教室に明日提出の課題を忘れたから一緒に来てほしいと連絡したのは私だ。夜の9時。夏は暗くなるには時間がかかるけれどこの時間はもう辺りは暗くなっていた。できればこんな時間に学校に行きたくはない。けれど、課題を提出せずに担当教師からお怒りをくらうのはごめんだ。でも一人で夜の学校に潜り込む勇気はない、とここで頭に浮かんだのは幼なじみのおそ松だった。メッセを送れば『おっけー。10分後にお前ん家の前な』と返事が返ってきて、こんな夜中に、と心配しているお母さんを「おそ松と一緒だから」とうまく言いくるめて外に出る。よっ、と片手を上げた彼と合流したあと、「んで、なんの課題?」と聞いてくるこいつに「おま…あの山下先生の課題だぞ…命知らずめ…」と内心すごく呆れたけれど、彼らしいといえば彼らしかった。

先に正門によじ登ったおそ松の手を借りてなんとか這い上がったあとは、下で「ん」と手を広げる彼の胸に飛び込む。その時に少し、いやかなり抱きあうような体勢になってドキッとしたけど、今さらこいつは何とも思ってないんだからって自分に言い聞かせて、校舎裏に向かっていくおそ松につづく。「裏側の体育館窓から入れんだよ」振り返ったおそ松が得意気に笑う。ほら、何も気にしてない。

おそ松に夜の学校に忍び込む件を付き合わせたのは、幼なじみだから誘いやすいという理由の他にこういうことをよく知っているから、というのもある。どの窓が壊れてるだとか、いつ見回りの警備員が来るだとか。下手したらもっとやばいことまで知ってるのかもしれないけど、とにかくこういう時、おそ松に付き合ってもらうほうが確実にバレずに課題を持ち帰れるのだ。まあ、理由はそれだけじゃないけど。ガラリ。おそ松の言った通り開く窓に足をかけて、私たちはひんやりとした廊下に足をつけた。


自分の教室で課題を回収したあと、さっさと帰ろうと小声で話をしながら何回目かの見回りをやり過ごし、体育館へ向かう途中、急におそ松が方向転換をした。「え、どこ行くの」と焦ってあとを追いかける。私は早く家に帰りたかったけれど、今おそ松と別れてしまえば警備員に見つかるのは目に見えていた。「お、おそ松、」「ん、こっち」伸ばしていた手を掴まれて、ぎゅっと握られる。一瞬にして全身を駆けめぐる熱に気がつかない振りをして階段を上っていけば、たどりついたそこは屋外にあるプールだった。「いま、ここの鍵壊れてんの」にやりと笑ったおそ松が、扉を開ける。


「わ、」


開放感半端ない!
今までずっと息をひそめて、なるべく物音を立てないように動いていたから、目の前に広がる水面に少し心が踊る。見慣れたはずのプールだけれど、夜ってだけでこんなにも変わるものなのか。既にハーフパンツから伸びる足で水を蹴飛ばしているおそ松に「ほら、ちっとだけならバレねぇって」と急かされ、裾を何度か捲ったあとわたしはそこに足を浸した。縁に座って、つづいて手で水をすくう。隣に立つおそ松とふたりっきり。しかも場所は夜の学校ときた。こんなことはめったにない。楽しいなあ。小さく笑みがこぼれる。


「なあに、はしゃいじゃって。そんなに楽しい?」


「ふふ、うん、楽しい。おそ松と一緒だからね」


ちょっとだけ、ここまで来るのに何度もドキドキさせられたから、そのお返し。まあおそ松にとっては何年も連れ添った幼なじみの背中に腕を回すことも手を繋ぐことも、なんとも思ってないんだろうけども。


「……お前さァ、」


「ん?」


「…、……いんや、なんでもねぇ」


もう少し遊んでくか、とそう提案してきたおそ松はもういつものおそ松だった。同意の意味も込めて手ですくっていた水をふっかけたら、「っこんにゃろ、」とすぐにかけ返されて、そこからはもう水のかけ合い。だんだんと濡れていく服に少し寒さを覚えて、もう帰ろうと切り出した頃には、学校に忍び込んでからずいぶんと経っていたように思う。そろそろお母さんが心配する。私もおそ松も課題やスマホは濡れないようにと近くのベンチに置いてある。時間を確認しようと水から足を引き上げて立ち上がろうとした、その時だった。


「っえ、」


どぼん。
立ち上がろうとしたそのとき、後ろから小さな衝撃を受けて、そのままプールに飛び込んでしまった。一気に全身が濡れて鳥肌が立つ。こんなことをするのはどう考えてもおそ松しかいない。寒いんだけど!とか、危ないでしょ!とか、言いたいことはたくさんあったけれど、私が水面から顔を出す前にまたどぼん、と何かがプールに飛び込んできた。たぶんおそ松だ。


「っぷは、……ちょっとおそ松!あぶないで、」


しょ、と続くはずだった言葉は音には鳴らず、喉でとどまった。顔を外に出して、何か言ってやろうとおそ松のほうを向いたのだけれど、突き放されたさっきとは違って、今度はぐい、と思いきり抱き寄せられた。目の前に広がる胸板に、正門でのことを思い出してまた胸がうずく。


「…お、そま、」


「………………」


突然のことに頭が追いつかない。背中に回された腕に、私が彼の名前を呼ぶたび力が入る。まるで私を逃がさないとでもいっているみたい。ああ、私、おそ松が好きだ。おそ松はそんなこと思ってもないのに、私だけが振り回されてる。
さっきまでふざけあっていた空気がどこかにいってしまったみたいにしん、と静まり返った空間に、首筋に埋められたおそ松の頭。彼の髪の毛が水に濡れて、私の頬に張りつく。


「おそ松、どうしたの、」


「…んー」


んー、じゃ、なくて。
いくら夏だといってもこんな時間にプールに全身浸かってしまうのは寒い。現に今さっきまで鳥肌が立っていた。なのに、…なのに、おそ松に抱き締められたら、寒いはずなのに、じわじわとからだに染み渡っていくのは今まで私が弄んできたあの熱だった。


「…なぁ、」


「な、なに、」


「……これでしばらくは、帰らんねぇよな」


まあ、濡れたまま校舎を歩くわけにはいかないし。
……でも、それって、


「もうちょっとだけ。……な?」


すっとからだを離されて、それでようやく視界に入ったおそ松の顔は、いつもの彼とはどうにも似つかわなくて。吸い込んだ息をそのままに、唇をきゅっと閉じる。自分でも分かるくらいにからだが熱い。


「おそ松、」


「んー?」


「…わたし、かえりたく、ないかも」


手を伸ばして、ゆっくりと顔を上げた先にある頬を撫でると、おそ松の目がすっと細められたのが分かって、ゆっくりと顔が近づいてくる。「こんな状況で言うとか、煽ってんの?」そこでやっと、ああ、おそ松もちょっとくらい気にしてくれてたのかなって、ドキドキしてたのは私だけじゃなかったのかなって、そう思えてきた。「そう。……煽ってるの」また、私を抱き締めるそれに力が入った。好きだと伝えたわけでも付き合うと言ったわけでもないけれど、今ならお互いの気持ち、分かるよ。だから、今はこのまま。


「手加減できそうにねぇんだけど、いーい?」


触れるか触れないかのぎりぎりの距離で囁かれたその言葉に、小さく頷く。瞬間、おそ松のそれと重なったことで、上下の唇が優しくつぶれた。