03

「カイリューのことは任せてください。一晩休ませてあげましょう?…名前さんも、今日は休んでください。すぐにこの子に用意させますから。部屋だけじゃなくて、冷たいタオルと、温かいミルクも」


そう言ってにっこりと微笑むと、ジョーイさんはカウンターの奥から部屋番号のかかれた鍵をとりだして、それをラッキーに預けた。








カウンター脇にあった階段でポケモンセンターの2階に上りきったあと角を曲がれば、旅をする人たちのために設けられた個室の部屋がいくつか並んでいる。もう時間も時間だから、なるべく足音を立てないように歩く。
ポケモンセンターの宿泊施設は基本的にひとつの部屋に4人が寝泊まりできるようになっていて、宿泊客が多い日には知らない人と同じ部屋になることもある。はじめはいくら同性同士といってもそれは慣れないもので、いつもびくびくしながら眠りについていたのをよく覚えている。
けれど当時野宿するよりは断然ましだと思っていたし、緊張してばかりだったけれど、これをきっかけに知り合いになった人もいる。それに相手の旅について聞いたり、自分の体験を話したりするのは一人旅をしていた私にとってはとても楽しいものだった。これも、ポケモンセンターをよく利用していた理由に含まれていたと思う。

ちなみに何人かのグループで旅をしている場合、そのメンバーでジョーイさんに申請すれば、男女同士でも同じ部屋に寝泊まりすることができたりもする。他にも利用するにあたっていくつか守らなければならない規則はあるものの、ポケモンセンターでの宿泊はやはり野宿とは違って快適だ。野宿にも野宿の良さがあるけれど、ポケモンセンターにもポケモンセンターの良さがある。

もう夜も遅いしこの時期のセキチク近郊は急激に冷え込むから、ポケモンセンターを利用している人は多いはずだと、てっきり四人部屋に案内されるとばかり思っていたものだから、案内役をしてくれたラッキーが一人部屋の鍵を開けて中に私を通したときはとても驚いた。
けれど泣いていた私を気づかってそうしてくれたのだとしたら、もう感謝のしようがない。

中に入って、近くのテーブルに背負っていたリュックを下ろした。カントーのポケモンセンターはだいたいが同じ造りをしているから、旅の経験があり且つ私のように何度もポケモンセンターにお世話になった人だったら家同然に見慣れた風景だ。
思わず、懐かしさを感じる。
マサラの家も落ち着くけど、ここもいいなあ。


「ラッキー、案内してくれてありがとう。」


ここまで付き添ってくれたその子の頭を撫でる。
ラッキーは気持ち良さそうに目を細めて優しく鳴いたあと、礼儀正しく小さくお辞儀をして部屋から出ていった。

ラッキーが部屋から出ていったあとはそのままぼすん、と音を立てて真新しいシーツで整えられた綺麗なベッドに身を投じた。途端にシワをつくっていくそれを眺めながらため息を漏らせば、それを合図にポンポンと音を立ててライチュウとイーブイがボールから出てきてベッドで仰向けになる私の顔を覗き込んでくるものだから、思わず2匹をぎゅっと抱き寄せて柔らかい毛並みに顔を埋める。


「ライチュウ、イーブイ、みんなも、心配かけてごめんね」


せっかく長かった旅が終わってようやくのんびりと暮らせていたのに、勝手な都合でみんなを連れ出してきてしまったことが申し訳なくてたまらない。
ライチュウとイーブイがくりんくりんの瞳を悲しげに滲ませて、みんなもボールをかたかたと揺らしている。そうしているうちにどんどん涙声になっていく私を慰めるかのように、ライチュウが頬を寄せてきた。「ごめん、ごめんね、こんなトレーナーで、ごめん」もう、それ以外に言葉は出てこなかった。

グリーンに迷惑だけはかけたくなかった。
いつもいつも私のことで振り回されてばかりだったから、守られてばかりだったから、せめて迷惑だけはかけまいとバトルも一生懸命練習してそれなりに強くなった。レッドやグリーンにはおよばなかったけれど。
それでも強くなったのに、せっかく好きだって言ってもらえて幼なじみから恋人になれたのに、結局私は彼に何も返せなくて、むしろ今日のことで余計に迷惑をかけてしまったのだと思うと悲しくてたまらない。全部私が悪い。勝手な私が悪い。悪いのは全部私なのに、悲しくて泣いているなんて、自分のそういうところがとにかく嫌いだ。
もういっそのこと、カントーから出ていってしまおうか。


