21 痛んだ胸に手をあてて考えてみました。

すごく痛かった。
久しぶりに走ったから全身が悲鳴を上げている。大輝が走ったあとはすっきりするって言っていたけど、それは人にもよるんだなって思った。頭も胸もすっごく痛くて、倒れこむようにして本棚に体をぶつけてそのままずるずるとその場にしゃがみこんだ。

「っは、はぁ…」

閑静な図書室に、私の荒い息づかいだけが響く。いつも遅い時間まで鍵が開いているのは知っていたけれど、まさかこんな朝から開いているなんて。本当に助かったと胸を撫で下ろす。
美琴ちゃん、心配してくれてるのかな。私はまだ泣き止めてないし、この調子だと授業には出られそうにない。せめて連絡しておこうとポケットに手を入れるけど、柔らかい布地に触るだけで何もなかった。そうだった、携帯は家に置いてきたんだ。

「(…でも、置いてきてよかった…)」

もし携帯なんてあったら、また和成から電話がかかってくるかもしれない。だから置いてきたんだった。充電もなかったし、なにより誰にも頼らなくてすむ。
携帯には大輝やさつき、謙也くんに白石さん、美琴ちゃん、それに財前くん。まだまだたくさんの頼れる人の連絡先が入っているんだ。そんなのがあったら私はきっと頼ってしまうし、ただえさえ弱いのにもっと弱くなってしまう。それに、みんなに迷惑かけたくない。

私はいつもこうだ。逃げて逃げて、逃げつづけて。逃げ先には何もないっていうのに、私は逃げてきたって開き直ったばかりなのに。大阪でも逃げたら、きっと私は変われない。和成をいつまでも苦しめていてはいけないのに、やっぱり私は、

「…好きっ……和成……」

和成が新しい恋人をつくってるかもなんて考えたとき、どろどろとした汚い感情が溢れて周りの人を呑み込んでしまうのではないかと思った。
自分のために和成から逃げたいなんて、きっとそれすらも私の自己満足と醜い偽善。いつからこんなに汚く、醜くなったんだろうか。



「…ごめん、ごめんね、和成っ…」



あなたを苦しめて、ごめんなさい。






「ってか、謝る相手間違えとるやろ」




突然降ってきた声に驚いて反射的に顔を上げた。財前くん、だ。なんでここにいるんだろう。座り込んでいる私を鋭い二つの目がとららえる。

「財前くん…なんで…」

「……別に、月村が心配しとったから来ただけや」

財前くんはドカリと私の隣に腰を下ろした。本棚に体を預けて、肩で息をする。走って来たんだろうか。私の好きな汗の匂いが鼻を掠める。一連の動作を黙って見ていると、財前くんが珍しい苦笑いを浮かべて「ひっどい顔やな」と言って私の頬を撫でた。
突然すぎて固まっている私を他所に、財前くんは親指で涙を拭ってくれた。

「謝る相手、違うやろ」

「…どういう、こと」

「まず月村な。あいつをバカみたいに心配させて泣かせるやつ、お前しかいてへんで」

「っ!美琴ちゃん泣いたの!?」

「だから謝れ言うとんのや」

どうしよう、美琴ちゃん泣かせちゃった。
私の身勝手な偽善で、美琴ちゃんが傷ついた。美琴ちゃんはただ私を心配してくれただけなのに。

「あと、謙也さんと部長にもな」

「…うん、」

「そんで俺や」

「……うん」

「朝から走らされたわ。心配、はしてへんけど」

「…ごめんなさい」

「…まあそれが聞ければええ」

なんだか財前くん、お母さんみたい。聞こえないように言ったつもりだったのに、「はぁ?」と不機嫌そうに返されてしまった。
どうして追いかけてきてくれたんだろう。私と財前くんは、正直いってただのクラスメイトで席が隣で部活が一緒というだけの関係だ。彼が私を心配してくれるなんて、言い方は悪いけど今までの彼の態度や性格からしてどうしても考えられなかった。さっきは美琴ちゃんが心配してたからなんて言っていたけれど、本当にそうなのだろうか。だったら財前くんてば、美琴ちゃんのこと超大好きじゃん。私ってばお邪魔じゃん。

「…財前くん、なんでそこまでしてくれるの?」

だって私たち、ただの友達だよ。今度は何も言わなかった。お母さんみたいって言ったときは、すぐに反応したのに。ちらりと隣を盗み見る。するとどうだろうか。財前くんはばつが悪そうに斜め下を、ついでに眉間に皺を寄せて、そんでもって頬をほんのり染めて睨み付けていた。「え、」つい漏らしてしまった声にも、反応はない。そんな顔見たことないんですけど。涙なんて引っ込んじゃったんですけど。財前くんは床を、私は財前くんを見つめる。ただずっとそちらを見つめるだけで、財前くんは中々言葉を発さない。時々もごもごと口を動かすけれど、そんなのはしゃべっているうちに入らないと思うんだ。

「財前くん」

「………やろ」

「え?」

「だから、理由なんていらないんとちゃうん」

ますます分からなくなった。理由がいらないって、それってもしかして理由なんて月村が泣いとるんやから必要あらへんとかそういう?

「友達、やから」

「うん?」

「友達やから、追いかけてきたんや」

今度は床じゃなくて、体育座りで膝の上で組んだ腕に顔を伏せた。耳が赤い。耳があんなに赤いんじゃ、顔なんてトマトよりも赤いんじゃないかな。ははは、まさかそんな。友達って、たしかにそうだけれど。笑い飛ばせたらよかったけど、財前くんが真っ赤になって俯いてるもんだから私まで赤くなってしまった。

「……財前くん、」

「…なんや」

「ありがとう」

もしかしなくても、財前くんは自分の本音を隠してるだけなんじゃないかな。上手く言えないだけで、本当は私が思ってるよりずっといい子なのではないか。今もお礼を言った私とは目を合わせようとせず、小声で「お、おぉ」とまるで床と会話してるみたいに言った。
友達だから追いかけてきた。その言葉が素直に嬉しかった。財前くんとは少なからず5、6枚の壁があったように思えていたけど、今は3、4枚だな。あんまり変わってないけど。だけど何枚かがきれいさっぱり消えたのは事実で、その浄化は財前くんが行った。なら今度は私が残りの壁を切り捨てる番なのではないだろうか。

「…財前くん、あのね、」

そのためにはやはり、和成のことは話さずにはいられない、避けて通れない道なのではないだろうか。

「もう一人、謝りたい人がいるの」

「…そんなら、謝ればええやろ」

「そうだね」

今すぐとはいかないけど、いつか話すから待っててね。やっととまったはずの涙がまた溢れだした。今度は拭ってもらう前に、自分の制服の裾でごしごしと拭いた。
友達だからって理由で来てくれてありがとうなんて気恥ずかしくて言えないけど、いつか言えたらいいなって思った。