和成と喧嘩をした。喧嘩というか、あれは軽い口論であって私にとっては喧嘩のうちにはいっていなかったのだけど、はたから見たら喧嘩なのだろう。認めたくないけれど、今ははっきりと喧嘩だったといえる。なんたってあの普段声を荒げない和成が、私に向かって言ったのだ。「無理して会われても嬉しくねえし」と。
無理してる?和成と会うことを?そんなわけがない。たしかに今日は和成との約束があるのになかなか練習は終わってくれないし、約束の時間は過ぎるしで私は焦っていた。けれど私たち帝光中バスケ部は試合を控えているし、なにより私は彼らのマネージャーであって、自分の都合で彼らの練習の妨げになってしまってはならないと練習が終わるのをただじっと待っていたのだ。赤司くんの「終わりにするぞ」が聞こえた瞬間、隣にいたさつきが「名前!あとはわたしがやるから!」と私の肩を押す。「がんばれ!」の声を背中に受ける。ありがとう、さつき。その言葉に頷いてから私は急いで校舎を出て時間を確認した。8時30分。約束は7時だった。


「も、もしもし、和成、」


約束の場所へ足を運びながら、コールが終わったばかりのそれに向かって声をかければ、携帯を通して『おー名前おつかれー』といつものそれが聞こえてきた。


『今終わった?』


「うん、連絡もできないでほんとにごめんね…」


『いーよ、別に。名前疲れてんの知ってるし』


「でも、本当にごめん。…あの、さ、今からでも渡したいものがあるんだけど、会えない、かな」


会いたかった。約束は破ってしまったけど、最近の疲れで倒れてしまいそうだったけど、それでも私は和成に会いたかった。紙袋を持つ手に力を込める。
携帯越しでひゅっと音が聞こえた。


『……や、別にいいよ、会わなくて』


そこから先はよく覚えていなかった。和成の冷たい口調と、さっきまでぽかぽかとしていた気持ちが一気に氷水に放り込まれたような感覚。絶えず動かされていた足がぴたり、と地面に吸い付くようにしてとまった。


『疲れてるみてえだし、今度でいいんじゃない?』


「和成、?」


『疲れてるならそんな無理して会わなくてもいいっしょ』


「和成、わたしはっ……!」


『だから、無理して会われても嬉しくねえっていってんの!』


突き刺さるような怒号が静かに鼓膜を揺らした。
昔から泣き虫で弱かった私がここで泣かなかったのは、それだけ和成の言葉にショックを受けていたからで。だからといって悲しくなかったわけではない。悲しむ暇などなく、和成にそんな気を使わせてしまったこととか、自分やバスケ部のことに精一杯で彼に気づいてあげられなかったこととか、そんなことを言わせてしまったこととか。そういったものが一気に溢れてきて。自分では制御のしようもなかった。けれどなにも悲しみに限ったことではなかった。ふつふつと沸き上がるようにして私を徐々に支配していくそれは、自分のことなのに私にはどうすることもできない。

手に持っていた紙袋に自然と力が入る。
だめだ、口を開いてはいけない。今は悪いことしか言えない。とりかえしがつかなくなる。言っちゃ、いけないのに。
けれどその葛藤は意味を成さず、私がどれだけ嫌だ嫌だと口を詰むごうとしてもそれはならなかった。


「なに、それ、」


『……』


「私が無理してるって、そう言いたいの?」


『っ名前、』


「無理なんか、してないよ……!」


『名前、ごめ――――』


「和成なんかもう知らない!」


あぁ、言ってしまった。言葉にしたあとでいつの間にか流れていた涙に気づいてそれを拭っていると、通話口から『名前、』となんとも弱々しい声が聞こえてくる。
その声に一気に罪悪感が溢れでた。息を飲む音が聞こえる。何か言おうとしているみたいだけど、今の状況で彼の話が聞けるほど、私は大人ではなかった。
向こうで和成が息を飲むのが聞こえてから、私はほぼ本能的に通話を切って走り出していた。走りながら、バッグに携帯を押し込む。暇がなかっただけで、やはり悲しいことに代わりはなかった。携帯のついでにとまることを知らない涙も押し込めることができたら、どんなにいいだろうか。









場所は大通りからストバス。人気のない道を近所迷惑になるんじゃないかってくらいに大きな足音を立てて駆け抜けた。
普段和成が夜は危ないから一人で歩くなよ、なんて言ってくれる道も今は堂々と一人で走った。ストバスに着くまでに和成と話した美味しいお店とか、近くに住んでるらしい猫の話とか、たくさんのことを思い出したけど、もうそれも今となっては苦しいだけで、吐き出してしまいそうになる弱音も嗚咽も全部全部巻き込んで、私はそれを吐息として吐き出しつづけた。和成と二人でならあっという間に着いてしまうストバスも、なんだか遠い気がした。
そうしてやっとの思いでフェンスをくぐってからコート脇にあるベンチにどかりと座った。女の子らしくない座り方だ。