「きゃう!」


ぐるぐると渦のように渦巻くグリーンに対する申し訳なさと自分への不甲斐なさにまた涙が溢れようとした、その時だった。
そっと寄り添ってくれていたイーブイが声を上げてテーブルにあるリュックの元へ向かい、そうしてたどり着いたそこでもう一度私に振り返った。
と、リュックの中から微かに聞こえる電子音。
あ、ポケギア鳴ってる。その電子音に反射的にからだを起こしてライチュウをひとなでしたあと、教えてくれたイーブイにお礼を言った。


「(こんな時間に、)」


そのときにちらりと壁にかかった時計を見れば、ちょうど11時を越したところだった。
結構な時間だから出るのが少しためらわれたけれど、それを決めるのは相手を確認してからでもいいだろうとお目当てのポケギアをリュックからさぐりあて、画面に映った着信相手を見る。「あ!」そういえば、連絡入れるの忘れてた!ポケギアの画面には『お母さん』と表示されていて、まあ心配はされていないとは思うけど、さすがに何も言わずに旅に出るのはまずいだろうと慌ててそれに応えた。


「もしもし、お母さん?」


『あら、ようやく出たわね』


コールしても出ないから、もう寝ちゃったのかと思ったわ。
朝方聞いたばかりのお母さんの声に、なんだか懐かしさを感じる。「ごめんね、色々あって」声が震えていないかとか、涙声になっていないかとか、私はすごく色々なことを気にしながら一言ひとこと発するのに必死になっているのに、ポケギア越しに聞こえる芸人の声やら笑い声からして、お母さんはテレビを見ながら私と話しているようだった。この時間はたしか、お母さんが毎週楽しみにしている深夜放送のお笑い番組がやっている。旅をしていたからといって一人娘がこんな時間まで帰ってこないというのに、お母さんらしいや。グリーンやナナミさんや博士、それからレッドやブルー、他の図鑑所有者だって呆れるくらいうちのお母さんは放任主義で、今だってそんなに心配してないんだろうなってことくらいはすぐに分かった。


『今日はずいぶんと遅いのね。もうグリーンくんのところは出たんでしょう?』


「あー…うん、あの、ね、お母さん」


けれど、それは何も言わずにまた旅に出ていいというわけではない。
言わなきゃ、と思えば思うほどうまく言葉にならなくて、お母さんと通話を始めてからどのくらい経ったかは分からないけれど、私はゆっくりと口を開いた。


「ごめん、こんな形になっちゃってあれなんだけど、私また旅に出ることにしたんだ」


よし、言えた!
思わずポケギアを持つ手に力が入る。
いくら心配しないと分かっていても、やっぱり親に改まって何か言うのは緊張する。


『そう、ずいぶんと急ね』


「まぁ、ね。ごめん、お父さんにも伝えておいて」


『分かったわ。ああ、そうそう、名前』


「んー?」


『さっきグリーンくんが家に来てね、名前帰ってきてませんかって聞かれたのよ』


「え、……それで?」


『帰ってないって言ったわよ?もちろん連絡もないって。そうしたらグリーンくん、名前が帰ったら連絡くださいって。会って話さなきゃならないことがあるって、言ってたわ』


「……、……」


『喧嘩でもしたの?』


「……そ、んな、かんじ」


『あらそう』


お母さんはあくまで興味はないといった様子だった。私とグリーンが付き合っていたことは知っているはずだけれど、もともと私のすることにあまり干渉しない人だったから、ロケット団と戦った時もしかしたら死んじゃうかもしれないのに、だんだんと涙声になっていく私に『それで?帰りはいつなの?』なんて聞いてくる始末だ。下手をしたら殺されるって話したばかりだったのに、そんなことを言ってくるなんて、普通私をとめるでしょ!とめられても行くけど!ってひとこと言ってやろうかと思ったら、横から誰かが割り込んできて、私は通信機の前からどかされてしまった。え、って、声をもらしたときには、グリーンが、お母さんと通話していた。


「おばさん」


『あら、グリーンくん』


「名前は、責任持って俺がマサラに連れて帰ります。」


『そう、それなら安心ね』


「…すみません、こいつを巻き込んで」


『あらあらいいのよ。名前とあなたたちの旅だもの。わたしがどうこう言うことじゃないわ。』


「…、…絶対に、」


『……』


「絶対に、名前は、俺が守ります。」


『…ええ、よろしくね』


あのときの二人の会話は、今でもよく思い出せる。
通話を切ったあとなんだかくすぐったくて、きゅっと胸を締めつけられる感じがして、グリーンはそんな私の手をそっと握ると、もう一度、謝った。
「巻き込んで悪かったな」って、そう、謝ったの。
グリーンのせいじゃなかったのに。私が勝手に首をつっこんだだけなのに。


