22 覚悟を決めました。

財前くんと教室に戻ったらすでにたくさんの人がいた。おはよう、名前ちゃん。財前くん。かかる声に微笑みながら挨拶を返す。よし、我ながらうまく笑えているのではないだろうか。得意気に財前くんを見上げれば、彼は当然だとばかりに鼻で笑ってきた。

あのあと嫌だ嫌だと泣きながら悲願する私を無視して無理矢理図書室を追い出し、教室前まで引きずったのは他でもない財前くんだ。走ったせいで髪はぐちゃぐちゃだし、泣いたから目も腫れてる。みんなの前に出るにはちょっとあれだと思う。だけど財前くんはそんな言い訳じみた私の話は聞いてくれない。「さっさと入れや」教室前で放たれた一言は、悪魔のお言葉なんじゃないかってぐらいに冷たかった。せめて顔だけは洗わせてもらいたいと頑張った私を誰か褒めてほしい。ポケットに入っていた折り畳み式のくしで髪を軽くとかしたあと、目元を洗う。顔を上げて鏡を見たらやっぱり腫れていて、でも睡眠不足と言えば誤魔化せなくもないかな、なんて。そしてそのあとすぐに財前くんの急かすような声が聞こえて、これ以上待たせるのは悪いと慌ててトイレを出た。


「…ざ、財前くん、私やっぱり……」


「うっさいわ、はよ入れ」


「ぎゃ!」


そして、何か言う前に教室に投げ込まれた。
それもそのはず、放り込まれた教室の時計を見れば時間も始業ギリギリで、財前くんには本当に迷惑かけたと改めて申し訳なくなった。なんだかんだでこんな私を気にしてくれていたわけだし、今度お詫びしなくちゃ。だから後ろでぐいぐい押してくるのは見逃そう。


「…あ、れ?」


「なんや」


「あ、いや、なんでも…」


気のせい、かな。がやがやと賑わっている教室に、今私が感じているものはあまりにも似つかわしくないものであった。ぞわぞわと背中をはいよるような、なにか気持ち悪い虫を見てしまったような、いやちがう。教室を見渡してもみんな笑顔で、私と同じような状況に陥ってる人もいない。思わずぶるりと体を震わせてしまうような、そう、この感じは中学時代何度も体験したあれに似ている。


赤司くん、だ。


だけどこんなところに赤司くんはいないし、どちらかといえば、さつきのそれのほうが似ているかもしれない。けれどもちろん、そのさつきもいない。ではこの寒気はなんだと辺りを見渡していると、腕が突然、そして思いっきりひっぱたかれた。い、痛い!思わず声を上げながら、こんなことするのは財前くんだけだと思いそちら見上げる。すると彼は顔を青くして、まるで壊れかけのロボットのようにぎこちない動きで言葉を発した。


「まずいことになってしもた」


「え?」


驚いている私に構うことなく、財前くんは私の後ろに身を隠した。彼は大人しくはないけどそういった行動はあまりとらないほうだから、少なからず驚かされた。怖いものなしの財前くんにそんな行動をとらせるなんて一体何が起こってるんだろう。まずいことってなんのこと?
この時点で私は気づくべきだったんだ。可愛らしい顔を鬼の形相に変えた美琴ちゃんが、私たちを睨んでいることに。


「みっ美琴ちゃん…」


ズガァアン。煩かった教室に響いたその音は、美琴ちゃんが椅子を引いて立ち上がったときに鳴ったものだった。突如響いた騒音のような破壊音のようなそれを聞いたみんなが何事かと私たちと美琴ちゃんを交互に見つめる。


「ほな、俺部長に呼ばれとるさかい。あとは頼んだで名字」


「財前くんの卑怯者!」


白石さんに呼び出しなんてされてないのに、財前くんは顔色一つ変えず言ってのける。逃げる気だ。「お願い行かないで!」「人生山あり谷あり月村ありや」私の悲願の叫びじみた静止も軽くあしらわれて、財前くんはさっき閉めたばかりの教室の扉に手をかけた。まさにそのとき、バシィインという先程に比べても劣らないくらいの大きな音が再び教室に響きわたった。今度は美琴ちゃんが手のひらで机を叩いた音だった。


