※死ネタ注意



月島くんはとても臆病だった。
クラスメイトやバレー部のみんなに見せている顔とは違って、いつも他人を気にせずには生きていけないような窮屈さがあった。少し語弊があるけれどなんとなく、わたしのなかでの月島くんはいつも自分に蓋をしているような、少なくともみんなの思い描く『月島蛍』の像とはかけ離れているように思う。


「月島くん」


名前を呼べば、最近発売されたばかりのバレー雑誌からゆるりと気だるげに顔を上げた彼と目があった。なに、と聞き取るのも苦労しそうな、そんな小さい声で音を発して月島くんはまた雑誌に視線を戻す。さほどこちらに興味を示していないようだったけれど、こちらとて彼は客なのだからお茶を出さないわけにはいかない、とコップに並々と麦茶の入ったそれを彼の脇にある小さなテーブルに置いた。「喉、渇いたでしょ」最近の気温は春から夏の変わり目でどうも暑さが厳しい。部活終わりでまだ熱も引いていないし、学校からそこそこ近いわたしの家に涼みにきてるとしてもクーラーが部屋を冷やしてくれるのにも時間はかかるだろう。それらを気づかっての冷えた麦茶を、彼は少し見つめてそれからまた小さな声で「ありがと」と遠慮がちに手をつけた。
それに倣うようにわたしも自分用にと持ってきた麦茶に口をつける。ほんとうは一気に飲み干してしまいたかったけれど、そうするとまた一階まで行ってコップに氷をいれて、また麦茶を並々とついでクーラーのきかない暑苦しい階段を上がってこなければならない。なので、二口三口を口に含んであとは飲み干したりせずにまたテーブルに置く。月島くんは、そんなことはお構いなしに飲み干してしまったみたいだけれど。


「で?」


「え?」


「今朝言ってた数学のプリント、まだできてないんでしょ」


「月島くん、教えてくれるの?」


「……まあ、ね」


なんだか歯切れの悪い返事だなあ。
ぱさり、と雑誌を閉じる音が聞こえたと思ったら、彼はベッドにそれを放り投げるとこちらをギロリと睨んで「早くしてよね。君に割く時間はただでさえ無駄なんだから」といつものようにわたしに早くプリントを出せと促す。
相変わらずつんけんしてるんだから。けれどもなんだかんたで課題を手伝ってくれようとしてるあたり、優しいことにはかわりない。まぁその優しさも他人というわたしを気にしすぎてのことかもしれないけれど。


「ここの問題なんだけど、」


傍らに放っておいた鞄からクリアファイルをとりだして数学のプリントをとりだす。それをテーブルにおいてから解くことのできなかった小問を指させば、月島くんは少し考える素振りをみせてから「ここは…」となんとも分かりやすい説明をしてくれた。説明の間に「なんでこの公式使ったわけ」やら「この間習ったの覚えてないとかどこの王様なの」やら、しまいには「こんな簡単な問題も分からないとか、どうして君が進学クラスなのか意味分かんない」とまで言われてしまったが、そこは彼の持ち合わせている性格故仕方のないことだからぐっと堪えた。ここでわたしが下手に「前に習った公式と似ていたから」やら「そんな、影山くんに失礼だよ」とか「わたしでも不思議に思ってる。入れてよかった」なんて返しをした際にはどうなるか分からないし、ならば「うんうん」と適当な相槌とひたすら「ごめんね、」を繰り返したほうが得策ともいえる。それに怖がりな月島くんにはこっちのほうがきっと、まだわたしと付き合っていてめんどくさくないって思ってもらえると思うんだ。


「…ってわけ、わかった?」


「うん、すごくわかりやすかった。ありがとう月島くん」


「…、……名字さん、」


「なあに?」


「麦茶」


麦茶が、どうしたの?
首を傾げながらさきほどわたしが運んできた麦茶に目をやると、二、三口つけただけのわたしの麦茶の隣に、ほとんど中身のなくなったガラスコップがおかれていた。これは、おかわりってことだよね。言葉足らずの彼に「おかわり入れてくるね。ついでにお菓子も持ってくるから、まってて」とひとこと残して、ガラスコップを持って部屋を出る。その際月島くんは何も言わなかった。