たしかに最近は部活のことも家のこともバタバタしていたし、今週は小テストの嵐でもあった。不合格になれば課題がかせられるということに加えて、放課後は居残り補習に参加させられるとのこと。もちろん試合を控えている私たちにとってその小テストは何よりも優先すべきことだった。落第点をとらないように、と赤司くんからもきつく言われていた。そこで問題となるのが大輝だ。私とさつきは練習前に赤司くんに呼び出されてひとこと。「大輝を頼んだ」その一言から全てを理解した私たちはまず、大輝にその単元内容を叩き込もうとしたけれどバスケ以外に関しては要領の悪い大輝は理解が悪く、結局小テスト内容を予想したものをひたすら覚えさせて毎度のことだがギリギリで回避してもらった。けれど私にとってさらに重大なことがまだ残っているのだ。それが和成の誕生日だった。

何を渡せばいいのか悩んで悩んだ末に選び抜いたのはありがちだけれど、マフラーだ。寒そうに手を擦り合わせていたから手袋と悩んだけど、でもやっぱり、マフラーなのだ。決め手はもちろん不器用な私にでも作れるもの、だった。手袋とか難しそうで作れない。
そんなマフラー作りはちょうど部活、家事、小テストと全てかぶってしまっていた。だけどやめることもできない。正直なところ、私の中で優先されたのは小テストよりもマフラーだったかもしれない。睡眠時間を削って遅くまで作業に没頭する毎日で寝不足だったけれど、その甲斐あってかそれなりのものはできたし、小テストの週間も終わり、母親も帰ってきて、あとは試合と、手編みのマフラーを和成に渡すだけであったというのに。残念なことにそれは叶わず、放り投げた鞄の横でマフラーを入れていたピンクの袋がくしゃりと歪んでいる。それを横目にやって、あれじゃあ渡すことはできないなと自嘲気味に笑った。

あんなにも頑張っていたのになんだかそれさえも無駄だった気がしてまた泣きたくなった。ストバスに来てからはなんとなくとまっていた涙もまた溢れてきた。
情けない自分とさっきまで綺麗だったピンクの紙袋にできている皺が似た者同士な気がした。くしゃくしゃだよ、私も、あなたも、惨めなものだね。
足を大の字にして開いて、それから深く腰かけた。謝らなきゃいけない、和成に。分かっている。分かってはいるのだ。だけど、今は、今日はもう、話せない。
ならば早く帰ろうか、と重い腰を上げたときだった。大輝にお迎えでも頼もうかな、なんて弱気になっている自分を笑いながら携帯を取り出せば、ふと視界に影が見える。
こんな時間に、しかも人気のないストバスで誰かがいるわけないと思ったけど、まさに自分もそうやって一人でここにいるわけで。急にぞっと背筋に嫌な汗が流れた。どうしよう、と携帯を握りしめる。いざとなったら電話をかけよう。誰かに助けを求めよう。不審者と遭遇なんて確率は低いのに、もしかしたら、が頭を離れない。だんだんと近づいてくる音に耳を研ぎ澄ました。それは、テンポの早い足音で、こちらに向かって一直線に進んできてるようだった。怖かったけれどいつまでもこうしていては仕方ない。暗い中でも目は慣れてきてるし、姿を捕らえるくらい容易いはずだ。よし、大丈夫。ゆっくりと深呼吸をして私は顔を上げた。


「名前っ!!」


「……え、」


名前を呼ばれたのと同時に私の体は大きく仰け反りかえった。それはすごい勢いでぶつかってきたもの、否、和成のせいで。
どうして、と力なく声を漏らした。肩で呼吸をしている。走ってきたんだろうか。こんな薄着で?


「っ急に切られるし、泣きそうだし、……ほんと、心配した」


冷えきった体に腕が回される。冷たい。私はそれなりに暖かい格好をしているけれど、和成は部屋着だった。こんな寒いなかで、私のこと探してくれたの?また泣きそうになった。


「かず、なり、」


「…………」


「和成っ、いたい、」


「え、あ、ごめ…!」


あまりにぎゅうぎゅうと抱き締められるものだから思わず声を上げた。その途端ぱっと腕を離されるもんだからびっくりして今度はよろけた。そんな私を見て再び「ごめん!」と慌てた様子で和成が支えてくれる。


