※クロ月 兎赤前提の赤月表現あり







「赤葦さん、僕と、浮気してくれませんか」


今晩はやけ酒だと買ってきた大量の酒やつまみもほとんどが底をつき、時間も男女、この場合は男同士だけれど営みをするのには最適な頃合い。部屋で男二人きり。そして互いに傷心中とあらば、何も起こらないほうがおかしいと僕は思う。きっと前なら、黒尾さんと付き合う前なら、むしろ何も起こらないことが普通だと当たり前のように思っていたのに、僕はもうあの頃とは何もかも変わってしまった。まったくどうしてくれるんだ。「責任とってください」「…それって、俺と付き合ってくれるってこと?」平然を装いつつも動揺と興奮は垣間見え、さらに少し赤みを帯びた頬にあの熱っぽい視線。あのときの黒尾さんはまだしっかりと僕を好きでいてくれて、しっかりと僕を手放さないでくれていたのに今ではどうだ。そこら辺の女をとっかえひっかえしながら毎晩ホテルに通いつめて、そのくせさも当たり前かのように彼氏面をして僕をも抱く。まあ、最近はもうそれすらもないに等しいけれど。

今晩だってきっとどこかで女を喘がせているんだろう。ならば僕が黒尾さんではない男に抱かれたり抱いたりしようが文句は言えないはずだ。今から僕が赤葦さんとセックスして、しかもそれが僕から持ちかけたなんて知ったら黒尾さんは驚くだろうか。都合がいいと僕を捨てるだろうか。それでも、女を触った手で、まるで女を撫でるときと同じように愛撫をされるあの感触を少しでも忘れることができるのならば。黒尾さんの浮気を黙認しては感じる胸の痛みをなかったことにできるのらば、どうだっていいし、なんだっていいのだ。もう色々と、限界だった。


「おねがい、赤葦さん」


テーブルを挟んで向こう側にいる赤葦さんが、コトン、と飲みかけの缶ビールをそこに置く。
それからうっすらと膜を張らせた瞳を少しだけ細めてから、切なそうに小さく笑った。


「いいよ」


「…っ、わ、あか、あしさ…!」


「ちゃんと、黒尾さんのこと忘れさせてあげるから、だから、」


俺も、木兎さんのこと忘れさせて。
耳元でとても悲しそうな声が聞こえたその瞬間、噛みつくような勢いで唇を塞がれた。ああ、また僕が下か、と思ったけど黒尾さんのせいで弄られることの快感やもどかしさにすっかりはまってしまっていたためかあまり抵抗はなく、むしろそうなることが自然のようにも思えた。ゆっくりとからだが倒されて、カーペットに背中をつける。赤葦さんはまだ唇を貪っていた。


「っふ、っ、あかあしさ、」


「月島、声聞かせて。ね?」


ぐちゅぐちゅと音を立てていた舌がゆっくりと抜かれる。酸素が足りないのか久しぶりの感触に酔っているのか、あまり働いてはくれない頭をなんとか動かして僕に跨がる赤葦さんを見上げた。


「ごめん、月島」


こんなことになって、ごめん。
それは僕から持ちかけたことのはずなのに、赤葦さんは、それからずっと謝りつづけていた。










そこからはよく覚えていない。久しぶりのそういった行為で、相手は赤葦さんで。気持ちよかったはずなのに思い出すのは泣きながらひたすら謝りつづける赤葦さんと黒尾さんのことばかりで、黒尾さんに関してはなんだか余計に傷を抉られたようだった。
だから赤葦さんも泣いてしまったのかもしれない。それは、僕が赤葦さんではなく黒尾さんのことはがりに気がいっていたからというわけではない。ただ単に赤葦さんも目の前で喘ぐ僕じゃあなくて、きっと木兎さんのことで頭がいっぱいだったから。僕に黒尾さんを忘れさせてくれると言って、赤葦さんも木兎さんのことを忘れるようにすると言っていたのにも関わらず忘れることができなかったから。
これ以上僕といてもそんな悲しい顔しかさせてあげられないのならば、僕はもう帰ったほうがいい。それは僕自身の判断だった。それに赤葦さん本人もあのまま僕が家に泊まることに気乗しないようだったし、適当な理由をつけて「じゃあ、帰ります」とひとことだけ残して赤葦さんの家を出た。
まあ赤葦さんにとってもそのほうが気が楽だろうし僕もひとりになったほうがいいと思ってたから、ちょうどいい。そうしたら赤葦さんはまた「ごめんな」と謝って、家の近くまで僕を送ってくれた。ほんとうに、あの人たちはどこまで僕らを振りまわせば気がすむんだろう。「どこまでいったってきっと、俺は木兎さんの傀儡でしかないから」僕には木兎さんが赤葦さんをそんな風に思ってるだなんて思えなかったけど、赤葦さんの悲しそうに笑うその表情を見ていたら何も言えなくなってしまった。「僕も、そうなんですかね」赤葦さんは、何も言わなかった。