月島蛍という人間は、あまり他人が信用できないようであった。バレー部のみんなとはそれなりに上手くやっているけれど、クラスのほうではあんまりだと山口くんが言っていた。「いつもくだらないことで騒いで、ほんっとばかみたい」いつだったかクラスのみんなを眺めながらそう呟いていたと聞いたとき、やっぱり彼は他人の反応ばかりを窺って、どうすれば対峙している人と当たり障りなくうまくやっていけるのか常に考えているのにも関わらず、結果まるでマニュアル通りの返答に皮肉をこめた嫌な言い方でしか返事を寄越せない臆病な人間だとわたしは確信した。ああいう人間は逆に、山口くんや日向くんたちのような人間とは素でいられる。日向くんたちは月島くんのことを「口の悪い嫌なやつ、けどバレー部の大切な仲間」くらいにか思っていないかもしれない。そう思われても仕方ない。月島くんは他人のことが気になって仕方ないのに持ち前の口の悪さから相手が不快に思うようなことしか言えないのだ。そして彼はそれに相手が反抗してくることが普通で、どうしてそんな言い方しかできないんだとたしなめられるのが普通で、嫌われてしまうのが普通だと思っている。だからこそわたしは何も言わなかった。月島くんの皮肉にも文句のひとつも言わずに「そうだね」と肯定を返しつづけて、彼にとっての『異質』を演じつづけた。そう、そのまま、月島くんが異質であるわたしのことしか気にならなくなってしまえばいい。わたしだけを見て、わたしだけに口を悪くしていればいい。そうして彼の意識を奪いつづけて数ヵ月、頃合いをみてわたしは月島くんに告白をした。結果わたしは幸せを手にいれて、彼は今まで出会ってきた人間とは違うわたしという存在を傍におくようになった。


冷蔵庫で冷やしてあった麦茶をふたたび並々と注いだ。すっかり溶けてしまった氷のかわりに新しい少し大きめの氷を数個その中に落として、それから深さのあるお皿に色とりどりのキャンディをよそう。
さあ、部屋に戻らないと。月島くんが待ってる。
お皿とガラスコップを抱えてまた階段を上っていく。スリッパを通してわたしが階段を踏む音が家中に響いているかのように、そう錯覚させられるほどに家の中は静まり返っていた。「ごめんね、まった?」部屋のドアを開けて中に入れば、月島くんは最初部屋に入ったときとは違って何もせずに、ただどこか遠くを眺めていた。そのことに少々驚きながら「どうかした?」と首を傾げれば、月島くんは一瞬びくりと肩を揺らして「べつに」とそっぽを向いてしまう。


