16 結局私だけが成長していませんでした。

マネージャーを始めて一週間が経った。部室の掃除から始めて必要な備品の買い出し、コートの整備。テニス部のマネージャーなんてやったことないから何をすればいいのか分からなかったけど、自分のできることをコツコツとしていくつもりだ。なんでもすぐできるわけじゃないから、慣れるのにも大分時間はかかると思う。だけど少しずつ、私はここで成長していくんだ。

「名前ちゃーん!」

近くで聞こえた名前に振り返ろうとすれば、突然背中に衝撃を受ける。支えきれずに倒れてしまいそうになるけど、なんとか踏みとどまった。

「金色先輩っ…」

「んもう、小春でええゆうたやんかー」

ぎゅっと腕を回され、小さく肩が跳ねる。先輩は相変わらずにこにこと笑っていた。な、なんでそんな平常心…!
慌てる私を見て何が楽しいのか、さっぱり分からない。だけど鼻を掠める汗の匂いが、たまらなく心地よかった。

「金色先輩、」

「小春!」

「…こ、小春先輩…」

満足そうに私の頭を撫でる先輩には悪いけど、なんだかさつきを思い出した。さつきは女の子で先輩は男の子だから違うけど、一緒にいてあたたかい気持ちになれる。

「小春、名字さん困っとるやろ」

「白石先輩、」

また汗の匂いが辺りに漂う。白石さんだ。まだ先輩と呼ぶのに慣れないなと一人苦笑する。持っていたドリンクとタオルを手渡してから「お疲れ様です」と言えば、白石さんも笑ってお礼を言ってくれた。ほんと、高校でマネージャーができるなんて思わなかった。結局私もバスケだけでなくマネージャーの仕事も好きだったのだと改めて思う。ベンチから見るテニスの試合が、バスケの試合と重なって見える。同じだった。何もかも。私の中学時代に過ごした場所とここが、同じに見える。

「名字さん、ちっといいやろか」

「あ、はい!」

考え事をしていたためか、返事が遅れてしまった。けれど白石さんはそれを気にした様子もなくついてくるように言って歩き出す。小春先輩に離してもらってから小走りで白石さんのあとを追った。パタン。部室の扉が閉まる。もしかしたら練習試合とかの話かな。待たせちゃいけないと慌てて部室に入れば、中には白石さんと、それから謙也くんもいた。

「謙也くん?」

「おん、名前」

なんだか嫌な予感がしたのは気のせい、かな。汗が背中をつたった。薄暗い部室に外周をしている部員の声が響く。だんだんと重くなっていく空気を破ったのは、謙也くんだった。

「あんな、俺ら毎年合宿やってんねん」

「合宿、」

「せや、合宿」

だからどうしたの、と先を急かす言葉をぐっと飲み込む。合宿の日程を組んでほしいとか?いや、それだけじゃないはず。二人が言いたいのは、もっと違うこと。

「…どこで、合宿するんですか?」

言いづらそうに、だけどはっきりした声が響いた。

「東京や」

ああ、だからか。なんで二人が言いづらそうにしてたか、なんで嫌な予感がしたのか、よく分かった。東京から逃げてきた私を気にしてくれていたんだ。
話によると、合宿先は東京にある氷帝学園というところらしい。かつて全国で競い合った学校で、謙也くんたちの友達、当時テニス部部長であった跡部さんという方の計らいで毎年何校かで共同合宿を行っているのだという。今年も例外なく、その合宿への誘いの連絡が来たのだという。

「今年は、その、断ろかと思て…」

「……なんで、ですか」

「なんで、って…」

「私がいるからですよね?」

二人が東京から逃げてきた私に気を使ってくれていたのは知っていたけど、まさか合宿にまで響くなんて。情けなくて、涙が溢れそうだった。

「合宿やってください!」

「せやかて名前、」

「マネージャーとして足手まといになるようなら、今すぐ退部します。私のせいでせっかくの機会を無駄したくないんです。私なら大丈夫ですから!」

お願いします。頭を下げた私に、二人は何も言わずに顔を見合わせた。
マネージャーは選手を支えるためにあるんだ。選手のことを第一に考えるんだ。それなのに選手に気を使ってもらって、本当に情けない。泣いちゃいけない。心配かけちゃいけない。血が流れるんじゃないかってくらい強く握られた拳に、ふと手が触れる。謙也くんの手だ。大きな手が私の手を包み込むようにして握る。

「わかった、」

「謙也くん…」

「謙也、名字さんは…」

「白石、名前が平気やて言うとるんや。大丈夫に決まっとる」

続けて頭に軽い衝撃を受ける。ポン、と乗せられた手からはいつかと同じような温かさが伝わってくる。

「…謙也くん、」

「なんや?」

「ありがとう。…ごめんね」

ああ私は謝るのが癖になってるのかな。前に謝るなって言われたばかりなのに、また繰り返してる。でも謝ざるをえない状況をつくっているのは、私なんだよね。
結局何も変わらない。大阪に来ても迷惑かけて謝って、その繰り返しじゃない。仕方なくなんかないし、みんなは悪くなんかないのに。私だけ成長してないみたい。

「ほんとに、ごめんなさい…」

心配かけて。迷惑かけて。弱くて。逃げてしまって、ごめんなさい。
二人は何か言いたそうにしていたけど、結局は何も言わなかった。部室に残ってドリンクを用意すると言った私の頭を数回撫でて、その場を出ていく。静まり返った部室に啜り泣く声だけが響いた。