赤葦さんと別れてからはどこにも寄らずにまっすぐ自宅へ帰った。もう時間も時間だし、なるべく音を立てずに階段を踏む。静まり返ったマンションの階段を上りきり、廊下に出てすぐの角を曲がると、すでに深夜だというのにも関わらず まだひとつだけ明かりの灯る部屋が目に入った。言わずもがな、僕と、黒尾さんの部屋だ。
けれど明かりが灯っている、ということは、


「(黒尾さん、帰ってきてる)」


今朝たしかに仕事で遅くなるとは言っていたけれどまさか本当に仕事だったとは思っていなくて、思わず目を見開いた。
けれど僕は何も疚しいことはしていないし、しているのならむしろ向こうのほうだ。まあ、色々あって赤葦には抱いてもらったけれど。そこはおあいこなのだから目をつむってもらわなければ不公平だと思う。


「…ただいま帰りました」





「…っ、蛍!!」


鞄から取り出した鍵でドアを開けてから少し声を出せば、リビングの向こうからドタバタと騒がしい足音が聞こえてきて顔をしかめた。「静かにしてください」靴を脱いで棚に入れたあと後ろ手で鍵を閉めてから、先程赤葦さんのところへ行くために脱いでいったスリッパに足を通す。「蛍!」再び聞こえた声はもうすぐそこで、視界にちらりとスエットが映ったけれどなんだか今は上手く黒尾さんの顔を見れる気がしなくて、そちらには顔を向けずに「なんですか」とひとこと。それから、深夜なんだからそんな大声出したら近所迷惑になりますよ、とつづけて口を開こうとしたけれど突然背中に走った衝撃にそれはならなかった。


「…っい、た…」


何が起きたのか、よくわからなかった。


「………蛍、お前今までどこに行ってた」


いつもよりも何倍も低い声に、意図的に下げていた視線を上げる。まず最初に目に入ったのは、僕の胸ぐらを掴む黒尾さんの手だった。それから先程の衝撃によってじんじんと痛む背中と、そこから感じる冷たい感触。ここまでで僕は黒尾さんによって壁に、それもかなり強い力で打ちつけられたと、起こったことは理解したけれど彼をそうさせてしまった原因はさっぱり分からなかった。


「答えろ、蛍」


少し遅く帰ったぐらいで、どうしてここまでされないといけないんだ。黒尾さんだって平気で朝帰りするくせに。僕に文句のひとつも言わせないくせに。
突然打ちつけられたことや理不尽に怒られているというこの状況に、ふつふつと怒りがこみ上げてくるのを感じた。僕ばっかり、どうしてこんな目にあって、惨めな思いまでしなくちゃならないんだ。
胸ぐらを掴んでいる手から上へ上へとたどって徐々に視線を上げていく。

かちり、と視線が交わった。


「もう一度聞く。今までどこに行って、何をしていた」


「…」


どこって、赤葦さんのところですけど。
何って、そこでセックスしてましたけど。


「…どこだって、いいじゃないですか」


僕がどこで何しようと、どうでもいいじゃないですか。


「よくねェよ」


鋭い声が、耳に刺さる。
鋭いのは声だけじゃない。元々大きいとはいえない黒尾さんの目が、さらに細く、それこそ鋭さをもって僕を射抜いているみたいで、いや実際そうなのだけれど、それがとてつもなく居心地が悪く感じられた。まあ体勢が体勢なのも、さらにはないに等しいけれど僕自身が赤葦さんとセックスしたことに対してやはりどこが罪悪感を感じているせいなのか、はたまた表情に出してはいないものの今までずっと溜めこんできた色んな感情が一気に押し寄せて綯い交ぜになっていることも含めて、全てが居心地の悪さを感じさせる原因なのだと思う。そこにはきっと、黒尾さんと一緒にいることも、含まれる。


「よくねぇってば、なぁ、蛍、」


「ッ、ちょっと、何こんなところで盛ってんですか、わ、」


「蛍、俺がどれだけ心配したと思ってんだよ」


知るわけがない。だって、黒尾さんだって僕のことを知っている振りだけして本当は何も知らないんだから、僕も黒尾さんのこと知りたいだなんて思えないし思いたくもない。
心配?それは自分の浮気がばれてないかどうかの心配?僕がどこへ行ってた?何をしてた?知ったところで、あなたは何をするんです?僕のために何をしてくれるんです?
結局僕とセックスして、喘がせて、気持ちよくさせてやればいいって、そう思ってるんでしょ。


「俺、まだ怒ってんだからな」


先程の鋭さは健在だ。その上さらに熱を孕んだ目で、黒尾さんは僕をじっと見つめたあと「ぜってぇ優しくしてやんねーから」となんとまぁ物騒なことを呟いてその顔を僕の首筋に埋めた。
瞬間、首筋に走るチリッとした痛みに思わず顔を歪める。うわ、いまぜったい痕つけられた。


