20 臆病で弱虫なわたしと友達思いの財前くん。

よく、眠れなかった。
電源が切れた携帯はそのまま家に置いていこう。結局謙也くんはすぐに帰ってきて、夕飯を食べたらいつものように過ごして早めに寝た。朝練はないから、気分でも変えて少し早く学校に行こうかな。

「…名前、どないしたん?」

「えー、何が?」

「……いや、なんかあったんかなー思て」

「別に何もないよ?」

何か言いたげにしていたけど、謙也くんは何も言わなかった。それは彼なりの優しさだ。その優しさに頼って何も言わない私は、誰よりもずっと醜くて汚いと思う。いってきます。謙也くん、先に出てるね。扉を開けて外にでれば出れば、吹き抜ける風が心地よかった。


*


「……名前?」

朝のホームルーム前、まだ来ない美琴ちゃんと財前くんを待ちながら本を広げていればいつもより早く美琴ちゃんが登校してきた。私も早く来たつもりだけれど、美琴ちゃんもずいぶんと早い。

「美琴ちゃん、おはよう。早いね」

「提出せなあかんもんがあったんよ。……名前?」

「うん?」

「何かあったん?」

なんで、美琴ちゃんもそんなこと言うのかな。なんで、そんな顔するのかな。
昨日の和成の声が耳についている。何もなかったなんてことはない。その声が私の名前を呼んだとき、すがってしまいそうになった。私の中だけで輝き続けていた和成が、私が傷つけた和成が、眩しくて仕方なかった。溢れる想いと涙が私を押し潰してしまいそうだった。気を抜けば好きだと言ってしまいそうだった。
だけどそんなことは許されるはずもなくて、名前を呼ぶのも必死で。私は自分のために逃げてきたのに、和成は報われないのに、泣きそうになっている自分がどこまでも汚れていた。また和成にすがろうとしているなんて、どこまで臆病で卑怯なんだろう。
目の前で美琴ちゃんが心配そうにこちらを覗き込む。「名前…?」ごめんね美琴ちゃん、私、心配してもらえるような人間じゃないや。

「え、ちょ、名前!?」

扉を叩きつけるようにして開けたあと、まだ静かな廊下を全力で駆け抜けた。前から吹いてくる風が目に溜まった涙を流してるみたい。ああだめだな、私に泣く資格なんてないのに。
階段前を走っているとき、驚いた顔をした財前くんと目が合った気がした。


*


今朝は朝練がないことを忘れていて、いつもより早く来てしまった。こんなにも早いのだから、ホームルーム前まで暇潰しと称して話している二人はまだ来ていないだろうと期待はせずに下駄箱をちらりと見やれば、そこには靴がある。そういえば月村は提出物がある言うとったなあと思いながら、上履きに履き替える。まだ静かな階段を一段一段上りながら、なら名字は何をするために早く来たのだろうと少し首を傾げた。まああいつにどんな理由があろうとなかろうと、俺には関係あらへん。そもそもあいつは、俺たちに何かしら隠していることがあるはずだ。かといってそれを問い詰める理由がもない。でも何故か時折見せる悲げな顔も、中学時代の話をして苦笑いを浮かべるのも、少しだけだが気になってしまうのだ。はあとため息をつきながら顔を上げる。うじうじ悩むのは俺らしくないやん。知りたいのなら本人でなくとも謙也さんに聞けばええやろ。自己満足ともいえる答えを出して、いつの間にか俯いていた顔を再び上げたそのとき、今まさに考えのもやにいた名字が目の前を走り抜けた。

「……名字?」

あいつ、意外と足早いんやな。突然出てくるもんだから驚いた。名字が走り去った廊下の先を覗けば、もうすでに見えるか見えないかぐらいの大きさになっていた。

「(…にしてもあいつ、)」

泣いてへんかったか?
まあ見間違いかもしれへんし、どうでもええか。
ガラリと音を立てて扉を開いて教室に入る。もし名字が泣いてても何もできへんし、ああ見えて強いとこあるし、見間違いに決まっとる。あのままにしとっても平気やろ。

「(ほんまにええんやろか…)」

先程のそれは本当に見間違いだったのだろうか。本当に彼女は屈強なのだろうか。本当は、強がりを演じていただけなのではないだろうか。

「財前!」

聞き慣れた声にはっとなって顔を向ける。月村、どないしたん。呟くようにして言った俺の声は、なんだかすごく情けなかった。

「名前っ、名前知らへん!?」

「名字なら廊下走って行きよった」

「どないしよ…!あたし、名前のこと泣かしてしもたかもしれへんねん!」

月村の声がひどく悲しげで、後悔とか懺悔とか色々ものが混じっている気がした。
追いかけな、あかん。持っていた鞄を今にも泣き出してしまいそうな表情を浮かべてる月村に押し付けて、今来た道を全力で走った。名字はこの廊下をどんな想いで走ったんだろうか。

「こんのっ、アホ名字…!」

人一倍怖がりで弱っちい友人を追いかけて、俺はただひたすら走った。