26 自分がとても惨めなのでした。

すでに合宿についての話はあらかた片付いていたし、部活終了時間も間際だった。そうなることを見越してなのか、白石先輩からは部活には出なくていいと言われており、私はお言葉に甘えて帰路についていた。

結局私は逃げ出した。一氏先輩に謝りたいなんて偽善を振りかざして、私はただ自己満足の言葉を彼に送りたかっただけなのだ。なんて惨めなんだろう。なんて滑稽なんだろう。なんて、汚いのだろう。
改めて突きつけられたようなそれは鋭利な刃物となってたしかに私に突き刺さった。


「ほんとに、ばかみたい」


一氏先輩とあんな形で二度目の対面を果たし、結果的にろくに謝れなかったことが、なによりつらかった。知った風な口をきいてしまったうえにうやむやにして、そして、一瞬でも和成と重ねてしまって。状況も何もかもあのときとは違う。ただ、一氏先輩が自分を戒めながらも小春先輩を想ったときのあの表情は、あのときの、私が別れを告げたときの和成に酷使していて、私は動揺したんだと思う。もう二度と見たくないと思っていたのに、あんな風になってしまうなんて。また、私が傷つけた。傷つけたんだ、私が。









鼻先をくすぐる匂いにつられて意識を浮上させる。真っ先に視界に入ってきたのはいつも私が愛用している座椅子の布生地で、まだぼうっとしている頭でそれを眺めていれば「起きたんか?」という声が聞こえた。


「謙也くん、」


「おん。ずいぶん寝とったな。もう7時越してるで」


「……私、寝ちゃってた?」


「ぐっすりな。せやけどちょうどよかったわ。夕飯できたで」


「ゆうはん、」


夕飯の二文字で、ぼんやりと、曖昧になっていた帰宅時の記憶が思い出された。今晩は何を作ろうかなんて考えながら近くのスーパーでお買い物して、それから、


「……あっ、え、今晩私が当番…!」


「ええでええで、今日疲れたやろ。ゆっくり休み」


この匂い、オムライスだ。エプロンをかけた謙也くんがこちらに振り返る。その手には予想通り、私の好物なオムライスがのったお皿が握られていた。私の好物でもあり、そして謙也くんの得意料理でもあるオムライスに少しだけ頬が和らいだ気がした。
それから謙也くんに促されて手を洗ってからテーブルについた。屈託のない笑顔でケチャップを握り、「なに かけばええ?」と聞いてくるあたり本当にいい意味で子供だなあと思う。馬鹿にしているわけでも悪い意味でもない。ただ、私の周りにいる人たちはみんな大人びていて、本当に同い年?とかひとつしか変わらないなんて嘘だ、なんて思うことがよくあるのだ。自分より他人を優先させて、他人のつらさを自分のことのように感じる彼らはひどく美しく、とてつもなく優しい。
だからといって謙也くんがそうでないというわけではなくて、彼も同じようなものだけれど一番身近に感じるというか。血が繋がっているからなのかもしれない。
だから夕飯当番をすっぽかしてしまった私を労ってくれて、さらには自分が作ってしまうのだ。


「名前」


ふと、自分のオムライスに何やら赤い文字を並べていた謙也くんが私の名前を呼んだ。視線はオムライスに向けたままだ。「なに?」私の声にも、「んー」とそんな返事をして、もくもくと手元のオムライスに向き合っている。


「あんなあ、」


それから少しだけの沈黙。それでも不思議と緊張感といった類いのものはない。一氏先輩のときとは大違いだなあ、なんて、二人は私との関係も含めて何かも違うのだから仕方ないの話だ。
もう一度、謙也くんが息を飲んだ。


「俺、家帰ることになったんよ」


トーンはいつもと変わらない。普段の会話こときみたいに、いたって普通の。それでも私にとっては悲しいことだった。
元々家が近所だったのをいいことに、ずいぶんと長い間謙也くんにいてもらったものだ。はじめは3日4日なんて思っていたのに、謙也くんにもおじさんとおばさんにも甘えて長居させてしまった。「そっか」そんな私から出た声は案外大したこともない、謙也くんのようにいつもと変わらない声だった。
そこで、謙也くんがこちらを向く。


「名前、」


「うん?」


「ユウジも小春も、傷ついたなんて思っとらんで」


けれどこればかりは、いつも通りになんてできなかった。ぼんやり見つめていたオムライスから謙也くんに視線をずらす。
さっきまではなかったはずの緊張感が訪れて、ぴしりと空気が固まったようにも思えた。


「……ど、して、その話知ってるの…?」


「ユウジから聞いたんよ。あ、これ本人に内緒やで」


一氏先輩から、聞いた。
自分の身勝手な考えに振り回してしまった一氏先輩から、いったいどんな風に今回の話を聞いているのかはわからない。けれど聞いていて気持ちのいいものばかりではなかったはずだ、とそこまで考えてすべての思考がいったん停止した。

