14 中学を思い出しました。

「か、帰ったでー」

謙也くんの弱ったような声の直後にドスッと何かが落ちる音が聞こえる。え、なに。急いでそちらに向かえば、ぐったりと体を床に伏せた謙也くんがいた。

「謙也くん…!」

「そないな顔せんでもへーきや、へーき。ちっと疲れただけやし…」

弱々しい笑みを浮かべるもんだから、ちょうど作り終わっていた夕食そっちのけで謙也くんを座椅子まで連れていった。座らせてから洗濯物中にあったスエットを引っ張り出して、謙也くんに渡す。「おーきに」って言うその声にも元気がなくて、「汗とか大丈夫?タオル濡らしてこようか?」と聞けば、お風呂に入ってくるから大丈夫だと言って覚束ない足取りで立ち上がった。

「あ!」

ぱくり。謙也くんがテーブルに並べておいたお皿のひとつに手を伸ばして、エビフライを口に入れた。手洗ってないし、うがいしてない!お行儀悪い!なにより体調管理ができてない!なんだか大輝みたいだよ、謙也くん!

「んぉ!これめっちゃうまいやん!」

「ありがとう、ってそうじゃなくて!ばいきん入っちゃったらどうするの!」

「んなもんにやられるほど、やわな鍛え方しとらんで!」

「そういう問題じゃ…って、謙也くん!」

まだ話は終わっていないというのに、彼はにっと笑って風呂場に向かってしまった。はあ、とため息が漏れたけど、タオルを持って私も風呂場まで向かう。
謙也くんがこの調子だと、テニス部みんな栄養管理とか気にしてないな。明日から始まる部活に不安を覚えながらも、どこか楽しみにしている自分もいる。いや、調教したいとかそういう話じゃなくてね。
ただ、そう。輝かしい中学時代をもう一度、繰り返したいだけなのかもしれない。

「謙也くん、ここにタオル置いとくね」

「おん、おーきに」

キセキとテニス部を重ねるつもりはない。だけど中学に負けないくらいパンチの効いた高校生活を期待しているのも事実で、複雑な気持ちが拭いきれなかった。

「名前」

戸を閉めようとしていた手をとめて「なに?」と聞き返せば、声をかけてきた謙也くんは「あー」やら「えー」やら言って歯切れが悪そうにしていた。
当たり前ながら謙也くんは風呂場にいるので表情は見えない。風呂場に響いて少し大きく聞こえる声が、何かを言いたそうにしている。こんな状況では、私はただ言葉を待つしかない。風呂場の前で体育座りをして数分後。意を決したように「あんなぁ」と口を開いた。

「名前の中学んときの話が聞きたいねん」

「……え?」

無意識に漏れた声だったけど、ちゃんと聞こえていたみたいだ。再びもごもごとする謙也くんに、ぐっと拳を握りしめる。
なんで、と口をついて出た。
それは多分今考えていたことと謙也くんが言ったことが合いすぎていたから。

「俺、名前のこと全然知らへんし」

「知らないって、私も謙也くんのこと知らないよ…」

「せやから、お互いに知ってこうっちゅー話や!」

ばしゃんとお湯が波立つ音が響く。続いて「部活はどうやった?」なんて聞いてくるものだから、「楽しかったよ」と間髪入れずに答えてしまった。

「勝つことが全てだった」

「なんや、それ」

「百戦百勝を掲げていたからね。……それでも楽しかったんだよ。具体的に何がって聞かれて答えられるものじゃないけど、みんな目指しているものが違ってしまったけど、過ごしてきた時間は同じだから。」

「…なんか複雑な話やな…」

「そう?謙也くんが中学時代を仲間と過ごしてきたのと同じだよ。謙也くんも楽しかったでしょ?」

「せやなあ。仲間と盛り上がりすぎて、色恋沙汰が物足りんかったわ」

「それって、彼女ができなかったってこと?」

「おん。これでも一応告白はされたんよ?けどそんときは全国大会控えとったし、断ってん」

「そっか。まあそうなるよね。部活の友達もイケメンだったけど、彼女できないって言ってたし」

「はは、やっぱ?せやけどイケメンが彼女できへんて、相当やな」

「いや、彼は普通のイケメンじゃなかったというか…」

いつだったか黄瀬が紙パックの牛乳を飲みながらぼやいていたことがあった。まあ彼の場合は部活だけじゃなくて、彼自身を見てくれる女の子がいなかったこともある、らしい。
私はよく分からないけど、男の子はやっぱり中身を見てくれる子じゃないと嫌なんだと思う。いや、それは女の子も同じか。
「その点名前っちは完璧っスよねー」上から下まで見られて、にこりと笑って言われた言葉に顔がぶわっと熱くなるのを感じた。

「もう彼女にしたいぐらいっス!」

「名前をやるわけねーだろ」

「そうだよ!名前を彼女にしたいなら、青峰君に勝ってからにして!」

「え、ええ!?そんなの無理っスよぉー!」

「(…和成、大輝に勝てるかな…)」

そこをなんとかとお願いする黄瀬に、幼なじみ二人はここぞとばかりにタッグを組んで対抗した。まあ大輝とさつきが過保護なのは昔からだけど、黄瀬が私を心の底から自分の彼女にしたがるなんてことは天地がひっくり返ってもありえない。話はズレてしまったけど、つまりは彼ら、キセキの世代も色恋沙汰には全くの無縁であったわけだ。唯一彼氏がいたのは私だけだったし、さつきは黒子くん一筋。だからマネージャーと部員の恋愛なんて甘いイベントは起こらなかった。いや起きたら困る。それにみんなの恋人はバスケであり、バスケ部であった。こんなことを言ったら大輝と緑間あたりに気持ち悪いことを言うなとか怒られちゃうかな。
緩んでいく頬に手を当てて、再度謙也くんに「彼女つくらないの?」と聞いてみた。

「んー、まあ今のところ考えとらんなあ。名前は?」

「……私は、もう付き合わないよ。」

少しだけ低くなった声に気づいたのか、「すまん、」と謝られた。彼を振ったのも、忘れられないでいるのも全部私が悪いのに。謙也くんは何も悪くないのに。大丈夫と返した声は自分でも分かるくらいに揺れていて、すごく情けなかった。

「風呂上がったから、はよ飯食べようや」

「うん、」

「んで早く寝る!名前、明日から頼むで!」

「うん!」

ごめんね。ありがとう。謝罪と感謝を残して、戸を閉める。先に戻って、冷えてしまった夕飯を温めよう。
戸を閉める瞬間、謙也くんの「謝るなや…」という声が聞こえて鼻の奥がつんとした。