27 似た者同士でたくさん話しました。

今朝は朝練もなく、そういう日はぎりぎりまで寝てから学校へ行くという謙也くんのために朝食を作ってラップをし、私はいつもよりも少し早めに家を出た。ロッカーから置き勉している教科書や辞書なんかを抱えて階段を上り、自分の机にどさりと置いてから美琴ちゃんにおはようと挨拶。財前くんはまだ来ていないらしくて、美琴ちゃんは少し退屈そうにしていたけれど用事があるから始業ぎりぎりに戻るとだけ言って私は2年生の階へと足を運んだ。


「一氏先輩はいますか?」


教室の後ろにある扉の近くに座る女の先輩にそっと声をかければ、彼女は読んでいた小説から目を離して「一氏?」と確認するように一言言ってから、教室を見渡して窓際の席へと歩いていく。
2年生の教室、というより上級生の教室はいつ来ても落ち着かない。中学のときからそうだったのだけれど、なんだか場違いだと言われているような、そんな気がしてならなかった。実際上級生はそんなことを考えてはいないのだけれど、それでも物珍しそうにこちらに視線をやる人も少なくはなくて、さらに呼び出した相手がテニス部として名が知れている一氏先輩ならば余計に目立ってしまう。先程からちらちらと見られているのを意識せずにはいられない。勇気を出して来たというのに、だんだんいづらくなってしまった。


「一氏、あんたに女の子の後輩来てるで」


「……後輩?」


そんなやりとりが聞こえて、いつのまにか下げてしまっていた視線を上げる。女の先輩と、それから、眠たそうに目元を擦る一氏先輩。
謙也くんから朝練のない日も一氏先輩はいつも通り早めに学校に来て自席で寝ていると聞いていたのでこうして来てみたわけだが、話したい内容がいまいちまとまっていない。さてここからだ、と深呼吸をした私。一氏先輩は、そんな私を見て驚いたように目を見開いた。
それから、ゆっくりと立ち上がってこちらに歩む。その間先輩はじっと私を見ていたけれど、その視線には居心地が悪くなるような鋭さはなく、昨日のそれとは大違いだった。
呼びにいってくださった先輩にありがとうございましたとお礼を言ってから、先輩に向き直る。


「……なんや、なんか用か」


「あっ、あの、昨日のことで少しお話が…」


「あー…」


先輩が視線を泳がせながらがしがしと頭を掻く。それから少し唸ったかと思えば、「場所、変えよか」と私にあとを着いてくるように促して歩き出してしまった。
周りの、主に女の先輩からの視線が激しく痛い。先輩自身もすごくモテるけれど、一氏先輩と小春先輩の漫才も人気でそういったファンも多いのだと謙也くんが言っていた。最早帰りたいとも思ったが、ここまで来たのだから何も言わず帰るわけにもいかないし、逃げないと決めたばかりなのだから逃げるわけにもいかない。ここで逃げたら、昨日あれだけ迷惑をかけた謙也くんに合わせる顔がない。
そもそも私はテニス部のマネージャーであるわけで、そのテニス部である一氏先輩と話していても部活のことだと思ってくれる、はず。
よ、よし、女は度胸だ!


「ここならええやろ」


「…あ」


ついた先は、昨日の会議室だった。「鍵、空いてたんだ」と思わずこぼせば、先輩は「さっきまで職員会議やってたんよ。終わってから15分くらいなら開いとるんや」とご丁寧に説明してくださった。


「で?」


その「で?」にどんな意味がこもっているのか、考えないでも分かる。私も先輩も分かってる。分かってるから私はすべきことをしなければならないし、だからこそ先輩はこの会議室まで連れてきてくれたんだ。
一度大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。それから逸らしていた視線を上げて先輩の目をしっかりと見据える。