「財前、あんたそこから動いたらあかんで」


「……」


「返事は」


「はい、すんまへん」


どうしよう、これで完全に動けなくなった。美琴ちゃんは相変わらず私たちを睨みながら、一歩、また一歩と確実に近づいている。後退りもおろか視線もそらすことができない。


「やばいで、月村…」


「かなりキレとんな…?」


「財前と名字、病院送りにされてまうで」


「びょ、病院送り…!?」


相変わらず私の背中付近にいる財前くんに振り返ろうとすると、「振り返るなボケぇ!やられてまうで!」と叫ばれて慌てて美琴ちゃんに視線を戻す。財前くんの声、本気だ。

「……名前、」


「は、はい!」


「なんで泣いてたん」


「…え、」


「だから、なんで泣いてたん」


近くまで来た美琴ちゃんが私の目の前で立ち止まる。なんで泣いてたかなんて、言えるわけない。財前くんにだって言ってないし、謙也くんも白石さんも知らないのに。3人が知らないから美琴ちゃんにも教えられないというわけではない。ここで、大阪で頑張ってる人たちに、私が逃げるために大阪に来たとかそういう汚いところを見せたくないんだ。

クラスメイトたちが「名字、泣いてたんか?」と財前くんと美琴ちゃんに尋ねるも、彼女は何も言い返さずに私の返答を待っている。
ちらりと振り返って財前くんを見たら、彼もまた静かに私を見つめていた。


「……言え、ない」


一生懸命に絞りだした声だというのに、美琴ちゃんはそれを聞いた途端に眉間に皺を寄せた。


「なんで言えんの」


「…そ、それは…」


「あたしと財前にも言えんことなん?」


「…っ」


「…お、おい月村、あんまり言うたら…」


「部外者は黙っとき!」


クラスメイトの声を一喝して、美琴ちゃんはさらにこちらに歩み寄ってくる。


「あたしら、友達とちゃうん?」


「み、ことちゃ…」


「……泣いてた理由、あたしにあるから言えんの?」


「え…」


「あたしが、名前を泣かしたんか…?」


いつの間にか俯いていた顔を上げて美琴ちゃんを見た。くしゃりと顔を歪めて、今にも泣きそうな顔。ちがう、ちがうよ美琴ちゃん。美琴ちゃんも財前くんもクラスのみんなも、謙也くんも白石さんも、和成も悪くない。悪いのは全部私なんだ。たから美琴ちゃんが私を泣かせたなんてそんなことあるはずないのに、否定してしまいたいのに、うまく言葉が出てこなかった。


「そうなん…?」


「ち、ちがうよ…!」


「じゃあなんでっ、」


「ごめんね…、美琴ちゃん」


美琴ちゃんが目を見開いた。
私のせいで彼女を苦しめてしまった。私のせいで泣かせてしまった。心配かけてしまった。もう一度「ごめんなさい」と頭を下げれば、美琴ちゃんは目を潤ませて口を開く。


「…それは、あたしに何も言えんから?」


「ううん。いきなり泣いて心配かけたから」


「………」


「…なんで泣いてたかとか、まだ言えないんだ。ちゃんと私の中でけりをつけてから言いたいの。半端な気持ちで言いたくない。だから、そのことに対しては謝れない」


「…名前…」


「心配かけて、ごめんね」


だけどほら、私もう大丈夫だよ。
きっとさっきよりもきれいに笑えていたはず。美琴ちゃんは何か言いたげに口を開いたけど、何も言わなかった。


「…わかった、」


「……」


「名前ん中で決着ついたら、すぐに知らせるんやで」


「!、うん」


「それから無理せんといて」


「うん」


「つらくなったらいつでも言うんやで」


「うん」


「あたしらが名前の味方やってこと、忘れたらあかんよ」


「うん、ありがとう」


私の返事に満足したらしい美琴ちゃんがいつものようにかわいらしく笑った。そしてはかったかのように鳴ったチャイムが、この状況を説明してほしいといった目を向けるクラスメイトを着席させる。


「名前、財前、先生来るで」


「うん!」


「わかっとるわ」


家に帰ったら携帯を充電しよう。謙也くんに謝ろう。それから、


「(和成、)」


和成と向き合う覚悟を、決めよう。