13 その笑顔に手を伸ばす。

はじめて名前に会ったのは、夜のストバスだった。

真っ黒の画用紙に青白い星を散りばめたような、そんな夜。部活帰りに寄っていたストバスは穴場で人気のない路地の奥にひっそりと鎮座していたのだけれど、そのときは人の気配を感じた。

「(…あれ、めっずらしー。人いんのかよ)」

今まで何度も来ていたが、人と会うのははじめてだった。バスケコートを眺める後ろ姿を見つめながら、日課になった自主練を行うために足を踏み入れる。

ベンチに座っていたのは、目元を腫らした女の子だった。

「ねー、君ー」

「…え?」

「こんなとこで何してんのー?」

声をかければびくりと肩を揺らして、こちらに振り返る。

「女の子ひとりって危なくね?」

「危なくない、です」

「いや危ないって」

「っわ、ちょ…!」

何してるんですか!と、女の子が声を荒げる。女の子だから一応力加減には気を付けたつもりだけど、痛かったみたい。「近くまで送るから、帰んな?」腕を掴んで立たせて帰るように促す。
よく見れば薄着だし、絶対に風邪引く。だけど彼女はその場から動こうとしなかった。

「帰り、たくない」

消え入りそうな声に、思わず眉根を下げた。帰りたくない。そう言った彼女の目にはたくさんの涙がたまってて、溢してしまうのを堪えているようだった。

「何かあった?」

「っ、」

「話してみれば?それだけでもずいぶん変わるだろーし」

自分が人見知りというものをしない気質だったためか。夜、女の子がひとりだったためか。単なる気まぐれか。単に、彼女が気になっただけか。
よくは分からないけれど、気がつけば彼女を座らし自分もその隣へと座っていた。

「ね、俺、高尾和成。君は?」

「…名字、名前です」

女の子、もとい名字さんは小さく微笑んだ。





結構な時間話を聞いた。彼女は幼なじみと喧嘩をし、それを仲裁したもうひとりの幼なじみにひどいことを言ってしまい、いたたまれなくなって家を飛び出してきたらしい。話しながら泣いてしまう彼女を宥めながら何を言うべきかと頭を働かせるも、いい言葉が見つからない。友人の話を聞いているなら話は別だが、彼女は数時間前に知り合ったばかりの女の子。いくら人見知りをしないからといって、全く知らない彼女の友好関係に口出しはできない。自分から聞くと言い出したにも関わらず何も言ってあげられないなんて、と情けなくなった。

「ごめんなさい」

「へ?」

先程とは違う、はっきりした声だった。隣に座って涙を流していたはずの名字さんは、もう泣いていない。真っ直ぐにゴールを見つめている。

「何かを言ってもらいたかったわけじゃない。解決法を教えてほしかったわけじゃない。ただ話を聞かせてしまったのは、私が弱かったからなんです。何も言わないでください。逃げ道をつくらないでほしいんです。」

だから、自分勝手だから、ごめんなさい。
再び謝った彼女に、何ともいえない思いが全身を支配した。羨ましくも悲しくも思ったし、自分もそう在りたいとも在りたくないとも思った。同時に色んなことを考えすぎて、息をするのも忘れたように彼女を見続ける。先程貸した自分のジャージが彼女の肩で風に靡いた。
刹那、空間を裂くようにして着信音が鳴り響く。
はっとなって改めて彼女を見れば、携帯を耳に当てて何やら話をしていた。自分はいったい何を考えていたのだろう。らしくない、と頬をぱんと叩く。持っていたスポーツバッグからボールを取り出してコートに立てば、彼女の声響いた。

「高尾さん、」

「んー?」

「幼なじみが、迎えに来てくれるって」

嬉しそうに言ったあと、ジャージをきれいに畳んでベンチに置く。ありがとうございましたと俺とコートにお辞儀をして、彼女は駆けていった。その後ろ姿は物語っている。俺に逃げ道をつくってもらうのは簡単だけれど、その答えが正しいかどうかなんて分からない。自分で解決しようとするからこそ、最善の手が見つかるのだと。

「(…弱い子だな…)」

強い意志を持った彼女はすごく弱くて、儚い子だと思った。





この間のお礼がしたいんです。それが名字さんが再びこのコートに来た理由だった。今度は厚着をしてたけれど、鼻が赤い。俺が部活帰りに来るのをずっと待っていたのだろうか。気にしなくていいと言えば、彼女は困ったように笑って「お礼させてくれるまで、帰りませんから」とベンチに座った。

