25 許されませんでした。
案の定、私は一氏先輩と合宿について話す時間を設けられた。HRが終わって生き生きしはじめた美琴ちゃんが走って部活に行き、それにつづいて財前くんもさっさと部活へ向かった。いつもは一緒に向かうんだけど、今回は違う。私はこの目の前にそびえ立つ会議室で一氏先輩と二人で合宿の話をしなくてはならないのだ。もう一度言おう、二人で、だ。
頑張るって決めたのに決めたばかりなのにもう弱音を吐いてしまいそうだと、先程から扉に手をかけては引っ込め、を繰り返していた自分自身を軽く叱咤する。ため息を漏らしながら携帯を出して時間を確認すれば、15分程前に3時半を越している。一氏先輩との待ち合わせは3時半なのだが、中の明かりがついてないことからしてまだ来てはいないのだろう。分かっていても中に入ろうとしない私はとんだ臆病者だ。
この携帯が白石さんからのメールを受信したのは一時間程前のことだった。なんとなく予想はしていたのだが、やはりそれは氷帝学園との合同合宿のことであった。合宿について話をしたいから、3時半に会議室へ来ること。合宿担当の先生は都合上4時を過ぎないと来られないので、先に合宿担当の部員から話を聞いてほしいと。その合宿担当の部員は言わずもがな一氏先輩。つまり私は担当の先生が来るまで一氏先輩と話さなければならないのだ。何度でも言おう。二人で、話さなければならない。
「…はぁ…」
正直いって、ものすごく帰りたい。なにも今日でなくたっていいし、先生がきちんと最初にいる状態で話をしたほうがいいのではないだろうか。あと部長からも色んな話を聞きたいし、ならば4人が揃うタイミングまで待って、それから話を、
「お前何してんねん」
「ぎゃ!」
悶々と頭を抱えている私に、朝聞いたばかりの声が降ってきた。顔を見なくたって分かる、これは、一氏先輩の声だ。なんでここになんて馬鹿げたことは言えずに「お、お待ちしておりました……」と扉に話しかけるようにしてひとこと言ってから、先程職員室で借りた鍵でそれを開けて中に入る。
それに続いた一氏先輩はパチンと電気をつけてから部屋の真ん中にある大きなテーブルに、これまた大きな荷物を置いた。
と、ここまで頑張ってきた私の汗腺がついに限界を向かえぶわっと嫌な汗を吹き出した。背中をつたう汗がゆっくりと速度を増すのと比例して私の心臓もどくどくと音を立てた。いや、決して恋愛感情なんかではなく、なんというかその、色々なことに対して気まずいといいますか。
あんな形で一氏先輩と話してしまったこともそうだったけれど、なにより一氏先輩は財前くんからの連絡を受けた小春先輩から何かしら言われたのではないだろうか。中学のときからそうだったと言っていたし、例外はないはずだ。一氏先輩は何も、悪くないのに。
「おい」
「は、はい!すみません!」
「そない思っとるんやったら、はよ座れ」
こ、怖いんですけど!一氏先輩怖いんですけど!!
普段小春先輩に向けている緩みきった、言ってしまえば少ししまりがない、けれどもとても幸せそうな顔が嘘のようだ。これでもかというほど眉間によせられた皺を伸ばしてやりたいほどに、一氏先輩は私といることに不快以外の感情を持っていないらしい。いや、原因をつくってしまったのは私なのだけれど。
「よ、よろしくお願いします…」
一氏先輩と向き合うようにして真反対の席につく。すでに座っていた一氏先輩は、嫌々そうに、心の底から汚いものを見るような目で私をとらえて、鞄から何枚かプリントを手渡してきた。お礼を言いながら受け取ってテーブルに置いたあと、シャープペンを取り出した。
*
何分か経ったあと、ちらりと時計に目をやるとすでに4時は回っており、なんで来ないんだよ先生やらできることなら早く終わってくれやら考えることは色々とあったけれど、不思議と最初ほど気まずさは感じられなかった。説明が始まれば始まったで、彼は先輩として私に説明する義務があるし、私は後輩として彼の話を聞かなければならない。話し手と読み手。それぞれの役についてしまえば、会話に困ることも、空気の悪さも、先輩の刺々しさもなくなってきたように思える。
でも、やっぱり、何も悪くない彼に不快な思いをさせてしまったのは、全面的に私が悪いのであって、
「なんや、人の顔をじろじろ見よって。質問は」
「……あの、今朝のことなんですけど、」
ぴくり。一氏先輩の肩が揺れた。
まわりくどいのもどうかと思ってそう切り出したのだが、はて、ここからさらにどうすればいいのだろうか。
言い出したにも関わらず「えっと、その、」なんて繰り返していたら、痺れを切らしたらしい先輩は今朝のように眉間に皺を寄せた。
「やっぱりお前小春と何かあるんか」