「昨日はほんとうに、すみませんでした」


「………」


「先輩にすごく失礼なことを言ってしまって、私謝りたくて来たんです。ほんとうに、すみま、」


「待てや」


頭を深く下げようとしたところで、先輩の声がそれを遮る。恐る恐るといった感じで先輩を見上げれば、一氏先輩は昨日ここで見た、なんともいえない表情をしていた。


「(また、あの表情だ)」


先輩のその表情は、脳裏から離れようとしない、私が最後に見た和成の表情を連想させる。
いったい いつになったら私は、和成を忘れることができるのだろう。いやきっと、忘れることなんてできない。和成のことはきっとこれからもずっと好きで、和成以外の人と付き合うことなんて絶対にないから必然的に生涯孤独を突き通すのかもしれない。それはそれでいい、いいんだ。だって私は、ほんとうに、和成以外にこんな感情を抱くことはできない。仮に大切な人ができたとしても、それは私の一番じゃない。分かっているのに忘れようと、そんな彼のためにならないと痛いほど分かっているつもりなのに和成と会って楽になりたいと思ってしまう自分がいる。この間の電話越しに聞いた和成の声が今でも頭に残ってる。私、すごく嫌な女だ。

和成を忘れることはできない。それでも色んな人の何気ない仕草や表情に彼を重ねて、今もこんな風に泣きそうになってしまうのはよくない。その人はその人であって和成ではないし、和成やその人に対してものすごく失礼だ。だから私は、一氏先輩がその表情で何を言おうとも受け入れなくてはならない。その表情で何も言ってもらいたくないなんて、私を見てもらいたくないなんてとんだわがまま。
自分勝手だけれど、私にはこんな考え方しかできない。
ぐっと唇を噛んで、必死に涙をこらえる。泣いちゃ、だめ。


「……俺も、悪かった思うとる」


「………へ?」


けれど返ってきたのは覚悟していた罵倒でもなんでもなくて、ただの謝罪だった。予想外の言葉に、おかげでずいぶんと間抜けな声を出してしまった。


「…昨日は完全に俺の嫉妬やわ」


「しっと、」


「せや、嫉妬」

なんだか自嘲気味に笑った先輩は、私の顔を見てから「なんやその顔」とまたおかしそうに笑う。
昨日あんなことがあったからというか、そもそも一氏先輩とあんな出会い方(はじめて会ったのは新入生歓迎会だけど)をしてから先輩があどけたように笑う顔は小春先輩の前以外では見られないとばかり思っていたのに、それが今、私の前でも笑っている。
けれどその笑いのあと、ふっと戻ったその表情は口角が上がってはいるけれど小春先輩に見せるそれには含まれていない何かを含んでいることに気づくのは簡単だった。
今度はどっちかというと、私に近いかもしれない。


「なんでやろな、小春が俺以外にちょっかいかけるんは毎度のことやし、なんであないに苛ついとったか自分でもよう分からへん」


自分を卑下しているときのような、人には見せられないような酷い顔。見慣れた顔がそこにある。


「…せやけどおーかた、相手が自分やからやなくて、単に女やったから不安になってんのやろな。俺、どないなに頑張っても女にはなれへんし」


なあ、俺のこと汚い人間やと思うか?
そう言いながらテーブルに腰をかける一氏先輩は、やっぱり微笑みながら、けれどどこか諦めたような顔をしている。


「…思いません」


そんなの、汚いなんて言わないじゃないですか。
その一言を言うのに、迷いやためらいなんてものはなくて、反射的に出てきた言葉のようだった。


「汚くなんかないです」


「ん、なら、自分もそうなんとちゃうの」


無意識に下げていた顔を勢いよく上げた。
え、なに、どういうこと。


「自分言うてたな。幼なじみに出会って自分が共有できひん時間を過ごすことができる全ての人間に嫉妬するって」


「言いました、けど…」


「そないなことを人に言える時点で自分は強いって思うし、なにより俺のこと汚くあらへんって言うんやったら、そら自分も同じことやで。なあんも変わらん。俺たちは同じ穴のムジナや。」


「……同じ、」


「せや。やから昨日のことは気にせんでええ。俺も悪かったしな。…あ、それから、よう分からんねんけど、自分幼なじみの他に好きやって思える人がおったんやないの」


瞬間、息がつまる。それまでなんとか繋いでいた先輩との会話も唐突に切れた。まあ、切ってしまったのは私なのだけれど返事を返せなくなるくらい動揺してしまったらしくて、一氏先輩も「やっぱりな」とでもいいたそうな顔をした。

ここに来てから和成との話は誰にもしたことがないし、それっぽい人がいると言ってしまったのは財前くんだけだ。けれどその財前くんは口が固いし、人が気にしていることなら易々と話そうとはしない。
だから実質誰も知らないようなものなのに、どうして先輩が。


