夜こっそりと家を抜け出して、閑寂な住宅街を小走りする。厚着のコートやマフラーは意味がなく、体の芯がすっかり冷えてしまった。タオルやらカイロやらは鞄に押し込み、ただひたすら目的地を目指す。今頃あいつどうしてるかなとか、準備できてるかなとか。らしくないけど色んなことを考えて何回も確認してどきどきして。本当に振り回されてばっかだと思う。だけどそれでも、俺はあいつが好きなんだ。

「(……早く、会いたい…)」

吐いた息は白くなり、澄んだ空気に溶けていった。





こんな夜中なのにご苦労だな。そう思うくらいナースステーションは明るく、話し声が聞こえた。すみませんと心の中で謝罪し、カウンターの下を音を立てずに通り抜ける。角の階段を静かに上り、調べに調べた通りナースが通過するのをじっと待った。この日のために何日も前からあいつは見回りの週番を確認してくれたんだから、失敗して家に帰されるなんてまっぴらごめんだ。二人目のナースが目の前を通りすぎる。このあとは明け方に一度巡回するだけなので、時間は十分にある。再び階段を上がり、右に曲がる。行き慣れた病室が視界に入れば、自然と足が早くなった。

「……木吉、きた」

聞こえるか分からないくらいの小さな声で呟けば、中から物音がする。そっと扉を開いて中に入ると、俺と同じくコートとマフラーをした木吉がベッドに腰かけていた。一度視線を絡み合わせてから、端に置いてある車椅子を近くまで持っていく。そこに木吉が座り、俺たちは病室を出た。

足音ひとつ聞こえない廊下に、カラカラと車椅子の音が響く。周囲に人はいないから、多分平気だ。近くのエレベーターを横切って階段まで行く。エレベーターは使うとばれるから、階段で行こうという手筈だ。立て掛けておいた松葉杖を木吉に握らせて先に階段を上らせる。その間に俺は車椅子を畳んで物陰に隠して、見えないようにカモフラージュをした。よし、完璧。ふと視線を感じ顔を見上げると、木吉がこちらをじっと見つめていた。

「平気か?」

「何が」

「無理、させてないか」

「いちいち確認すんな、だぁほ」

大丈夫だよ。そう呟けば、あいつは薄く微笑んで再び階段を上りだす。先に行って人がいないか確認しないと。小走りで階段をかけ上がり、木吉を追い抜いた。よし、誰もいないな。確認してから木吉を支えてただひたすら階段を登る。静かな院内に、二人分の小さな足音が響いた。





やっとの思いでついた扉に、そっと触れた。ひんやりとした感触が指の先から体を冷やす。まだ院内だというのに吐息が白い。後ろで木吉がマフラーをしなおすのが分かった。

ドアノブを握り、一息吐く。力を込めて押せば、ゆっくりと扉は開いた。風が吹き抜けて頬を撫でる。そこは屋上で、澄んだ夜空に眩い星たちが輝いていた。普段来るのにこんなに時間はかからないが、二人で来ることに意味があるのだ。真ん中まで歩いていき、そこに腰をおろす。同じようにして木吉も俺の背中に自身の背中を預け、そこに座った。
しんとする空気の中、先に口を開いたのは木吉だった。

「流星、」

「もうちょっとしたら見れるはずだ。我慢しろ」

「違くて。何お願いする?」

そんなことを聞かれて、頭に浮かんだのは部活のことだった。
もっと部費を増やしてほしいだとか、カントクの料理下手が直りますようにだとか。あとはもうすぐ入ってくる一年生に有望なヤツがいますようにとか。たくさん思い浮かべるけど、でもやっぱり、

「……鉄平の怪我、早く治りますように、とか」

言っていたら恥ずかしくなってつい下を向いてしまう。俺の言葉に木吉は何も言わず、再び静寂が辺りを支配する。

「だめだ」

「…、え?」

「順平の願い事、そんなことに使っちゃだめだ」

「っ、そんなことってなんだよっ!」

不意に手を握ってくるからどきっとしたのに、なんでそんなことを言うんだ。
お前にとっては大したことじゃなくても、俺にとってはすごく大切なことでできることなら明日にでも叶えさせたいことで。

「じゅん、」

「お、俺が早く治したいって思っちゃだめなのかよ!大体お前はいつもっ…」

「じゅん、ありがとう」

泣きそうな声でそんなことを言うから、表情は分からなくても胸が締め付けられた。俺もなんて返したらいいか分からなくて、ぐっと押し黙る。
そのとき「あ!」という声につられて、はっと空を見上げる。刹那、光線の如く空を駆けめぐる流星が視界に入った。一瞬息をするのも忘れて、次々と光るそれが流れるのをただ見つめる。ほんの数分のはずが何時間にも感じる。それほどまでに見入っていたのだと実感したのは、ひとしきり流れたあとだった。

「何を願った?」

「あ、忘れた」

「だと思ったよ」

ははっと乾いた笑いをされ、さっきまでこいつのことを願おうとしていたのにそれを忘れるなんてと悔しくなった。
そんな自分が情けなくて、それを隠すように木吉の手を強く握り返す。

「鉄平は、」

「ん?」

「鉄平は、何を願ったんだよ?」

俺の言葉を聞いた木吉は柔らかく微笑むと、身を翻して俺に腕をまわした。

「順平と、ずっと一緒にいたいってお願いした」

「…だぁほ、ずっとどころか生まれ変わっても一緒だ」

まわされた腕に触れて、俺も身をよじらせる。振り向いて首に腕を巻けば、さらに強い力で抱きしめられた。

なんで、こんなに優しいヤツが怪我なんてしてしまうんだろう。
なんで、こんなにつらい思いをしなくてはならないんだろう。
なんで、助けられないんだろう。

抑えきれなくなった涙はとまることを知らず溢れつづけ、それを拭ってくれるのは優しい顔をした木吉だった。



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