「じゃあさ、たまにでいいからここに来てくんない?」

はじめはびっくりしたように目を丸くさせたけど、すぐにふわりと笑って頷く。その日連絡先を交換し、俺たちの関係がはじまった。

気がつけば2年が過ぎていた。名字さん、名字、名前ちゃん、名前。呼び名も、彼女に対する思いもどんどん変わっていく。儚い存在に惹かれ、憧れ、守りたいと思った。それに人をこんな風に思えるなんてとただ単に嬉しかった。思いを伝えたその瞬間、名前の目からは涙が溢れる。「私も、好き」返された言葉を聞き終わる前に、その細い体を抱き締めた。
今思えば、あのとき言えばよかったんだ。なんでもひとりで解決すんなって。ひとりで解決したとしても、それは最善の手ではないかもしれない。ふたりで、さんにんで答えを出すことが幸せになる近道かもしれないって。あのとき伝えればよかった。別れようと言われた瞬間、今度は俺が泣いてしまいそうだった。赤く腫れた目に、平然装っても隠しきれてない罪悪感に満ちた表情。握り締められた小さな拳。名前は、俺が何か言う前に走っていなくなってしまった。泡のように、溶けてなくなってしまった。手の届かない遠くの場所へ旅立ってしまった。もっと頼らせてあげられれば。もっと強ければ、名前を手離さずにすんだかもしれない。後悔が渦巻く俺の中心で、名前の笑顔だけがいつまでも輝いていた。





「さっさと起きるのだよ!」

「いってぇ!」

突然頭に走った衝撃に顔を上げれば、包帯の巻かれた手で眼鏡を押し上げる緑間の姿があった。周りの生徒が下校を始める中、彼は部活鞄を持っている。

「早くしろ、遅刻する」

「真ちゃん待っててくれたの?やっさしー」

「置いていくぞ」

待って待って!と慌てて用意をはじめれば、彼の今日のラッキーアイテムである狸の信楽焼を持つようにとお達しを受ける。はじめの頃はなんでこんなものをと思ったのだが、これでシュート率が保たれるのなら安い話だ。

「(…またあの夢か…)」

名前の笑顔が脳裏に映る。忘れることなんてできないだろう。彼女は新たな地で、新たな出会いを繰り返し、新たな恋人をつくっているかもしれない。それでも彼女に対する思いは変わらないし、変わりそうにない。いつまでもこの関係を続けるのもよくないと思ってはいるものの、中々一歩が踏み出せない。あのあとすぐに連絡先を変えられたのだ。また拒絶されたら俺は、

「…高尾?」

「ん?なに?」

「…いや、なんでもない」

そう?平然を装ってにっと笑うも、真ちゃんは納得のいかない顔でこちらを見つめた。しかし、鳴り響いた着信音に肩を揺らして携帯を取り出す。ああ今度は俺が待つ番だと信楽焼を抱き抱えて席に着く。しばらくすると、突然目前に携帯の画面が突き出された。

「え、ちょ、なに真ちゃん!」

「見ろ!おは朝のラッキーアイテムのおかげで友人ができたと言っている!」

そんなに嬉しそうに言うものだから、どんな相手かと思えば文面からして女の子。へー、真ちゃんに女の子のメル友って珍しい。あとでちゃかそうと名前を確認すれば、一瞬にして息がつまった。

「…名前?」

名字名前。画面にはたしかにそう映されている。文面も、よく見れば彼女のものと酷似している。
まさか、そんな偶然があるわけがない。ばっと腕を掴んで見上げれば、真ちゃんは驚いたようにこちらを見た。

「どうした」

「名前、名前ってさ!あの名前!?」

「どれだ。そもそも名字は帝光中で、お前が知ってるわけ…」

「何でも自分ひとりで解決しようとする子でしょ。それに見て、真ちゃん!」

急いで携帯を取り出し、いつの日か撮った写真を引っ張り出す。この写真を誰かに見せるのははじめてだったけど、もう今さらそんなことは言ってられない。
写真を見た真ちゃんは唖然として、呟くようにして言った。

「名字、なのだよ…」

真ちゃんと連絡をとっている名字名前は、俺の恋人の名字名前。同一人物だと分かった瞬間の俺は、試合でも見せたことのないスピードで真ちゃんの携帯から名前の連絡先を自分の携帯へと送った。新しく登録される名前の連絡先を見て、嬉しさが胸いっぱいに広がる。

「おい!高尾!どういうことだ!」

「真ちゃんありがとなのだよー!」

勢いあまって抱きつけばすぐに抗議の声が上がる。だけどそんなものは気にならないくらいに、嬉しかった。笑んでばかりいた名前がこちらに歩み寄ってくれたみたいで。茨の道が開けたみたいで。その笑顔に手が届きそうで。溢れる思いを、どうすることもできなかった。

「(……名前、)」

すぐに会いに行って、謝るから。ひとりにさせてごめん。弱くてごめん。悲しい思いさせてごめん。

「高尾…?」

「ごめん、真ちゃん」

俺はずっと、名前がいなくなってからずっと泣いていたのかもしれない。見えないはずの涙が、ゆっくりと頬を伝う。風が吹き抜けて涙を拭ってくれたような気がした。