「あ、ありがとう、」


「ん、寒くない?」


「ちょっと寒い、かな」


「そっか」


「うん」


「……」


「……、」


「……あの、さ、」


向き合うようにして、だけどお互い顔は合わせないで下を向いたまま。あのときの電話のように弱々しい声だった。
先に口を開いたのは彼だったけれど、やはり言いにくそうに再び口をつぐんでしまう。私だって謝らなければならないのに。だけど正直、和成がここまで来てくれるなんて思ってもいなくて、さっきの今だから何を話したらいいのかも分からないまま。気まずいなんてものじゃない。あんなにも謝りたいと思っていたはずなのに、いざ本人を前にすると足がすくむ。億劫になっているのだろうか。あんなことを言ってしまった手前、私には彼と面と向かって何かを話す勇気も何も残っていない。「(和成)」頭の中ではいくらでも想うことはできるけれど、相手に何も伝わらないのだから意味がない。けれどそれは、私だけでなく和成も同じで。


「名前、その、さっきはごめん」


「……」


「部活で忙しいって、疲れてるって俺知ってんのに、その、無理させて、」


「…和成、」


「でも、誕生日も一緒に過ごせないんだって考えたら、すっげえ悔しくて………いや、違う」


「ごめん、嫉妬してた」ゆっくり、ゆっくりと紡がれていくそれを、臆病な私は一語一句聞きのがさぬようにただ黙って耳をすましていた。
聞き手にまわるのは卑怯だ。彼の言葉を受け入れるだけの私は本当にずるい。だから私は、うんうんと頷いて最後に「私も」なんて絶対に言わない。


「だから、俺、」


そこにはいつもの笑顔はなく、あるのは真っ直ぐに私を見つめる和成だけだった。強い人だなあ。私はそんな彼に惹かれて、ここで話しているうちにどんどん好きになって。あの日和成が照れくさそうに想いを口にしてくれたときから私は、ずっとあなただけが眩しかったのだ。だんだんとぽかぽかとした気持ちが戻ってきて、心を満たしていくのが分かった。ここは相変わらず外で、人気のないストバスで、コートや手袋が必要な11月の寒さのなかに私はいるのに、もうちっとも寒くなんかなかった。


「和成、私無理なんかしてないよ」


和成と会うとか、話すとか、目を合わすことだって私は嬉しいし、満足してるんだから。


「私は和成と一緒にいたい、疲れててもいたいよ」


「あ、でも和成が迷惑じゃなければだよ?部活で忙しいのは同じだし」とあわててつけたす。私だけが会いたいとか思っていても意味がない。
はじめこそ真剣な顔つきで私の話を聞いていた和成もあわてた様子の私を見てか、ふっと小さく笑みをこぼした。いつもの和成だ。「和成、本当にごめんね。……だいすき」瞬間、私の体は再び和成の腕の中へと吸い込まれた。


「名前」


目前に広がる和成の整った顔。突然のことに一瞬目を見開いてしまったけれど、すぐに気恥ずかしくなって瞼をおろした。
さわり、と優しく撫でられているようなキスだった。さっきとは別の意味で立ってられそうにない足にたくさん力を入れる。「(私、いま、幸せだ)」和成の唇が離れる。それでもお互い体は密着させたままで。


「名前、大好き」


ああ私は、この笑顔を見るために。
視界の端にとらえたピンクの袋も、さっきより鮮やかに暗闇を彩っているように見えた。









そして目が覚めた。真っ暗な暗闇のベッドの上だった。いま、何時だろう。ぼうっとした頭でそんなことを考えて時計を見やる。時刻は深夜。どうりで寒いはずだ。冷たい風が体にあたって思わず身震いをした。こんなにも肌寒ければ普段お腹を出して寝ている謙也くんもちゃんと毛布をかぶっているだろう。でなければ風邪を引いてしまう。それは私も同じで、あまり体を冷やしてはならないと枕元の小さなテーブルに置いておいた水の入ったコップに口をつけたあと、多少の潤いを感じながら再びベッドの中にもぐりこんだ。

どうして今になってこの夢なのだろう。まだ私も和成も笑っていた、私の恋い焦がれた笑顔がすぐ手の届くところにあったころの、懐かしい夢。つい1年前のことであるというのに私にとっては何十年も前のことのように思えた。
こちらの生活に不満があるわけではない。むしろ東京にはない楽しさや暖かさがたくさん溢れている場所だ。悲しいことだって忘れさせてくれるような、そんな場所で和成のことをこんなにも考えてしまうのはきっと、今日が11月21日であることに他ならない。


「……和成、誕生日、」


おめでとう、は音にはならず、静かに夜の闇に溶け込んでしまった。


和成は知らない。私が今日一日中上の空で美琴ちゃんや財前くんに心配されたことや、ケーキを買ってきてしまったことを。

私は知らない。和成が今日一日中上の空で緑間や部活の仲間に心配されたことや、あのときのマフラーが今も彼の首元を暖めていることを。

私たちは知らない。何も、知らないのだ。


(20XX年11月21日)

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本当は意地でも間に合わせるつもりだったんです……。書きはじめていたのは事実なんです…!
遅れてしまって申し訳ありませんでした……(ローリング土下座)
高尾くん誕生日おめでどうございました!!!!
大好きです高尾くん!これからも元気な姿たくさん見せてください!^ ^