僅かに残ったジュースが氷に溶けはじめてから十数分が経とうとしていた。
ショウヨウシティは小さな街だ。海に面してはいるが漁業を行っておらず、あまり人が訪れることのないところだけれど、ジムリーダーのザクロさんが設置したマウンテンバイク用の坂と今私がいる街中で人気のカフェがあるので、田舎というわけでもなく、落ち着きのある素敵なところだと思う。こうして何も予定のない日にふらりと遊びにきたくなる。現に私がそうであり、午後の予定の時間までともう何杯目かも分からないジュースを先程ほとんど飲み干したところだった。


「名前ちゃん、おかわりいる?」


「あ、お願いします!」


度々私が訪ねるもんだから、ここの店員さんとは顔見知りになっている。テラスで飲むにはお金が足りなくてまだ行ったことはないけれど、いつかお金を貯めてカルムくんと飲みにこよう。と、ここにはいない幼なじみを思っていれば、手際のいい店員さんが新たなグラスを運んでくる。


「はい、どうぞ」


「ありがとうございます」


「今日は一日いてくれるのかな?」


「そんなにお金持ってないですよ!それに、今日は午後から予定があるんです」


「それは残念だな。でも、本当によく来てくれるね、嬉しいよ」


「えへへ、ここの雰囲気好きなんですよね。なんか落ち着くっていうか」


「俺も名前ちゃんに毎週ように会えるのは嬉しいな」


「わたしも、こんな美味しいジュース飲めて嬉しいです」


「そこは嘘でも、あなたに会いに来ているんですって言ってくれないかなあ」


「す、すみません!次から気をつけます…!」


「ははは、本当に名前ちゃんかわいいね」


するり、と慣れたように隣の席に座られるもんだから少し驚いたけれど、今にはじまったことではないと気にせず出されたジュースを飲む。こうして店員さんとお話しできるのもこのカフェのいいところだ。人が少ない、なんて言い方は失礼かもしれないけれど、マスターも店員さんも、みんなが一人一人のお客さんを大切にしているのが分かるから、私はここに通ってしまうのだ。
隣にいる店員さんに「お仕事はいいんですか?」と聞けば、「他にお客さまもいないし、マスターも用事があるみたいだから」と苦笑気味に笑う。


「お客さまにはたくさん来ていただきたい。だけど、名前ちゃんとの時間を邪魔されちゃうのも嫌だな」


「ふふ、私もここにいるみなさんとお話しするの大好きです」


二人して小さく笑いあったあと、店員さんは「あ、そうだ」と何か思い出したようにカウンター内の横にある冷蔵庫を開けてそれを取り出した。ことん、とテーブルにのせられたのは真っ白のお皿に盛りつけられたショートケーキであった。


「わあ!おいしそう!」


「新商品でね、名前ちゃんに味見してもらいたくてとっておいたんだ」


「え、いいんですか?」


「もちろん」


マスターには内緒だよ、とふわりと笑った店員さんにお礼を言ったあと、早速出されたフォークを手にとってそれを口に運んだ。
瞬間口に広がる甘味。ふわりとした生クリームに混じってスポンジの柔らかい生地と、さくさくとした木の実が絶妙なバランスをとっている。聞けばマスターが作ったとのこと。あまりの美味しさにもう一口、もう一口と次々口に放り込んでいると、あっという間にお皿の上のケーキはなくなってしまった。
口直しにと出されたお水を飲んでからご馳走さまでした!とカウンターの向こうにむかって声を張り上げれば、店員さんはこちらにやってきてお皿を回収すると、お粗末様でしたと柔らかい笑みを浮かべた。
さて、そろそろ時間かな。時計を確認すればそろそろ12時を指そうとしていた。約束の時間まであと30分程であるし、十分に間に合う。けれど決まってカルムくんは私よりも早く着いているので、いつも待たせてしまっては悪い。今日は早めに行こうとイスにかけてあった鞄を手に持つ。


