもないのに、こんなことを考えていること自体がおかしい。ぐるぐると色々な考えや思いが巡り、爆発してしまうのではないかというほど胸が苦しかった。

「名前、言ってくださらないと分かりませんよ。」

「…っ…」

「名前」

「…ジャー、ファルさんは…」

ジャーファルさんは、シンドバットさまのように出先で女性と関係を持つのでしょうか。
絞り出した声は普段のそれと比べてすごく小さくなってしまったけれど、ジャーファルさんの耳にはしっかりと届いたようだ。
驚いたようにその瞳を見開かせた。

「名前」

「わああすみません、私はなんて無礼なことを…!」

「そんなに私が信用なりませんか?」

「へ…?」

ぽかん、と開いた口を見て、ジャーファルさんはおかしそうに笑って言った。

「私が出先で関係をもつなんて、あるわけないでしょう。シンじゃあるまいし」

少し困ったようにして笑ったジャーファルさんは、「何かあったのかと焦りましたよ」と私の頭を撫でた。優しい眼差しにぎゅっと胸が締め付けられる。
そうか、そうだよね。ジャーファルさんが出先の女性と関係を持つなんて、あるわけない。
ついさっきまで心配でならなかったのに、ジャーファルさんの一言で靄が晴れたみたい。単純だとも、彼の言葉は魔法のようだとも思った。

「そう、ですよね…!」

「はい。ですから、私たちが留守の間、しっかりとやるのですよ。」

「はい!」

「ふふ、期待しています。」

にこりと笑った顔が今まで見たどんな笑顔よりも素敵だったけど、今この笑顔を見ているのは私で他の誰でもないのだと考えたら、自然と頬が緩んでしまった。

明日から頑張ろう。
見果てぬ地で国を支えるジャーファルさんに、素敵な女性が現れぬよう祈りながら。

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小夏さまよりリクエスト。



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