「…ねえお母さん」


『なに?』


「今度は死ぬかもしれないなんて危ない旅じゃないし、…いや、そもそもロケット団と関わったのだって不本意で、ポケモンを利用して好き勝手するのが許せなくて、だから博士や他の図鑑所有者と一緒に戦ったし、後悔はしてない。…でも、今回の旅はいつ終わるか分からない。自分の踏ん切りがつくまで、続けたい。それが何年かかったとしても」


グリーンのことを忘れられるまで、私は、マサラには帰らない。
幼い頃からたくさんの思い出を共にしてきたから、この気持ちをなかったことにするにはとても時間がかかるけれど、それでも、私は、


『ねえ、名前、』


「…、ん?なあに?」


『お母さんは、あなたが何をしようと、止めはしないわ。あなたの人生だもの。だから今までだってグリーンくんと何かあったときや旅先で失敗したときも、お母さんは慰めたりなんかしなかったでしょう?』


「……うん、」


『もともと旅に出すときだって大切な一人娘なんだからって、わたしよりも周りがあなたを心配していたぐらいだったもの』


「…そう、だったね」


『ナナミちゃんなんて泣いてたわよね。グリーンくんのときは寂しさはあっても笑って送り出していたのに、やっぱり男の子と女の子じゃあ違うのかしら。』


「………」


『あなたの人生なんだから、思うようにやりなさい。途中で投げ出してもお母さんは責めないわ。それが後々何か大きな失敗や挫折に繋がるようなことだとしても、何も言わないし、何もしない。だから、グリーンにも連絡はきてないし居場所も知らないって伝えておくわ。ただね、名前』


「ん、」


『あなたについていった子たちだけは、絶対に後悔させちゃダメよ』


こちらを見つめるライチュウやイーブイ、それからボールに入ったままのみんなを撫でながら、私が旅に出ると決めたときも、同じこと言われたなあって、また少し懐かしくなる。


「……うん、わかってる」


絶対に、後悔なんてさせないから。


『なら、もう何も言うことないわ。』


『早く仲直りするのよ。お母さんまだ忙しいから、もう切るわね』なんて、自分の母親ながらとってもマイペースだなって思うけれど、それがひどく心地いい。「うん、また連絡する。おやすみ」通信を切ったポケギアを、そっとリュックの隣に置いた。


「きゅー」


私が通話を終わらせたのを見て、ライチュウが頬っぺたをすり寄せてくる。先程まで起きていたらしいイーブイはもうすでに眠たいのか首をこっくり傾けていて、「ごめんね、もう寝ようか」とベット近くに畳まれていたブランケットを持ってきてイーブイにかけた。ライチュウにも同じブランケットをかけようとしたけれど、それまで垂れていた耳がぴくりと動く。と、同時に扉をノックする音。


「え、あ、はい!」


私もこの先また同じようにポケモンセンターに泊まれるとは限らないから(移動中夜までにポケモンセンターに辿り着けない場合とか)、入れるときにお風呂に入ってしまおうと浴室に向かう準備を始めたときだ。耳を立てたライチュウは廊下へと繋がる扉の前まで行くと、もう一度私を見て鳴いた。
誰か来たのかなって、ライチュウに急かされて廊下に出る。ひんやりと冷気の満ちた廊下にに、スリッパ越しでも伝わる冷たさ。思わず身震いした。


「あれ、誰もいない…?」


でも、ノックされたよね?
…え、まさか、ゆ、ゆゆ、ゆゆゆゆうれ…


「きゅ」


さっと青ざめて早いところ部屋に戻ろうとすると、まるでこっちだよとでも言っているように鳴かれて、足元にいるライチュウを見下ろす。と、部屋の扉の脇に非常灯と淡いオレンジの光に照らされた木製のお盆の上にタオルと並々とミルクの入ったコップが置かれているのが目に入った。そういえば、ジョーイさんが用意してくれるって言ってた。じゃあさっきのノックはジョーイさんか!よ、よかった幽霊じゃなかった!
ほっと安心したあと、しゃがんでそのお盆を手にとるとミルクがまだ温かいのが分かる。あれ、でもジョーイさんはなんでいないんだろう?ノックもしていたし、ついさっきまではいたんだよね?こんな時間になっても忙しいのかな?いや、私なんか構ってもらえるほどのものでもないからいいんだけど…。
と、そのお盆の横に折り畳まれていた紙が添えられていることに気づいた。開いてみると、綺麗な文字が並んでいる。


『お話し中のようでしたので。おやすみなさい』


その文字の羅列を見てまた涙腺が緩む。
さっきまで私が通話していたから、気を使ってくれたんだ。でもそれだけじゃなくて、ミルクが冷めてしまうから、タイミングをみてノックで知らせてくれた。今度は悲しいからでも悔しいからでもない。
ジョーイさんの優しさに、涙が溢れた。