「月島くん、麦茶どうぞ。それからお菓子も」


コトン、と麦茶とお菓子の入ったお皿をテーブルにおく。おいてからわたしが座るまで、やっぱり月島くんは遠い目をしていて、わたしには何を考えているのかさっぱり分からなかった。
月島くんにはときどき、わたしでも彼が何を考えているのかわからないときがあった。それは今回のようにぼうっとしてどこを見ているのかわかないときと酷使していて、わたしが月島くんの前で『異質』を演じはじめたときや付き合いたてのときにも頻繁に起こっていた。さすがに気になったわたしも山口くんに付き合うことになったと報告がてらにそれを相談したとき、月島くんがぼうっとしていることよりも わたしが『異質』を演じつづけたおかげで彼と付き合うようになったことのほうが気になったみたいで「そんなことをしてまでツッキーと付き合いたかったの?……名字さんがいったように、ツッキーに『この人は他の人とは違う』と思わせることで、それがきっかけになって今こうして二人は付き合っているっていうその事実にかわりはない。ツッキーはたしかに、名字さんが他の人とは違うって思ったから付き合うことにしたんだと思う。けどそれが、愛情からくるものだとは思わないで」このときの山口くんは、なんだかとても真剣な顔をしていた。「名字さんは、ツッキーっていう人間を完全に理解しているわけじゃあないよ。手遅れになる前に、俺は別れたほうがいいと思う。」そんなことを言われて、わたしは泣いてしまったのだ。意味がわからなかった。山口くんが何を言っているのか理解できなかった。「山口くんに、わたしたちの何が分かるの」と泣きじゃくりながらわたしは言った。だってそれ以外に返し方が分からなかったから。山口くんは「名字さんのことは何も分からないけど、ツッキーのことは分かっているつもりだよ。……俺は忠告したから、じゃあね」と言いたいことだけを残して立ち去ってしまった。そのあと入れ違うようにして入ってきた月島くんは、わたしの泣き顔を見て酷く動揺していた。目を大きく見開いてわたしの頬に手をふれて、「泣きやんでよ…」と小声で悲しそうに呟いた。ああきっと、月島くんの前でわたしは泣いたことも、顔を歪ませたこともなかったからびっくりしているんだ。月島くんのためならわたしは何回だって泣いてあげるのに。今だって、月島くんが来てくれるって思ってがんばって泣いてみたんだ。「つき、しまく…」泣きながら彼の手を握るわたしに、やっぱり月島くんは驚きを隠せていなかった。そんな彼を見ながら心のなかではくすくす笑って、幸せだなあって思ったんだ。


ひとりで昔のことを思い出して笑っていると、月島くんは「…なに、気持ち悪いんだけど」と麦茶を飲みながら怪訝そうに眉間にしわを寄せた。「ううん、なんでもないの」そうしてまたにこりと笑ったわたしに、月島くんは「そう」と返したあと「…麦茶ぬるくなるでしょ。もったいない。早く飲んだら?」とわたしの飲みかけの麦茶を見ながら言う。「それもそうだね」と自信の麦茶に手を伸ばしかけたところで、不意にその手を別のところから伸びてきた手によって掴まれた。


「月島くん……?」


「黙って」


「んっ、ちょ、」


「……」


「…月島くん、どうしたの…?」


「……」


「つきしまく、」


「…ん、はいおわり」


「、え?」


「目の近くにゴミがついてたから。入ったら困るの名字さんでしょ」


突然の月島くんの行動に、ぼんっと顔から火が出たみたいに真っ赤になったのが自分でもわかった。月島くんとそういうことをするのはまだまだ先のことだと思っていたけれど、理由はどうあれ手を掴まれたと思えば急に引き寄せられて、わたしはからだを支えるためにテーブルに手をついて。その拍子にコップに入っていた麦茶が少し波立たされて。からだを乗り出すような体勢になったわたしの顔に急に手を伸ばしたかと思えば、その長くて綺麗な指がするりと唇をなぞってから目元についていたらしいゴミをとってくれたなんて、あんなに整った顔が、恋い焦がれた顔が間近にあっただなんてまだ信じられない。
けれど月島くんは言葉通りただ目元のゴミをとってくれただけなのだから、舞い上がってはいけない。「ありがとう」といつも通りの柔らかい笑みを浮かべてから、わたしは半分ほど残していた麦茶を一気に喉を通して胃へ送った。まだ顔をが火照っている。だって月島くんにとっては大したことではないかもしれないけれど、誰にでもそういうことをする彼ではないことくらい痛いほど分かっているつもりだ。クラスのみんなにはもちろん、日向くんたちや山口くんにだってしない、わたしだけの、彼女であるわたしだけへの特別な行為。そう考えたら目の前で涼しい顔をしている月島くんが愛しくてたまらなくて、必死に落ち着かせようとするけれどなかなか動悸はおさまってくれない。愛しい。月島くんがすごく愛しい。どくどくと全身の血液がいつもの倍で回って、だんだんと感覚がなくなってきて、それから、あれ。


