腕のなかはぽかぽかしていて暖かいのに、背中に回されている手はとても冷たかった。


「コウタくん、」


心配かけてごめんね。わたしはもう大丈夫だよ。
コウタくんの腕の中で埋めていた顔を上げて彼の表情を窺いながらそう言えば、コウタくんはぎゅっと眉を寄せてとても苦しそうな顔をして しばらく視線を絡ませたあと、何も言わずにまたわたしの首筋に顔を埋めた。それがとてもくすぐったくて身を捩ろうとしたけれど、あまりにもぎゅうぎゅうと強い力で抱きしめられるものだからそれは意味を成さない。
普段あまり感情を外に出さない彼がこんなに弱っている姿なんて、わたしはこの学園に入学してから見たことがなかった。はじめは表情の変化に乏しいのでは、なんて失礼なことを考えていた時期もあったけれど、それはわたしの勝手な勘違いで、全ては東郷くんのためで。東郷くんの任務をジェノックのみんなで受け持つことになったときのコウタくんのあの優しげな笑みを見たとき、わたしはたぶん、彼の全てが愛しくなったんだ。






コウタくんはメカニックでわたしはプレイヤーだったけれど、東郷くんをきっかけにわたしたちは少しずつ話をするようになった。内容は些細なことばかりでまたとても短い時間だったけれど、わたしは1日で何よりその時間が楽しかったし、コウタくんとも前とはくらべものにならないくらい仲がよくなったと思う。就寝準備から消灯時間までの約1時間。談話室で寝間着姿のわたしは、時間の許すかぎりコウタくんにメカニックのことを教えてもらった。同じく寝間着姿のコウタくんも、いくらメカニックといえどやはりバトルにも興味があるのか、必殺ファンクションの使いどころだったり作戦の立て方なんかをたくさん聞いてきた。勝負を持ちかけても自分はあまり上手くはないから、とかわされてばかりだったけれども。
毎晩そんなことがつづいて、談話室でわたしとコウタくんの二人きりというその状況はとてつもなくわたしを安心させたし、同時にとても恋しかった。
この頃にはもう、わたしはコウタくんをひとりの男の子として愛してしまっていた。






それから間もなくしてセレディ先生率いるワールドセイバーが学園を支配したことによって始まった"本当の戦争"で、コウタくんを除く第3小隊のみんながロストして、そして"本当の戦争"で致命傷を受けた人間が死んでしまうのと同じように、ロストはプレイヤーの死を意味した。
東郷くん、ロイくん、アカネちゃん。ジェノックのみんなが途切れた回線に向かって必死に声をかけるけれどもう誰からも返事はなくて、そんな状況下におかれた わたしは今すぐにでも逃げ出したくなり、開くことのないコントロールポッドのハッチを必死に叩いた。けれど"本当の戦争"で兵士の逃亡が許されないのと同じように、わたしたちもまたウォータイムから逃れることはできなかった。
あのときのわたしは逃げることに必死で冷静さをかいていた。いや、むしろあの状況で冷静にいられた人間なんていないはず。それほどまでにセレディ先生の言っていた"本当の戦争"とは恐ろしいものだったのだ。
それから無我夢中でLBXを動かしつづけてウォータイムを終えた頃には、何人もの生徒がコントロールポッド内で息絶えていた。みんなが泣いていて、わたしもぼろぼろと涙を流す。はじめて身近に感じた"死"が、怖くてたまらなかった。


「お前だけには、死んでほしくない」


そう言ってコウタくんは、泣きじゃくるわたしを優しく包み込んだ。コウタくんは自分の死を恐れているのと同時に仲間の死にひどく敏感になっているようで、自分のことでせいいっぱいなわたしとは違って人のことを気遣えるとても優しい人だった。二人きりの静かな空間で、死ぬのが怖いだのウォータイムに参加したくないだのコウタくんと離れたくないだの、ただただ泣いて何かにすがろうとするわたしを、コウタくんはただただ抱きしめてくれた。
けれど決して、「大丈夫だ」とは言われなかった。






参加を拒むことはできないウォータイムの開始を知らせる放送が流れ、わたしは泣きそうになるのを堪えながらコントロールポッドへ向かった。あそこに入れば最後、ウォータイムを生きたまま終えるまでわたしは外に出ることができないのだと思うと、また恐怖から涙がこぼれた。けれどそれはみんなも同じであるのだから、わたしだけが喚いていいわけじゃあない。ワールドセイバーに先導されてコントロールポッドへ向かうあの瞬間は、まるで死刑台に送られている罪人のような気分だったのをよく覚えている。嗚咽をもらしながらも重たい足を動かす仲間を見て、わたしも静かに涙を流した。


