01 気がついたときには、飛雄の全てが愛しかった。
朝の8時を少し回ったくらい、玄関外の門が開かれた音が聞こえてモニターを確認すれば、エナメルを肩にかけた飛雄がそこに立っていた。モニターをそのままに画面を指でスライドして、『解錠』をタップ。ガシャン。今度はその音を聞いた飛雄が、玄関の扉を開いて中に入ってくる。「はよ」とまだ少し眠たそうに欠伸をしながら目に涙を浮かべている彼に「おはよう」と微笑む。それから、キッチンで忙しなく動いているお母さんに飛雄が来たことを告げてから廊下に出れば、お母さんもすぐにわたしたちを送りにやって来た。
「飛雄くん、おはよう」
「はざます、」
「今日も名前をお願いね」
「うす」
座ってローファーを履くわたしの上で行われるそんな会話ももう聞き慣れてしまったけれど、それでも緩む頬を抑えられそうにない。人差し指を踵の隙間に滑り込ませながらきっとだらしなくなってるであろう自分の表情を想像して、小さく笑ってしまう。 今日から高校生になるというのに、いつまでたってもこのやりとりは変わらないし、たぶん、この先ずっと、飛雄とお母さんが顔を合わせる度に行われるだろう。これからずっと、ずっとだ。
「いってらっしゃい」
履きおえたばかりのローファーを、立ち上がってから数回爪先でとんとん、と整える。うん、大丈夫。 それを見計らって飛雄が玄関の扉を開く。丁寧にお母さんの顔を見て運動部らしい挨拶を返す飛雄に倣って、わたしもちゃんと顔を見て「いってきます」とつづいた。
玄関を出たあとにある門を、そっと飛雄が開く。 わたしがそこを通るまで門を押さえていてくれた彼は、わたしが通ったあとにガチャンと音を立ててそれを閉めて「行くぞ」と今度はわたしの鞄をするりとかすめとって肩にかけてしまった。
「ありがとう」
「…ん」
今日は入学式だから大して荷物は入ってはいないから、というか、いつも自分の鞄くらい自分で持てるのに、飛雄は中学の頃から、こうして自分のだけではなくわたしの分の鞄まで持ってくれる。もちろん毎日いつでもどこでも持たせているわけではないし、むしろわたしが飛雄のエナメルを持ちたいくらいなのだけれど、いつもしかめっ面で断られてしまう。「わたしってばそんなにひ弱に見える?」なんて、本当は分かっているのに知らない振りをしながら、家を出てからふたつめの角を曲がった。 飛雄の肩でゆらゆらと揺れるわたしの鞄のキーホルダーと飛雄の顔を交互に眺めて不釣り合いだなあなんて思うのも、もう何回目かな。 わたしよりも大きくなった背中を眺めるのも、車道側を歩いてくれるのも、わたしの歩幅に合わせて歩いてくれるのも、もう何年もそうしてきたのに、まだひとつひとつがじんわりと胸に染みていくみたいだ。しあわせだ、とっても。
「名前」
不意に、名前を呼ばれる。 ゆっくりと顔を上げて彼の顔を見上げれば、大きな目が少し細められて、それからそっとわたしの手をなぞったものだから、思わずそちらに視線を落としてしまう。飛雄は、優しく、丁寧に、壊れてしまわないように、いつものがさつな部分が目立つ彼からは想像もつかないほど、とても大切そうにわたしに触れる。 くすぐったい、いとしい、もっとさわりたい、さわってほしい、求めたい、惹かれてほしい、溺れてほしい、溺れていたい。たくさんの想いがごちゃまぜになって、いつも言葉がつかえてうまく言えなくて、わたしは結局「飛雄」と、それしか音にすることができなくて。するすると優しく触れてくる飛雄の手が好きで好きでたまらなくて、バレーボールに触れるときのあのまっすぐな瞳をわたしにも向けてくれることがとてつもなく嬉しくて。 飛雄のことになるといつも、いつも、わたしは、
「おい、名前、」
まるで微睡みの中にいるみたいにぽかぽかとする頭に、また飛雄の声が聞こえる。わたしが聞こえていないと思っているのかも。少しだけむすっとしたその声に「聞こえてるよ」と答えた。聞こえてる、だって、飛雄の声だもん。聞こえないわけない。 彼の声に促されるようにしてまた顔を上げれば、ちょうど自宅から少しだけ離れた通りまで来たみたいだ。早いなあ、もうこんなところまで来たんだ。 飛雄と一緒だといつも時間が駆け足しているみたいで、もっとゆっくりゆっくり、なんだったら巻き戻ってしまうくらいにのんびりと時を刻んでくれても構わないのにって、いつも思うの。
「…飛雄、」
「……名前、」