「では、今日はこれで。ありがとうございました」


「あ、待って、名前ちゃん」


「っえ、」


突然腕が引っ張られる。ぐい、と力のこもったそれに咄嗟に対応したものの、なにしろ突然だったので驚いてカウンターに手をついてしまった。そうでもしないと今頃カウンターの向こう側に頭から突っ込んでいたことだろう。そのくらいすごく強い力だった。


「クリーム、ついてるよ」


少しの間静まり返っていた店内に、再び店員さんの声が響く。それにはっとして慌てて拭おうとすれば、私よりも早く伸びてきた手によって阻まれる。それが意味するものなんて容易く分かって、けれどいくら行きつけのカフェ店員だとしても、その行動を許してしまうのもどうかと思う。
どうしたものかと頭を悩ませるのと同時に、徐々に近づいてくる大きな手に諦めをつけているのも事実で、やましいことも何もないし、これくらいならいいかと無意識に強ばらせていたからだから力を抜いた。
そんなときだった。


「おい、」


私と店員さんと落ち着いた曲調のメロディの他に、静かにこの空間に滑り込んできたのは、さらさらと手触りのよさそうな黒髪に見知った青い服。他の誰でもない、私がこれから会う予定であったカルムくんだ。
いつからそこに、と漏れた音はあまりに弱々しい。そんな目を見開いてあほ面をしているであろう私から視線を移し、カルムくんは私の頬に手を伸ばしかけていた店員さんを見やる。厳しい顔をしているカルムくんとは対称的に、彼はにこにことしている。温度差がすごい。間に挟まれた私は成す術もなく、とにかく彼から離れようと声をかけてから距離をとった。そのあと、店員さんの「クリームをとってあげようと思って」といういつもの声とカルムくんの彼を見つめる鋭い目が、なんともいえない静寂をもたらす。


「名前、行くよ」


「えっ、あ、うん!あの、ありがとうございました!」


「またいつでも来てね、名前ちゃん」


「は、はい!」


すたすたと早歩きでお店を出ていくカルムくんにつづいて、私も鞄を持ち直すと急いで扉へ向かった。カラン、と入店してきたときと同じようにベルを鳴らしながら店を駆け足で出る。お店に入るときも出るときもこうしてベルは鳴るはずなのに、カルムくんが来たことに気づかないなんて。自分が思っていたよりも、あの状況に焦っていたのかもしれない。それもベルに気づかないほど。
先に出てしまったカルムくんを探して階段を降りればすぐに見つかったけれど、見慣れた後ろ姿はなんだか苛立っているようにも見えて、少し焦った。「カルムくん!」今度は大きな声が出た。その声にピタリを足を止めて、カルムくんはゆっくりとこちらに振り向く。
あ、やっぱり不機嫌だ。


「カルムくん、」


「……名前はさ、なんでここのカフェに来てるの?」


「なんでって……そりゃ、落ち着くし、流れてる曲も私好みだし、」


「そっか」


「……カルムくん?」


「ん?」


「お、怒ってる……?」


「怒ってるよ」


「……ご、ごめんなさ、わっ!」


ぎゅ、と先程の店員さんと同じくらい強い力で引き寄せられる。あまりのことに驚いて咄嗟に離れようとすれば、今度は腰に手を回されて余計に密着させられる。「う、えっ、あの、かる、かるむ、くん…!」あわてる私をよそに、カルムくんはさらにその力を込める。同じようで同じでない。たしかに店員さんのときみたいに強い力だったし驚いたけれど、カルムくんのそれには、私を気づかう優しさも垣間見えていた。彼の胸板に顔を埋める。あたたかい。あのとき感じた焦りとか、ほんのすこしの嫌悪感もない。やっぱり、カルムくんは落ち着く。


「名前、そんな可愛いことしても許さないからな」


「……やっぱり怒ってる」


「当たり前だよ、店入ったら自分の彼女が店員と浮気してたんだから」


「浮気なんてしてないよ!」


「ふーん?」


一応返事はしてくれているけれどその声はいつになくたんたんとしていて、抱き締められる前だって、幼なじみの私にとってはそんなことを確認しなくても彼が怒っていることなんてすぐに分かった。
一応確認を、もし怒ってなかったら、なんて期待や希望は一切なく、けれどその質問は私にとって謝るきっかけをつくるのに必要であった。それも、失敗に終わってしまったけれど。
タイミングを失ってしまい、どうしたものかと頭を悩ませていると、今度は頭上からカルムくんのため息が聞こえた。