「あ…」


「……」


「つ、きしま、く…」


視界がぐるりと一回転した。そして吐き気を催すような気持ち悪さがやってきたかと思うと、つづいて頭を襲う割れるような痛さに思わずその場に倒れ込んだ。なに、これ。なんだか体があつくて、何かがおかしい。


「っう"、え"ぇ、」


「………」


「つ、き、しまく、たすげ、」


「………」


苦しかった。喉が焼けるように痛くて、さっきまで飲んでいた麦茶が入っていたコップをフローリングに落としてしまった。そこで手に力が入らないことに気がついて、からだの力が一気に抜けたかと思えばカーペットの上に倒れこんでしまった。


「……ま、く、つき、しまく…」



「………」

ガシャン。テーブルにおいておいたキャンディのお皿に手をかける。さっきよりも苦しさや痛さが増した。息ができない。苦しくて思うようにからだが動かない。手や足がこの苦しさから逃れようと必死だ。けれど倒れたことで視界にはいったガラスコップからわたしは確信する。月島くんが、何かを入れてわたしに飲ませたんだ。
しかしそれが分かったところでわたしにはどうすることもできず、ただテーブルの足やタンスや小物に何度も何度もからだをぶつけながら、何度も汚い声を上げつづけた。


「ぐっ、ぁあ…、ぐる…じ、つきし…まくん、ぐ…るし…」


「………」


「つぎしま、くん…!」


どうして、どうしてこんなにわたしを苦しめるの。助けてつきしまくん。助けて助けて助けて助けて助けて。くるしいよつきしまくん。おねがいたすけて。
声に出そうとしてもそれはならないので、頭の中で必死に月島くんに助けを求めた。たすけてつきしまくん。すごくくるしいの。
けれど月島くんはただもがきつづけるわたしをじっと眺めるだけで、ひとことも声を発さなければぴくりとも動かない。まるでわたしが動かなくなるまで待っているかのようで、そんなのは嫌だとさらに声を荒げながら月島くんに這いつくばって近づいて、制服のズボンの裾を握りしめた。
もしかしたら聞こえてないだけなのかも。またぼうっとしているだけなのかも。きっとこれで気づいてもらえる。助けてもらえる。けれど月島くんにしがみついてふたたび彼の名前を呼ぼうともありったけの力で彼を揺すろうとも、月島くんはぴくりとも動かない。


「どぉ、して、つぎしま、くん、」


「………」


「ど、してぇ"……!」


「………」


月島くんは何も言わない。何もしない。
何度も彼に助けてもらいたくて頑張って声をかけつづけていたけれど、もうすでに限界だった。
月島くんの制服をほぼ気力で握りしめていた手からも力が抜けて、わたしはふたたび床に伏せた。と、そこで月島くんの手がゆっくりと動き出して思わず声を上げたけれど、わたしの期待していた動きとはかけ離れすぎていた。
彼は、床に伏せるわたしをまるで恐ろしいといわんばかりの怯えた眼差しで一瞥したあと、わたしのもがき苦しむ声から逃げるようにゆっくりと首もとにあるヘッドフォンをかけ、そして静かに目をつむった。


「…づ、…き……、く…」


だんだんと力が抜けていく。だんだんと視界がぼやけていく。薄れゆく意識の中、わたしが走馬灯でも見るかのように思い出したのは月島くんのことではなく、あの日、月島くんと付き合うことになったと報告をしたときの山口くんが言っていた言葉だった。
『ツッキーはたしかに名字さんが他の人とは違うって思ったから付き合うことにしたんだと思う。けどそれが、愛情からくるものだとは思わないで』そのときは理解できなかったけれど、今なら分かる気がする。月島くんが、どうしてわたしをこんな目に合わせるのか、分かる気がするの。ねぇ、そういうことだったのよね山口くん。わたしだってそこにすぐ愛情が芽生えるだなんて思ってはいなかったけれど、芽生えたのは愛情でもなんでもなくて、ただの、ただの――――



そこで、わたしの意識は途切れた。