私の、唯一無二の幼なじみに対して思っていることも、聞かれたのだろうか。

嫌な汗が背中を流れた。それから、なんともいえない空気が私たちの間を流れる。
視線は交わっているはずなのに、私も謙也くんも何か他のものを見ているみたいだった。私が謙也くんと視線をまじあわせながらぐるぐると色んなことを考えているように、謙也くんも私を見ながら私のことなのか全く関係のないことなのか、おそらく前者なのだろうけど色々なことを考えているのだということは容易に分かった。すごく、居心地が悪い。まじわったまま外れることのないこの視線から逃れれば彼の考えるそれからも逃れられるのだろうか、なんて、やっぱり逃げ道ばかりを確保しようと必死な自分がひどく滑稽に思える。私は何も、何一つ、彼らと向き合えてないじゃないか。
無意識に握りしめていた拳にまた変な力が入る。私は謙也くんとこんな風に話したいわけじゃない。もう一氏先輩との件で気が滅入っているのだ。正直、もうこの話はしたくなかった。あんなにも優しくしてくれた彼らに頼ることもできない自分にも腹が立つ。「ユウジが言うてたで」嫌だ、もうなにも、聞きたくない。


「名前が強うて、羨ましい言てた」


耳を、疑った。
結局臆病な私はその視線から逃げることはできなかった。だから、謙也くんに映る私が大きく目を見開く瞬間をとらえることができた。今、なんて。羨ましい?私が?逃げてばかりで、人を傷つけてばかりで、本当に好きな人に何も言えなかった私が、羨ましい?
そんなはずはない。他人が、しかも一氏先輩みたいな人が私を羨ましがるなんてことはありえない。聞き間違いに決まってる。そうでなければならない。期待しちゃ、だめ。


「自分のことを汚いなんて言えるのが。あんな風に、人にさらけだせるところが羨ましいて」


視線は相変わらずまじわったまま。目を見開いていた私は幾分か落ち着いているようだったけれど、謙也くんから漏れた言葉を頭で理解するよりも先に感情が理解したのか、その顔もくしゃりと崩れた。目元から流れた粒を手ですくって。
聞き間違いなんかじゃなかった。私よりもずっと強い先輩が、私のことを羨ましいって言ってくれたんだって、今度は言い聞かせるように頭の中で何回も繰り返した。自分勝手な言動ばかりだったのに、最後まで黙って話を聞いてくれた先輩。小春先輩のことを想っているときの先輩がすごく優しげな目をしていたことに、いったい何人の人が気づいていただろうか。いや、きっと一氏先輩のような人間は、自分がどれほど想おうともそれが相手の幸せに繋がらないと分かれば、その感情に蓋をしてもう二度と外に漏らさないのだ。相手に気づかれなくても、自分の中だけで想いつづけて。誰が気づいているとかそうでないとか関係ない。他の誰でもない自分だけがその想いに気づいていればいいと、そうして一人で自分の殻に閉じこもるのが上手い人間なのだ。
なんて、悲しいのだろう。


「っけんやくん、」


「おん」


「ひと、うじせんぱいは、つよいんだ、よ」


「おん」


「つよい、けどね、すごく悲しくて、」


「せやな」


「私なんかよりっ、ずっと、ずっと…!」


私は一氏先輩のような人間を知っている。
相手が理不尽で身勝手な理由で別れを押しつけても、苦しそうに笑ってみせるような、何かを殺して笑う人間を、私はよく知っていた。脳裏で彼が笑う。

彼らの蓋をした想いに誰かが気づいてあげられれば、きっと、その人は報われるのだろう。


「……謙也くん、」


「なんや?」


「…小春先輩は、その、先輩の気持ちには…」


「心配すんなや。名前が思とるほど二人は柔ないし、それなりに上手くやってんねんで?ちゃんと、お互い通じあっとる」


「……そ、っか…」


ふにゃり、と謙也くんが優しい顔をして私の頭に手をおく。「ほら、早よう食わんと冷めてまうで」それもそうだ。壁にかかった時計は話し出す前に比べてもさほど進んではいなかったけれど、料理を冷ますには十分な時間だ。早く食べなければ謙也くんお手製のオムライスが冷めてしまう。
どうぞ、と出されたお皿に顔を向ける。ふっくらとした玉子に赤い文字。それらを見て思わず笑みがこぼれた。ケチャップでかかれた赤い文字をスプーンですくってのみこんで。そうしたらここにかかれたようになれる気がして。自己満足にすぎない勝手な考えだと思いながらも、私はスプーンをとめはしない。「うまいか?」「うん」謙也くんの優しげな声が涙を誘っているようだったけど、もう意味のない弱音を吐くことはやめようと懸命に唇を噛みしめた。

一氏先輩のような人間を、私は知っている。どうすれば先輩のような人間が報われるのかも、私は知っているんだ。
それは、私が大阪にくる前に見たひどく悲しそうに笑う彼に今も変わらず好意を持っているからであり、私から行動を起こせば、私はともかく和成は救われる。



そんな簡単なことに気づいていながら彼の気持ちを汲もうとしない私は、


わたしは―――――