「けい」


ねっとりとした声だった。横目で僕の顔を見て満足そうに微笑んだ黒尾さんだけれど、まだまだ怒りは静まっていないようで 胸ぐらを掴んだり腕を拘束する手からは決して力を抜いてはくれない。くちゅくちゅとした水音と一瞬だけ走る痛みが交互に脳を刺激していく。ほんと、こういうことだけはやたらと上手いんだから、この人は。
何度も何度もそんなことを繰り返されてさすがに欲情しないなんてことはなく、ましてや相手は僕の身体を知り尽くした黒尾さんなのだから、欲情しないなんてことはできなくて、壁に添えていただけの腕をゆっくりと動かして彼の背中に這わせた。「んだよ、そんなことしても優しくしねーぞ」「勝手にしてください」「…ふうん」僕の返答に納得がいったのかいってないのかよく分からないけれど、多分後者だ。腕を回した途端激しくなるそれに、思わず声を漏らす。「掴まってれば」黒尾さんの声に促されるまま、さらにぎゅっと腕に力を込めた。それから、砕けそうになる腰に出来る限り力を込めて、けれどやはり半分もたれかかるようにして、黒尾さんの首元に顔を埋めた、けれど、


「(あれ)」


黒尾さんによってどろどろに溶かされた頭に冷水をぶっかけられたかのような、今までどんなに浮気をされようが僕はまだ黒尾さんが好きなんだと麻痺させられていた感覚がすっとなくなっていくような、そんな感じだった。黒尾さんも僕の異変に気づいたのか「どうした」なんて尋ねてくる。いや、どうしたじゃなくて、首元から香るこの匂いは、いつものように僕を安心させてくれるような落ち着いた匂いじゃなくて、


「(……あ、そうだ、この匂い、)」


甘ったるくて、それでも僕が好きなケーキや甘味のように胸踊るようなものではなく、むせてしまいそうなほどにきつくて酔ってしまいそうな匂い。
まるで、女物の、香水のような―――


「っやめてください!!!」


鼻を掠めるそれが女物の香水の匂いで、当たり前ながらその出所が黒尾さんとだと気づいた瞬間、首筋に顔を埋めていた彼を思い切り突き飛ばした。
ガンッと鈍い音がして黒尾さんは反対側の壁に背中を打ちつけたみたいだったけれど生憎僕にはそれを気にする余裕や、ましてや謝罪しようなんて気は微塵もなかった。

それにしたってまさか僕に突き飛ばされるなんて思っていなかったのか、黒尾さんは驚いたようだったけれど、すぐに不機嫌、というか完全にキレて、今にも噛みつきそうな勢いでこちらを睨んだ。


「…どういうつもりだよ、蛍」


どういうつもり?
そんなのはこっちが聞きたいくらいだ。
少しでも気を許してしまった僕が悪かったんだ。
普段そこら辺の女を適当に抱いてまわって、本当に時間が重なったときだけに僕に手を出して、仕事かと思っていたのに結局きちんとそういうことをしていたわけで。
まさか、自分が浮気していることに僕が気づいてないとでも思っているのか。いや、気づいていても黙認してまで自分にすがっているバカな男だと嘲笑っているんだ。そうに違いない。
そういう男なのだ。黒尾鉄朗は。あのとき眩しいくらいの笑みを浮かべていた、僕が心から愛した黒尾さんはもう、どこにもいないのだ。


「…しょう」


「あ?」







「別れましょう」


口に出してから、しまった、と思ったのと同時にやっと黒尾さんから逃れられるとひどく安心した自分がいた。安堵を覚えたとき自分のことながらも少々驚いたけれど決して顔には出さず、もう一度、今度ははっきり、ちゃんと黒尾さんの目を見て言う。「僕と、別れてください」するとどうだろうか。黒尾さんの目が大きく見開かれて、途端にくしゃり、と苦しそうに表情を歪めるでないか。どうして、そんな顔をするんだろう。「けい、」どうして、そんな声で呼ぶんだろう。「けい、おれは、」どうして、目に涙なんてためてるんだろう。


「っ、」


あ、だめだ、これ以上この人といたら、ぼくは、


「っけい!!」


緩んでいた黒尾さんの手を全力で振り払った。そしてそのままの勢いで玄関へ走る。そうしたらまたすぐ後ろで僕の名前を呼ぶ悲しげな声が聞こえた。
夜中だからとか、近所迷惑だとか、さっき黒尾さんに言おうとしていたことも全部気にしている余裕はなくて、脱いだばかりの靴に足を通して再び外へ飛び出た。
最後にこのドアを閉めれば、僕はもう、黒尾さんの恋人でもなくなるし、このままだとただの先輩後輩に戻ることさえ難しくなると思う。それでも、これ以上黒尾さんと離れられなくなる前に、あんな最低な男のことなんて忘れてしまいたくて。早く早くと焦る心を落ち着かせようとするけれどあまり意味はなく、滲む汗も普段のロードワークに比べたらどうってことない、運動にすらなっていない黒尾さんから逃げるというこの動きでもどくどくと脈打つこの心臓も、全部をなぎはらうようにして持てる全ての力でドアにからだを押しつける。


「待ってくれ、け―――」


最後に、黒尾さんから伸ばされる手を目に焼きつけて、僕はもう二度と開けることのないドアの向こう側に黒尾さん、そして胸にじわりと走る痛みもあの頃の淡い想いも何もかもを残して 再び夜の街に駆け出した。





―――――――

友人の誕生日に合わせて書いていたんですけど間に合いませんでした…



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