時刻が夜中の1時を過ぎようとした頃、両親が「じゃあおやすみなさい」「夜更かしもほどほどにな」とそれぞれ寝室へ入っていくのを張り付けた笑顔で見送った。
1月1日の1時。つい1時間程前に年明けしたばかりだ。本当ならば今頃天馬くんたちと一緒に神社にいたのだと思うと諦めたはずなのにまた嫌な気分になる。気を紛らわそうにも正月特番は見飽きてしまったし、自分の思いつくかぎりの暇潰しも全て実践済みでもう私には何かをするという気力さえ残っていなかった。

はあ、と何度目かも分からないため息が出る。いつもならこの時間は外も静かであるというのに今日はなんたってお正月。子供も夜更かしが許される日なんだ。まだ少しだけ騒がしい外に、こんなに人がいるならば外出くらい許してくれたっていいのにと先程寝室へ向かった両親をうらめしく思った。

天馬くんたちに初詣に行こうと誘われたのは昨年最後の部活でだった。そのときは年を越した12時過ぎに中学生で集まって初詣に行くなんてきっと楽しいだろうなあっていう安易な考えから行くことに同意してしまったのだけれど、その後狩屋くんの「家の人から許可もらえなくてさー、抜けてくるから時間遅れるかも」という言葉にはっとなった。お父さんとお母さんは私の外出に許可を出すだろうか。ただの外出ではなく夜中に、しかも12時過ぎに、中学生だけでというオプションつき。許してくれるわけがないという私の予想は的中して、両親は私の話に聞く耳をもたなかった。「夜中に外出なんてお母さんのときはしませんでしたよ」「いくら男の子がいると言われても、子供だけなんてだめに決まってるだろ」「家での夜更かしは許してあげるから、断りなさい」昔からなにかと過保護だとは思ってたけど、まさかここまでとは。許してくれるわけがないとは思っていた。だけど私ももう中学生だし、もしかしたらとどこか期待していたのもまた事実。私は狩屋くんみたいに抜け出すなんて勇気もないから仕方ないことなのかもしれないけど、足掻いたところで結局許しはもらえなかったと思う。
そのことが憂鬱で、きっと今頃みんな楽しんでいるんだろうなとまたため息が出た。葵ちゃんとたくさんお話したい。天馬くんたちに申し訳ない。狩屋くんが羨ましい。それから、剣城くんに会いたかったなあ、なんて。
夜中に中学生で出かけることはもちろん魅力的だった。新年のいちばんはじめを友人と共有することも、初詣も、本当に楽しみだったのに。でも、やっぱり私は、剣城くんが行くと聞いたからその初詣に参加することにしたのだろうし、今こんなにも惨めな思いをしているのだ。剣城くんはそういうことには興味がないとばかり思っていたけれど、天馬くんに誘われたとき少し表情を柔らかくして「あぁ、行く」って。な、なんだって。そうなれば行くしかない。きっとそんな気持ちもあのときには含まれていたのだ。みんなと過ごせることも、そこに好きな人である剣城くんがいることも、本当に楽しみだったのに。せめて剣城くんが行かないと言ってくれれば幾分か楽だったのだけれど。いや、違う。剣城くん云々ももちろんあるけれど、なにより自分が行けないことがすごく悔しいのだ。
またひとつため息をついて、みんなとの初詣と引き換えに得たこの夜更かし権を存分に使ってやるんだから!と再び正月特番を見ようとしたときだった。ソファ近くのテーブルに置いておいた携帯が小さく揺れている。きっと同じく夜更かししている友人からのものだろうとさして期待もせずに画面を見れば、そこに表示されていた名前に思わず立ち上がってしまった。

「えっ、あ、剣城くん…!?」

恥ずかしい思いをしながら葵ちゃんに協力してもらってゲットした剣城くんの連絡先。登録するために少しだけやりとりしたきりだったのに、とあたふためいていれば小刻みな揺れは中々終わりを迎えない。相変わらずディスプレイには『剣城京介』と着信を告げるランプが光つづけていて、このまま何もしないのも悪い、というかありえないから!とおそるおそるそれを手にとって画面を指でスライドさせた。

『もしもし』

う、わああ。本物の剣城くんだ。
電話越しに聞こえた声に心臓がいつもの倍速で脈を打つ。それはもう聞こえてしまうのではないかというほどに大きな音で。ど、どうしよう、どうすればいいの葵ちゃん!いつも相談にのってもらっている葵ちゃんからは夜中にきた着信の対応の仕方なんて教わってないし、本当にどうすればいいのか、いや出ればいいのだけれど。
さっきまで剣城くんのことを考えていたからというのもある。緊張のしすぎで声が出ないというのも。でも、やっぱり、なによりどんな理由であれ着信をもらったことはすごく嬉しい。