「謙也から聞いたんやけど、や、謙也のことは責めへんでやって。あいつもよう知らんらしくてむしろ知りたがっとったし、そないな詳しいこと聞いてへんから。ただ、俺たちを通してなんや誰かを見とるってことだけ言っとった。」


「いや、あの、責めるつもりはないです。…というか、謙也くんがですか…?」


「まー、あいつ自分には鈍感やけど、人には敏感やしなー。分かってまうんやないの、そういうの」


たしかに謙也くんは自分のことに関してはとことん鈍感なのに、他人のことになると何でも気がついてしまう。
何年か前に親戚が集まるお正月に私が風邪を拗らせてしまったことがあったのだけれど、お母さんは挨拶やら料理の手伝いやらで私のそれには気づいていないらしかった。私もお母さんに迷惑をかけたくないという想いと単に謙也くんたちと遊びたいという気持ちが勝って黙っていたけど、はじめに私の風邪に気づいたのは謙也くんだった。


「名前、なんやくるしそうやな」


そのひとことで私が風邪を拗らせたということが母の耳に知れたのだが、私は母にばれてしまったことや遊べなくなってしまうという悲しさよりも、どうして謙也くんが気づくことができたのか、ただそれだけに驚いていた。私だってばれないようにそれなりにうまく振る舞っていたつもりだったのに。もうひとりの従兄妹が「けんやは、いがいと ひとのことみてるんよ」と優しく笑って額にのせてもらった濡れタオルをとっかえてくれたこともよく覚えている。

何度もあのときのことを思い出すけど、あれだけ人のことにすぐ気がつくのにどうして自分のことになるとそれができないんだろうって、思い出した数と同じくらい思った。
だからそのことに気づける一氏先輩も、謙也くんのことをよく見ているんだなって思った。
けれどまさか、そんなことまで気づいてるなんて思いもしなかったもんだから、すごく驚いた。
つづけて先輩が口を開く。


「ここからは俺の勝手な推測やし、違ってたらすまん。…そいつにも、俺に言うたみたいにもっと思ってること言えればええんやないの。 きっとお前の言うたことは、受けとってもらえる。お前もそう思ってんのやろ。俺も自分と似たようなもんやし、なんとなくは分かるで。面と向かえば楽になれるっちゅーことも分かっとる。まぁそれができひんから俺もお前もひねくれとるんやけどな」


たしかに謙也くんの言うことや一氏先輩の思っていることは全て正しい。
私は彼らを通して和成を見てしまっているし、何も言わずに東京を出てしまったことも含めて、きっと私の吐き出した汚い言葉を和成は全て汲んで、それでも尚私のために笑ってくれる。わかっている。わかっているからこそ、私はそれを言うことができない。許されないのだと思う。私の汚い言葉に彼を縛りたくはなかったし、欠片すら見せたくなかった。

だから何も言わなかった。向き合おうともしなかった。ただ逃げてきた。和成に受けとめてもらって、そのことで彼の笑顔が何かで歪んでしまうのがとてつもなく怖かった。そう、分かっていたのだ。受けとめてもらえることくらい分かっていた。ただ私ができなかった。だからこんなにも自分勝手な想いを捨てきれずにいる。あぁたしかに、ひねくれている。


「……ひねくれてますね、ほんとに。私も先輩も」


「せやろ?」


「はい、同じですね」


「おん。同じやで、俺らは。やから、何かあったらまた話ぐらいは聞いたる」


そうか、同じか。
それまでどくどくと嫌な流れ方をしていた血液が落ち着きをとりもどした。会議室に入ったときから常に感じていた息苦しさもだんだんと消えてきて、思わず肩の力を抜けば先輩は「ほな、早よう戻らんと。HR始まってまうで」と言って扉に手をかけた。


「せや、忘れるとこやったわ」


もう一氏先輩に苦手意識みたいなものは感じられなくて、むしろ一番気持ちを吐露しやすい相手かもしれない。私たちは同じだと、そう言ってもらえるだけでこんなに救われるなんて思ってもみなかった。
先輩と話ができてよかったと考えながら、私も先輩のあとにつづこうとすると、扉を少し開けたところで一氏先輩はこちらに振り返った。


「これからは似た者同士よろしゅう。せやけど、小春はやらへんからな。」


「…はい、私のほうこそ、よろしくお願いします」


屈託のない笑顔が、近くで咲いた。