「名字、」


涙が頬をつたって床に落ちる前に、それはコウタくんによってすくわれた。「ウォータイムが終わったら、話したいことがある」少し後ろを歩いていたはずのコウタくんがそっと隣に寄り添って、わたしたちを先導するワールドセイバーに聞こえないように、とても小さな声でそう言ったとき、わたしはいつ死ぬかも分からないのだから今すぐにでも言ってほしいと返した。「だめだ」コウタくんは、涙をすくったその指で、今度はわたしの唇をそっと撫でた。「ちゃんと、落ちついたときに話したい。…だから、お前は絶対に死ぬな」このときのコウタくんを、わたしは今でも忘れない。






だから、死んでしまう前に聞いておきたいって言ったのに。
コントロールポッド内の画面がロストの文字を浮かべてから、すぐにどこからかガスが吹き出した。
それは紛れもなくわたしのLBXのロスト、つまりわたしの死を意味していて、最も恐れていたその状況に半狂乱になって取り乱した。『いや、うそ、名前!』『名前!返事をしろ!名前!!』共通回線から聞こえるハルキやユノ、みんなの声に何も応えられない。ハッチを叩きすぎたせいで手が赤くなって、涙はこぼれて。死にたくない、死にたくないと繰り返すわたしは、ワールドセイバーにとってはとてもいい見せ物だったに違いない。死ぬことが怖くてたまらなかった。助けてほしかった。ここから、出してほしかった。


『名字!!』


回線から聞こえるみんなの声の中で、ひときわ大きな声がわたしの名前を呼んだ。コウタくんの、声だ。
すでにポッド内に8割は充満しているガスにむせてだんだんと意識が遠退いていく中、わたしは「こうたくん、」と小さく応える。『名字、たのむ、死ぬな、死なないでくれっ…』コウタくん、泣いているのかな。声が、すごく、震えてる。
けれどその声に「大丈夫だよ」と言ってあげられることもできなければ、ハッチを叩く気力もなくて、どこかぼうっとする頭でわたしも もう死ぬのかな、なんてことを考えた。座席の背もたれに背中と頭を預ける。
わたしはただ、LBXの勉強をするためにここに来たのに。死ぬためなんかじゃ、ないのに。会いたい人にも会えないまま、わたしはこんなところで一人で死んでしまうのかと思ったら悔しくて悲しくてたまらなかった。コウタくんの話したいことだって わたし、まだ聞いてない。


「(…そ、うだ、わたし、)」


わたしだって、コウタくんに言いたいことがある。
ちゃんと、伝えたいことが、


「…コ、ウタ、くん、」


最後の力を振り絞って、ゆっくりと手を伸ばす。
まだ少しからだの自由がきくうちに、早く、コウタくんに伝えなくちゃ。


「コウタくん、」


『っ名字…!』


共通回線とは別に、もうひとつ、新しい回線をコウタくんにつなぐ。震える指先でそれを送れば、コウタくんはすぐに応えてくれて回線が通った。
その回線からは、先程よりもはっきり、コウタくんがわたしの名前を呼ぶ声が聞こえる。


「き、いて、コ、タくん、」


『…っ、あぁ、聞いてる、ちゃんと、聞いてるから、』


「…ん、あ、のね、」


あ、だめだ、もう、意識が、


「コウタくん、だいすき」


わたしの意識は、そこで途切れた。






次にわたしが目を覚ましたのは、ダッグ荘の自室だった。あまりにも普通に目が覚めたものだから、セレディ先生のことも風神くんのことも、みんなや、自分が死んでしまったのも全て夢なのかと思ったほどだ。


「あ、名前!目が覚めたのね!」


たしかに自分が死ぬあの瞬間に感じた恐怖や、痛みはなかったけれど意識が遠退いていく感覚をわたしはしっかりと覚えていたはずなのにこれはどういうことだろう、と頭を捻っていると、ちょうど部屋のドアが開いて柔らかい表情を浮かべたユノがぱたぱたと駆け寄ってきた。