『名字?』

いつまでたっても返事をしない私を不審に思ったのか、剣城くんが再び声を発した。今度はそれにびくりと肩を揺らしながら「は、はい!剣城くんこんばんは!」と多少どもったがなんとか返事をした。

「つ、剣城くんこんな時間にどうしたの?みんなと初詣は?」

『ああ、抜けてきた』

「へー、そうなん……え?」

抜けてきた?みんなとの初詣を?
疑問符をたくさん浮かべて考えたけど、剣城くんが初詣を抜ける理由なんて思いつかなかった。

「どうして?」

『……』

「剣城くん?」

『…外に、出てこれるか』

「え、外?」

『あぁ』

言われるがままに通話をしながら廊下に出れば、ひやりと足の裏から冷たさがつたわって全身を駆けめぐる。思わず「つめたっ」と声を漏らせば、『コートとか着てこい。冷えるぞ』となんてともおやさしい言葉をかけてもらった。
緩みきった頬を隠そうともせずに、それでも両親が起きてこないかと心配になりつつ、剣城くんに言われた通りコートを羽織って静かにドアを開いた。

「名字」

「………………え」

今度こそ頭がどうにかしたのかと思った。
けれど何度目をぱちくりとさせてもそこにいるのは剣城くん。一瞬夢かとも思った。だとしたらなんて縁起のいい夢なのだろう。剣城くんが私の家の前に立っているなんて。きっと目が覚めればいつもの部屋で、私は毎年のように新年の挨拶に駆け回って。年明け一発目の部活でもみんなにあけましておめでとうと今年もよろしくねを言って、それから、剣城くんにもがんばって声をかける。そんな光景を想像していたら余計にこれが夢だと思えてきた。確認というか、確信を確実に変えるために最近少しお餅の食べすぎを気にしていじくりまわしていた頬をぎゅっと引っ張った。うわ、いたい。夢に決まってる。

「え、ええ!?剣城くん!?」

「おい、静かにしろ」

「むぐっ!?」

勢いよく引っ張った頬は痛すぎて涙が出るんじゃないかってほどだった。きっと赤くなってる。けれどその痛みの代わりに、今目の前で起こっていることが現実なのだという衝撃的事実が発覚した。頭で理解するのも一瞬どころか大分遅れて、だから思わず声をあげた私を黙らせるべく剣城くんが口元を手で覆ってくれたこともすぐに理解できなかった。

「……お前の親が来たら抜けられないだろ」

先程よりは遠慮がちに、声をひそめて剣城くんは私の家を見上げた。
抜けられない?どういうこと?
言いたいことも聞きたいこともたくさんあったけれど、うまく言葉にできなくて。というか物理的に声をあげられないわけで、私は剣城くんに目で訴えるしかなかった。ねえ剣城くんどうして初詣を抜けてきたの?家から抜けられないってどういうこと?あとすごくドキドキするからこの手をどけてほしいな、心臓が壊れちゃいそう。
一番最後は伝わったか定かではないけれど、剣城くんはもう一度私の家を一瞥したあとゆっくりと手をどけて、それから口を開こうとしては閉じて、視線を泳がせて。なんだかはっきりしないような感じだ。何か言いたいことでもあるのだろうか。じっと待っていても剣城くんはなかなか口を開いてはくれない。言いにくいことなのか。いつもずばずばと天馬くんに物を言う剣城くんにもこんなところがあるんだなあと彼の新たな一面を見つけることができて嬉しくなったときだ。あんまり見られていては言い出せるものもそうでなくなると考えて彼の向こう側にあるお向かいの家のことだったり、今日食べた年越しそばのことだったり。彼ほどではないけれどそこそも私も視線を泳がせているうちに見えてしまった。私は、真っ赤になった耳とか頬とか、そういったものに気づかないほど鈍感ではない。
もしかしなくても、彼が言いたいことは、そういうことなのだろうか。もし私が男の子だったら、その、好きでもない女の子の家にわざわざ迎えにいったりなんかしない。幼なじみとかだったら話は別だけれど、生憎私は剣城くんとそういった間柄でもなければ親友というわけでもない。ただの部活仲間。クラスも違う私たちは雷門中サッカー部という、私たちからしたら大きくて、端からみたらちっぽけで、けれどとても強い絆のはしっことはしっこで繋がっているような、そんなもんなのだ。すごく脆くて、絶とうと思えば簡単に絶てるような関係。いや、絶たないけどね。