「か、カルムくん……?」


「…名前は昔から警戒心とかなさすぎると思うよ」


「あ、あるよ、一応!」


「さっき簡単に引き寄せられてたくせに?」


「う……。それは不可抗力であって…」


「しかもさわらせたりとか、」


「さわらせてないよ!」


そうされないために頑張ってたんだよ、といくら伝えても彼は「へえ」と不機嫌そうに返事をするだけだった。
そりゃあ警戒心がないって色んな人に言われるけど、私は私なりに気をつけてるつもりだし、そもそも警戒心を持ってって言われても何をどうすればいいのかなんて分からない。そんなに警戒心ばかりもっていたら人間不信になりそうだ。


「納得してないんだ?へー?」


「え、あ、でも反省はしてる!」


「名前、謝る気ないでしょ?」


ずい、とカルムくんが私との距離を縮めた。からだはもう密着してるから、それは、顔の距離であって。


「か、るむ、く……」


「静かに。バレても知らないからな」


言われてからあわてて口をつぐんだ。建物の影にいるとはいえ、場所や立ち位置によっては見えてしまうだろうし、ここは大通りの近くで人もよく通る。近づいては遠のく街の人の楽しそうな声を聞きながら、私はばくばくといつもの倍の速さで脈を打つことしかできない。


「名前」


カルムくんの顔がゆっくりと近づく。逃げようにも逃げられない。腰にまわっている腕には力が込められているし、なにより彼の視線がわたしを離そうとはしてくれなかった。
ゆっくり、ゆっくり。もう見ていられない。顔が火照るのと近くにカルムくんの吐息を感じながら、私は目をつむった。


「っひゃ……」


けれどそれは、わたしの予想とは違う動きをした。自身の口に降ってくると思っていたカルムくんの唇はわたしの口のとなり、正確には先程店員さんがくれようとしていたケーキのクリームをぺろり、と舐めとってみせた。普段キスのひとつやふたつくらいしているけれど舐められたことなんてないから変な気分だ。はじめての感覚に内心びくついていても、カルムくんはやめようとはしない。


「ん、」


「っふぇ、カルムくん、」


「動かないでくれるかな」


「え、え、でも、」


「ほら、じっとしてて」


口元を舐めていたカルムくんの舌がゆっくりと下降してわたしの鎖骨あたりに勢いよく吸い付いた。「っ、」刹那痺れるような痛みを感じて思わずカルムくんの背にまわしていた腕に力をこめる。行為こそやめてはくれないが、カルムくんもわたしが怖がっているのが分かるようで。大丈夫だと言いたげな様子でわたしの頭をポンポンと軽く撫でる。


「……名前、」


「カルムくん、なにして……」


「名前が俺のものだって証拠」


「え、?」


ここ、と人差し指でさされたその場所は、今さっきまでカルムくんが吸い付いていた首元で。私が、カルムくんのものだという証拠。そのことを理解した途端に顔に熱が集まるのが分かった。


「ははっ、名前、赤い」


「だっだってカルムくんが……!」


なんでそんなににこにこと…!
けれどさっきとはくらべものにならないほど機嫌がいい。カルムくんのご機嫌はとれたわけだし、それに比べたらこれくらい、いいわけがない、のだけれど。それも彼の笑顔を見ていたら複雑な気分だ。


「名前、」


「なに?」


「クリームでもなんでも、今度は俺がとってあげるから」


「うん」


「だから、あんまり嫉妬させんな」


「ん、ごめんね、」


こんなことさせてるのカルムくんだけだからね。再び彼の腕の中に飛び込んでそう言えば「当然」と今度はご機嫌な声が降ってきて。また背中に腕をまわす。顔を胸板に押しつけてから上げれば、今度こそ口に優しいそれが押し当てられた。