18 別れた彼からの電話がとてつもなく愛しいのでした。

何人目かのお客様がお帰りになったとき、ちょうど5時を知らせる鐘が鳴った。東京でも5時には鐘が鳴っていたから、なんだか懐かしい。微笑みながら戸の鍵を閉めたあと、奥の部屋でくつろいでいるであろう謙也くんに声をかけた。

「謙也くん、」

だけどその声に返事はなくて、そちらに行ってみればテーブルに置き手紙が置かれていた。
買い物に行くと、いたってシンプルな内容。夕飯は謙也くんが作ってくれるのかな。オムライスとかがいいななんて考えながら、着物から普段着に着替える。
そのあと冷蔵庫からペットボトルを取り出して、ついでに残ってる野菜を確認しているとポケットに入っていた携帯が振動を始めた。

「え、」

ディスプレイに、赤司くんの文字。突然の着信に慌てて通知ボタンを押せば、『俺だ』なんて彼らしい声が聞こえてきた。

「赤司くん!」

『久しぶりだな、名前。高校には慣れたか?』

「うん、大分ね。赤司くんは?」

『こっちも同じようなもんだ』

帝光を卒業して大阪に来てから、結構な時間が経っている。こっちでも東京にいたときと同じように忙しかったから、あっという間に感じていた。赤司くんの声がずいぶん大人びて聞こえる。

『そういえば、バスケ部には入部したのか?』

「あ、ううん。テニス部のマネージャーをやってるよ」

『………テニス部?』

いつかの黄瀬よりも、ずっと底冷えした声だった。顔は見えないはずなのに睨まれてるみたいで、背筋がぴんと伸びる。「あか、しくん」『なんだ?』「怒って、る?」いつからこんな怖がりになったのだと自嘲する時間さえ、与えられていないように感じた。

『怒ってはいない。だけど名前、俺の話を覚えているか?』

震える声で、私は「うん」と返す。返すのも必死だった。情けない。
赤司くんのいう俺の話、というのは今朝謙也くんに話していた赤司くん宅のお泊まり会で夜中トイレに行った帰りにあたる。結局私は部屋に戻れた。そう、赤司くんの案内によって。
やはりトイレからの帰り方が分からずに廊下を徘徊していると、ふと足元に風が吹いた。そちらに向かって歩けば、そこは縁側で。深夜だというのに月明かりが庭を照らしていて、美しい庭がより魅せられていた。物静かな空間がストンと心に落ちてきたみたいだった。

「そんな薄着だと風邪を引くぞ」

突然かかった声に驚いて振り返れば、そこには赤司くんが座っていた。まるで景色の一部と化しているみたいで、すごくきれいだった。

「なんでこんなところにいるの?」

「夢見が悪くてな。寝付けなかっただけだ」

「よくあること?」

「ああ、よくある」

淡々とした会話でどちらも声が大きかったわけではないのに、辺りには大きく響いた。
夢見が悪くて寝付けないって、そんな話はじめて聞いたな。ちらりと赤司くんを盗み見ても、彼の視線はずっと庭に向いたままであった。

「名前、」

「んー?」

「君はすごく弱い」

「……弱い?」

「あぁ。頭では一人を望んでいるが、本心では助けを必要としている。ひとつの体で、頭と心が矛盾しているんだよ」

「…えっと、つまり…?」

「いっそのこと、肉体と魂が分かれていたら君も幸福を味わえるんだろうな」

「そんな状態でしか味わえない幸福ってやだなぁ…」

赤司くんの言うことはよく分からないけれど、何かしら意味があるような気がしてならない。彼の言うことにはどんな遠回しな言い方であろうと必ず意味がある。
座った縁側から投げ出している足に風があたった。

「だから、お前は自分のために泣くことのできるやつを大切にするべきだ」

「それって、さつきとか大輝のこと?」

あ、黄瀬も泣いてくれるかな。
でも赤司くんは少し笑うだけで、肯定も否定もしない。

「お前にはもっと、そういう人がいるだろう」

どきりと跳ねた心臓を赤司くんに見抜かれた。こちらに不敵な笑みを浮かべる彼の視線から逃げて、再び庭のほうを向く。
私に彼氏がいるって、話してないのにな。赤司くんはまるで全てを見通してるかのように言うんだ。