だから、そんなに赤くなった顔で何か言いたそうにしていられると、私まで赤くなるし勘違いという名の妄想劇を繰り広げてしまうから。お願い、早く言って。あ、でも夢を壊したくはないからやっぱり言わないで!
そんな脳内での葛藤を知らない剣城くんは、意を決したようにそれまでさ迷わせていた視線をまっすぐに正して、射ぬく勢いで私をとらえた。

「……空野、から、」

お前が来られないって、聞いて。

息がつまる。特別酸素が薄いわけでも息が絶え絶えになっているわけでもないのに、何故か胸が苦しかった。吸えているはずの酸素もなんだか吸えていないみたい。

「迎えにきた」

あんなに疎ましく思っていた外の騒ぎも、私の心臓のほうが勝ってまったく気にならなくなっていた。
目前で赤い顔を隠そうともせずまっすぐにこちらを見つめている剣城くんの手が、私の手をつかむ。冷たくて、大きな手だった。

「剣城、くん」

「行くぞ、初詣」

「で、でも、親が…」

「帰りも送る。それに、ばれたらなんとかするさ」

「ふふ、天馬くんみたい」

「……」

「……、」

「……不安か?」

「…ん、大丈夫。だって剣城くんが一緒に叱られてくれるでしょ?」

握られてばかりだった手に力を込めて、私よりもひとまわり大きな手をぎゅっと握った。それに応えるかのように、剣城くんもまた力を入れてくるもんだから握力計ってるんじゃないのになんて場違いなことを思ったけど、そんなくだらないことを言うのもくすぐったくて小さく笑った。
「なら、納得してもらえるような言い訳を考えないとな」まるで駆け落ちの理由を考えているみたい。ああ、なんて、幸せな時間なの。

ふと、剣城くんと繋がっている手とは反対の手に持っていた携帯がぶるっと震えた。
そのことに気づいてぴたりと足をとめて、少し前を歩いていた剣城くんもつられるようにしてとまる。どうした、と怪訝そうに振り向いたけれど私がそれを耳にあてる様子を見て納得したような表情を浮かべる。

『あ、名前?剣城くん知らない?』

聞こえてきたソプラノと、そのソプラノで紡がれた剣城くんという名前にぴくりと肩が揺れた。

「剣城くん?」

『名前が親に許可もらえなかったって話したら、どっか行っちゃって』

今天馬たちと探してるんだけど、なかなか見つからないの。
そりゃそうだ。剣城くんは天馬くんたちがいるであろう稲妻神社ではなく、私の目の前、強いていえば私の手に繋がれた先にいるのだから、天馬くんたちがいくら探しても見つかるはずがない。

「天馬くんたちが、剣城くんのこと探してるって」

携帯から顔を離して、できるだけ小さく言った。

『名前?』

すぐに葵ちゃんに名前を呼ばれて「あ、うん、聞いてるよ」とあわてて会話に戻る。その『名前?』には私がちゃんと話を聞いているかどうかの確認と、剣城くんの居場所を知っているかどうか教えてほしいという二通りの意味がある。前者に答えたのはいいとして、さてどうしたもんかと頭を悩ませた。
剣城くんに連れ出してもらった。剣城くんと手を繋いだ。もう、いいのかな。
剣城くんも私も元々天馬くんたちと約束をしていたのだから、結局は合流することになるだろう。二人でこうして手を繋ぐのは稲妻神社までだったし、私はもう充分嬉しかった。それにこれ以上天馬くんたちに迷惑をかけたくない。一緒にいるよ、と私が声を発しようとしたときだった。
それまで握られているだけだった手がすっと動いて、それから恋人みたいに指をからめてくる。びっくりしてそちらを見れば、真剣なまなざしを向ける彼と視線がからんだ。
熱をもった動きで、指の間の隙間が埋められる。

「……ううん、知らないよ」

はっとした私の耳にとどいてきたのは、葵ちゃんの『そっかあ、ありがとう!』の言葉。また次の部活にね。今度は昼間に初詣行こうね。今年もたくさん遊ぼうね。そんな会話をして通話を終わらせたあと、それをコートのポケットにしまった。手は、絡められたままだった。

「少し遠いが、前に合宿したときに通った神社があるだろ」

「うん」

「……そこなら、知り合いもいない」

「……うん」

さっきとはくらべものにならないくらいに赤い顔をした彼は、今度はそれを隠そうとマフラーに埋めて。

「剣城くん、ありがとう」

「……ああ」

いつもとは大分違うお正月に、あと何時間かしたら訪れる朝も、次に剣城くんと顔を合わせる部活も、全てが愛しくなる。
私も剣城くんと同じように、彼の背中に自分のりんごみたいに赤い頬を隠して、今度は幸せにまみれたため息を騒がしい住宅街に漏らしたのだった。