「大丈夫?どこか痛いところはない?―――って、これはわたしが聞くことじゃないね。」


「えっ、と、ユノ、これは…?」


「詳しくはコウタに聞いて。いま呼んでくるから」


「コウタ、くん?」


「そう、コウタ。ついさっきまでここで名前の手握ってたんだけど、リクヤに呼ばれて行っちゃったの。目を覚ましたらすぐに知らせてくれって頼まれてるの。」


だから、ちょっとだけ待っててね。

そう言い残してユノは再びドアを開くと、また小走りで廊下を走っていったようだ。だんだんと小さくなってゆく足音を聞きながら、わたしはというとユノが残していった言葉を整理するのに必死だ。
試しに頬をつねってみたらとても痛かったから、これは夢ではなく現実なのだろうけど、セレディ先生たちのことが夢だったという解釈には無理があるし納得がいかない。けれど逆にあちらが現実なのだとしたらわたしはロストして死んだはずで、こうして生きていること自体がおかしい。だからつまり、いったいどういうことなのだろう。わけがわからずにしばらく首を捻っていると、また廊下のほうが騒がしくなってきた。バタバタと廊下を走る足音。けれど先程ユノが鳴らしていたときのような控えめなそれではなく、もっと男らしく慌てたようなそれにわたしは一人の男の子を連想させた。


「っ名字!」


ああ、やっぱり。と思ったのと同時に、わたしのからだは、勢いよくドアを開けて駆け込んできたコウタくんによって抱き締められる。


「コ、コウタくん、」


「痛いところは」


「へ?」


「怪我とか気分とか、変なところとか、ないか」


「えっ、あ、うん、大丈夫だよ、ありがとう」


それよりも、コウタくんに抱き締められているこの状況に頭も胸もおかしなくらい熱くて溶けそうになっているけれど、それはなんだか答えにそぐわないように思えて黙っておいた。そうしたらコウタくんはわたしの返答を聞いてから小さく「…よかった、」と安堵の声を漏らして、そのままの体勢で首筋に顔を埋められてしまった。


「お前が、」


「う、うん」


「お前が死んだってなったとき、――あの回線が途切れたとき、俺は、」


俺は、の先は言葉にはならなかった。苦しそうに表情を歪めたコウタくんは、何かにそうさせられたかのように言葉に詰まって息だけを飲むと、「…いや、まずは説明が先か」と呟いた。それからつづけて、ぽつりぽつりと、決して早くはないけれどコウタくんは今の学園の状況を説明してくれた。
セレディ先生との戦い、いわゆる"本当の戦争"は、もう決着がついたとのことだった。そして死んでしまったと思われていたわたしたち生徒も、ポッド内に充満したガスは毒ガスなどではなく本当は睡眠ガスで、命に別状はなかったこと。またそのガスを入れ替えてわたしたちを救ってくれたのは綾部さんだということ。その綾部さんはセレディ先生によって殺されてしまったこと。たくさんのことを聞かされてまずはじめに思ったのは、綾部さんに対する感謝の気持ちと、恐怖から解放された安堵と、それからわたしが胸に抱きつづけていたコウタくんへのとてつもない愛しさだった。


「お前、さ、」


背中に回される腕の力が、強くなる。


「なんで死ぬ間際に、あんなこと言ったんだよ」


「なんで、って…」


「……」


「…だって、もう死ぬと思ったから、」


伝えられないままはいやだなあって、思ったんだもん。


「…………」


「…言わなきゃ死んでも死にきれないって、だから――――…っわ、コウタく、」


「…――だ」


「え、?」


「好きだ」


抱き締められている状態から少しからだを離して、コウタくんはわたしの手をとったかと思うとゆっくりとわたしの指と自分のを絡めて目を伏せた。「ずっと、あのとき言わなかったのを後悔していた」コウタくんがそう言ってわたしの頬に手を這わせたとき、わたしはといえば絡められた指と逸らすことのできない熱っぽい視線につかまって、その指や視線から逃れることもできないままコウタくんの言動ひとつひとつを目で追ったり聞いたりしていることしかできなかった。


「お前が生きていてくれて、本当によかった」


コウタくんは、あの戦争で最後まで生き残ったと言っていた。生き残ったという表現には少々語弊はあるけれど、瀬名くんがセレディ先生を倒すその光景をしかと目に焼きつけなければ死んだわたしたちに合わせる顔がないと思ったのだという。「怖かったよな。ほんと、守れなくてごめん」だなんてコウタくんは言うけれど、生き残ったみんなだって同じくらいつらかったはずだ。それなのにこうやって自分のことではなくわたしの身を案じてくれる彼に、再び愛しさが込み上げた。


「…名字、」


「…ん、わたしも、コウタくんが好き」


やっと、ちゃんと目を見て言えたね。


コウタくんが優しく笑う。わたしの大好きな笑顔。
そしてこの前と同じように、けれど恐怖からではなく愛しさから溢れた涙をコウタくんは指ですくって、今度は自分のそれでわたしの唇を塞いだ。