「大切にしてやれ」

「…うん、」

そのあとは「足が冷えただろう。早く戻るぞ」と言って立ち上がる彼に倣って私も縁側を後にした。部屋まで送ってもらって、布団に入って目をつぶる。隣で寝ているさつきの小さな寝息と秒針の音を聞きながら眠ろうとしたけれど、赤司くんの言葉が頭から離れない。私のために泣いてくれる人を大切にしろ。そう言って笑ったときの赤司くんはなんだか悲しそうにも見えたけれど、それはどういうことだったのだろうか。きっと答えは教えてくれないな。いや、そもそも答えなんてものはないのかも。どちらにせよ、自分で考えるしかないんだろうな。
どうせならもっと分かりやすく言ってくれればいきのに。だけどそれが赤司くんであって、そうだからこそ赤司くんなのだ。彼には一生勝てないなと一人笑ったあの夜を今でもしっかりと覚えている。

『君は大切な人を泣かせてはいないか』

「…泣かせてる、かもしれない。でも赤司くん、私…」

『いつでも君の味方をしてくれた人なのだろう』

苦しませてはいけない。赤司くんの言葉が、あの日と同じようにぐるぐるとしている。電話の向こうで赤司くんがまた小さく笑った気がした。

「赤司くんはさ、何でも知ってるよね」

『そう思うならそうなのだろう』

彼には一体どこまで見えていて、見えないものはあるのだろうか。黒子くんの才能をはじめとしたキセキの才能を見抜き、それを一番に生かす場所をつくってみせたのも彼だった。彼の行動で救われた人も多いし、私もその一人だ。だけど彼はどうだろうか。周りを導く度に彼は混沌に陥っているのではないか。彼だけがまどろみにはまっていくみたいで、それってすごく報われなくて、結局何が言いたいのかさえ分からなくなってきた。

「赤司くん、」

『なんだ』

「私は赤司くんのために泣ける人だよ」

電話越しでも赤司くんがびっくりしているのが分かった。それがおかしくて小さく笑えば、『そうか』とただ一言。感謝も否定も肯定もしない。それがすごく赤司くんらしくて、少しでも救われたらと思うと嬉しくなった。

『言いたいことはまだある』

「なに?」

『近々キセキが揃うことになるだろう。お前も来い。』

「……私はキセキじゃないよ」

『だが俺たちを一番近くで見てきたのは他でもないお前だ』

「だけど、」

『冬の予定は空けておけ。いいな。』

有無を言わせないそれにため息が出そうになったけれど、みんなと会えることが嬉しいのに変わりはない。できれば冬の予定を空けておきたいなんて、私単純なのかな。

『用件はそれだけだ』

「うん、わざわざありがとう。」

またね、赤司くん。切られた電話から規則正しい音が聞こえてくる。ディスプレイに赤司くんの文字が表示されていたけど、しばらくしたら消えて待ち受け画面に戻った。長時間電話していたし、かなり時間が経っているはず。謙也くん、まだ帰らないのかな。連絡をとろうと再び携帯を持ち直したとき、はかったかのように着信音が鳴った。画面には緑間の文字。今日はキセキから電話がかかる日なのかな。おは朝のお礼でも言おうかと残り少ない充電に最後までもってくれよと激励を送りながら、通話ボタンを押した。

「もしもし、緑間?」








『……、…名前…?』


聞こえてきた声に息が詰まった。まさか、そんな。だってこれは緑間からの電話で、だから和成がかけてくるわけない。もう一度ディスプレイを確認するけど、画面には緑間真太郎の文字。やっぱり彼からの電話なはすがなかった。

『名前、』

「か、っずなり…」

ああだめだ、そう思ったときにはもう電話を切っていた。最後に緑間の声が聞こえた気がしたけれど、気にする余裕もない。赤司くんのそれとは比べ物にならないほど短い通話時間。たったそれだけの時間のはずなのに、私の胸はこんなにも高鳴っている。

「……なんで、」

私の名前を呼んだとき、なんでそんなに悲しそうだったのかな。よく、分からないや。