「違うんです、その、私は謝りたくて…」
「何を」
何を、と問われてそう簡単に答えられるものでもなかった。一氏先輩に不快な思いをさせてしまったのも、そのことについて謝らなければならないのも私。けれど、あなたから小春先輩を奪うつもりはないのです、そう見えてしまったのならすみません、と面と向かって言えるのかと聞かれれば、私はできないと答えるだろう。誰よりも私が、他人の対人関係を知った風に言われるのが気にくわないからだ。幼なじみとして、友人として助言してくれるのはありがたいし、それを受け入れようとも思う。けれど先輩と私のようなただ部活が同じで、今日はじめて話して、それはもう他人となんのかわりもない関係でそんなことを口走ってはならないと、少なくとも私はよく思っていない。
一氏先輩が小春先輩を大切に思っていることも、私は分かっている、つもりなのに。
赤の他人である私には口を出す権利も。それらを含めた謝罪を述べることさえ許されない気がしてならなかった。
「あの、私には、幼なじみがいるんです」
「はあ?」一氏先輩から漏れた声は、まるで意味が分からないといったような感じで。
謝らなければならない。謝ってはならない。矛盾していることは十分わかっている。今私がこうして口を開いていることも、勝手に飛び出す言葉を回収しなければならないことも。
「すごく大切な幼なじみで、今は東京に住んでいます」
「何が言いたいんや」
「……多分、先輩が小春先輩を思うくらい、私にとっては彼らが大切です」
それまで厳しい顔つきばかりだった先輩の顔が、はじめて他の表情を見せた。それは嘲笑うかのような、そんな笑みだった。自分の想いと私の想いを同じとしてとらえることに対しての不愉快。それでも、そこにどんな感情があったとしても、私に向けられたはじめての微笑だった。
「私たちは生まれたときから一緒で、高校も彼らと同じところへ行くつもりでした」
「聞いたで、謙也から。こっちにある店のこと気にして来たんやろ」
「はい。来たばかりのときはもう楽しくて、いい人がたくさんいて、先輩にも友達にも恵まれて、来てよかったと思ってます。ただ、ですね、」
「なんや」
「……嫉妬、するんです。進学先で知り合うだろう、彼ら、幼なじみの友人全てに」
それまでシャープペンをまわしてばかりだった先輩の手が、ぴたりと止まった。
それは、今も、できればこの先も口に出すのはないと思っていた、私の汚い一部だった。
「私は彼らがこの先出会う人たちに、共に時間の流れを感じることのできる全てに嫉妬すると思います」
「…………」
「唯一無二の幼なじみの隣に私の知らない人が並んで歩いていると、嫌な気持ちになるんです」
「…………」
「……だから、その、何が言いたいのかって話なんですけど、私は先輩に謝りたくて…。一氏先輩が小春先輩を想う気持ちは、きっと、私が思っている以上だと思います。私も同じなのに先輩に嫌な思いをさせてしまったというか、その…」
そこまで言って、今度は私がはっとした。この言い方は先輩を知った風に謝ってはいないだろうか?私も先輩の気持ちわかります、という風に捉えられたりしてないだろうか?
やはり言葉にするべきではなかったのだとあわてて「ち、ちがうんです!」と声を上げようとすれば、それを遮るかように先輩の声が重なった。
「……べつに、」
「…え?」
「べつに、お前のこと本気で疑ってたわけ、ちゃうねん」
それは、今朝に比べたらあまりにも覇気のない声で。
シャープペンはテーブルに放り投げられていた。それがころころと転がって一氏先輩の手にあたるのを見たあと、私はゆっくりと視線を上げた。自分のそういう汚い部分を話していたから無意識に下を向いていたようだ。そのため一氏先輩の表情を読み取れていなかったのだけれど、今そうして見た顔は、
「……っ、」
あの日あのとき、あの場所で、私が吐いた言葉に顔を歪ませる、和成のようで。
「小春が俺以外のやつと付き合うわけあらへんって思っとった。ねんけど、なんか、 嫌やねん。小春が誰とも知らんやつと仲ようしとるって。やっぱし、とられたくあらへん。」
「っ、一氏先ぱ……」
「汚い思ても、とめられへんねん」
「…きたなく、ないです」
先輩は小春先輩を傷つけまいと、守ろうとしているじゃないですか。傷つけて逃げてきた私のほうがよっぽど、
「汚いのは、私なんです」
先輩のひどく悲しげな表情は、いつか見た和成を前にしているようで。「ごめんなさい」その一言を絞り出して、私は荷物をまとめると早々に会議室をあとにした。
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