お互いの名前を呼び合うそれを合図にして、今度はなぞって触るだけじゃあなくて、わたしたちはどちからからでもなくそっと手のひらを重ね合わせてから、するりと指を絡めた。 いつものように手を繋ぐのも、身を寄せあって、会えなかった時間の分だけお互いを求め合うように見つめうのも、やっぱり親の前では少しだけ恥ずかしいからとお互いの家から少し離れたこの場所ですることになっているのだけれど、別に口に出して決めたことじゃなくて、ずっとずっと前から自然とそうなっていた。
「ふふ」
「…んだよ」
「ううん、なんでもない」
ぎゅうぎゅうって、まるでわたしを繋ぎとめておこうとするような、そんな風に握ってくれる飛雄が今日も愛しくてたまらなくて、わたしもきゅ、と握り返す。 その拍子にしゃらりと音を立てて手首で揺れたブレスレットに気づいたらしい飛雄が、「それ、」とブレスレットに視線をやる。
「そう。飛雄が買ってくれたの。似合うでしょ?」
「おう。……つか、選んだの俺だし」
似合わないわけ、ないだろ。 その言葉にくすぐったくなって、頬が緩む。 「そうだね、飛雄が選んでくれたんだもん」似合わないわけないよねって、そう言ったわたしの言葉にも、先程自分で言った言葉にもちょっと赤くなって口を尖らせて、飛雄はそっぽを向いてしまった。
中学のときはアクセサリー類は一切禁止だったから飛雄からもらったものはあまりつけられなかったけれど、高校は大分校則が緩くなる。アクセサリーだけじゃあなくてスマホやお菓子だって持っていけるし、それ以外にも許されることがたくさんある。それは私たちがもう分別のつかない子供ではなく、大人に一歩近づいた高校生だから。 学校指定の決められたカバンや、長めにしておきなさいと厳しく言われていたスカート丈、飾ることが許されなかった寂しい胸元や手首とは違う。 好みで選んだかわいいカバンに、長すぎず短すぎないほどよい丈のスカートに、彼からの愛がつまったかわいいアクセサリーで彩られた胸元や手首。 かわいくなりたいと思うのは女の子として当然のことだけれど、わたしの場合、それは自分のためじゃない。かわいくなりたいのも、かわいいって思われたいのも、ぜんぶぜんぶ飛雄のためだ。飛雄はそんなことは思ってないけれど、わたしが飛雄の隣にいるのにかわいい格好をしていたいし、そういう風に思われたい。結局は自己満足だ。 このブレスレットだってわたしが2つにまで絞って、飛雄にはその2つからひとつを選んで買ってもらっただけだけれど、飛雄が少しでもいいと思うものを身につけていたい。これも自己満足。 けれどわたしはそうやって生きてきた。 ぜんぶ、わたしの世界は飛雄を中心に回っている。 でもそれは、わたしだけじゃない。
「俺、今日から部活」
「うん、わかった」
「…帰りひとりで平気か?」
「やだなあ、わたしだってもう子供じゃないんだよ。大丈夫」
「そういうんじゃねえよ」
そういうんじゃなくて、ね。 飛雄が言いたいことも気にしていることも、ぜんぶぜんぶ分かっているけれど、それでもただ笑って言葉のつづきを言わせようとしてるわたしに気づいたのか、飛雄は不機嫌そうに口を少し尖らせるとぷい、とそっぽを向いてしまった。その時に揺れた黒い髪から覗く赤い耳。「……わかってんだろ」と拗ねたように言うものの、手だけは離さないと言わんばかりに力を込められて、またそこに愛しさを感じた。
「ごめんね、大丈夫だよ、飛雄」
「……」
「飛雄以外の男の子と帰ったりしないし、どこか寄るときはちゃんと連絡も入れるから」
「……遅くなるときも連絡しろよ。迎えに行く」
「うん、わかった」
「知らないやつにもついていくな」
「うん」
「……あと、」
「うん?」
「お前は、俺のだから」
忘れんなよ。
「……うん、」
やっぱり、しあわせ、だなあ。 それはまるで魔法のことばのように、甘ったるくて美味しいパンケーキみたいに、ふわふわして、くすぐったくて、それでもわたしと飛雄をつなぐには大切な、二人だけの合言葉みたいなものだった。
「で、俺はお前のだ」
「うん。わたしは飛雄ので、飛雄はわたしの」
「おう」
「今までも、これからも、ずっとそう」
「ああ、ずっと、」
不意に、飛雄の手が離れる。
「俺たちは、ずっと二人きりだ」
わたしたちの世界には、わたしたちしかいらない。 ずっと二人きり。二人だけの世界。 小学生の頃よりも、中学生の頃よりも、ずっと鋭くなった飛雄の目。鋭くて目つきは悪いのに、優しくて愛しいその目に囚われるといつもそらせなくなるの。
「名前、」
離れた手が頭を撫でて、髪をすいて、頬に添えられて。ここが道端とか学校の近くとか、そういうのは関係なくて、どちらからでもなく、わたしたちはそっと唇を重ねた。
(ひいては、きみを奪う世界なら、わたしは、)
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