※夢主は降矢家の長女



夏から秋にかけてのこの時期、日が沈む時間は夏に比べてだいぶ早く感じる。
まだ6時過ぎだというのにすでに夜が垣間見えてる空を見上げていたら、隣で「名前さん?」と落ち着いた声に名前を呼ばれた。その心地よい低音に自然と笑みがこぼれる。


「どうかした?」


「ううん、暗くなるの早いなって思って」


「そうだな。もう夜も肌寒いし、名前さんお腹出して寝たりしてない?」


「してないよ。多義くんこそ出してない?」


「俺は大丈夫だけど、青砥がなぁ」


眉根をさげて「あいつ、スペインでお腹出してなきゃいいけど」って言って笑った。
ふわり。わたしたちの間を、夏の名残かのようにぬるい風が駆けた。風はまだこんなに夏を運んでいるのに、空は寒いのね。
もうほとんど見えなくなった青空を蝕むようにしてそこに佇む黒が、ゆっくり、ゆっくりとたくさんの雲を運んでいる。


夏は終わってしまうのね。終わりあるものこそ美しいと、弟の竜持は本を開きながら目を伏せて、ほんの少しだけ恍惚の表情を浮かべて言った。それは季節に限らず、大好物のプリンやケーキが食べればなくなってしまうことも、分厚い本を読み終えることも。わたしにはわからないけれど、竜持でいう数式の答えを導きだすことや、サッカーや柔道の試合が終わること。そしてそれは、わたしと多義くんのこの関係が終わってしまうことさえ、そう、竜持に言わせてみれば美しいものなのだ。
そこは姉弟といったところだろうか。
感性が似ているというか、考え方が同じというか。周りにも、そしてわたしの大好きな弟たちにも秘密のこの関係が終わる瞬間は、秋が夏をさらっていくように、きっとあっという間に過ぎていくのでしょう。きっとそれは、とても美しいものなのでしょう。
今隣で歩いている多義くんが、わたしとは反対に進んでいく光景も、いつもの柔らかい笑顔ではなく見たこともない険しい表情でわたしを見ている光景も。そんな終わりを想像しては美しいと思ってしまうわたしは、やはり少しずれているのかもしれない。


「弟も同じよ」


しばらくの間。唐突に先程の会話の返事をすれば、多義くんはきょとんとしてこちらを見ていた。わたしがあまりにも遅く返事をしたものだから、彼の中では会話はすでに終わっていたみたいだった。
けれどすぐに理解して、その意味に驚いたように目を見開いた。


「凰壮たちがお腹出して寝てるってこと?想像もつかないな」


「家ではまだまだ甘えたさんなの。青砥くんも、きっとそう」


けれど弟たちのそんな何気ない日々さえも、終わりはきてしまうの。
わたしはそれを終わりと呼ぶけれど、彼らにとってははじめから始まってなどいない。成長していく過程は彼らにとって人生であり、わたしはその一部を見て終わってしまったと悲しんでいるだけ。いってしまえば、人生だって、終わりを迎えればきっと、


「名前さん」


再び呼ばれた名前に、顔を上げる。見慣れた景色だった。降矢と書かれた表札と大きな門が視界に入り、いつものように「送ってくれてありがとう」と多義くんにお礼を言うべくそちらを向く。
言うもりだった、のだ。わたしはそうやって多義くんに微笑んで、彼も照れくさそうにそれに応えて、そうして別れてたわたしは門をくぐる。多義くんも踵を帰して歩いていく。それがいつものわたしたちだったのに、今日の多義くんは少し違った。
真っ直ぐな瞳が、わたしを射貫く勢いでこちらに向いている。くもりのないきれいな瞳だと思ったのと同時に、わたしは、その奥で蠢く感情に気づいてしまった。


「手、繋いでいいか?」


わたしの名前を呼ぶときと同じような低音。けれど少し声が震えていたのを、彼は気づいていただろうか。少しだけ潤んだ瞳を細め、頬を赤くさせて、拳は硬く握り締められていた。普段の多義くんからは想像もつかない。わたしよりも背が大きくて話す内容も周りの男の子たちと比べてずいぶんと大人びていて、それなにのまだ中学生で、高校生のわたしと比べたってなんら変わりはないと思っていたのに、ただわたしの手を欲しがってそんな顔をするなんて。
わたしのなかで消えかけていた何かがふわりふわりと舞い戻ってきた。それは秋風を追い返す夏風のよう。子供らしい顔ね、なんて多義くんには言えない。弟たちが甘えるときの顔にもそれは似ていたけど、そこには弟たちには感じることのない、たしかな愛しさがあった。
だからね、多義くん。
そんな顔をしなくてもいいのよ。


「手だけで満足?」


多義くんの腰にそっと手を這わせる。ぴくりと揺れた体におかしくなって笑ったあと、わたしより背が高い多義くんを見上げて「ね?」と先を促せば、わたしのからだは勢いよくそちらに倒れ込む。
そこからは簡単だった。わたしたちは降矢の門の前で、互いの背中に手を回す。多義くんが首もとに顔を埋めるのがくすぐったい。わたしも負けじと頬を寄せれば、彼は小さく紡いだ。


「…っ、こんなときに誘うなよ、ばか」


「高校生の余裕ってこと。……多義くん、」


「ん?」


「すきよ」


いつかあなたが去ってしまっても、わたしはずっと、あなたが好き。きっと忘れることなんてできないの。多義くんと歩いた道が、一緒に行った場所が、手を繋いだ感触が、抱き締められたときのあたたかさが、唇を重ねたときの愛しさが。全てはきれいな思い出となって、わたしが死ぬその瞬間まで色褪せることなく輝きつづけるのだ。そこに、わたしがこの世から消えてしまうそのときに、多義くんがいたらいいなんてそれは、わたしのわがまま。


「言えないなぁ、凰壮たちには」


「何を?」


「名前さんを独り占めしてるって」


先程よりは幾分か余裕を取り戻したらしい。独占だなんてそんな、わたしは弟たちを家族として愛しているけれど彼らの所有物ではないのだ。強いていうのなら多義くんのものであるはずなのに、おかしなことを言うんだなあと彼に隠れて笑った。
わたしも、青砥くんに怒られちゃうかも。


多義くんはそれからしばらくしたあと、すっとわたしのからだを離した。それに倣ってこちらも手を離せば、彼は名残惜しそうにわたしの手を見ていたけれど、すぐに何でもないように笑った。


「じゃあ、名前さん、気をつけて」


「家は目の前なんだから、大丈夫。多義くんこそ気をつけて」


「あぁ、ありがとう。」


片手を上げて手を振れば、今度は彼がわたしに倣って手を振った。
そうしてわたしたちは日常に戻った。いつもの光景だ。学校帰りに家まで送ってもらって、他愛ない話をしてわかれて。一度門に入ってから顔だけ覗かせ、こちらに背を向けて歩き出す彼を見つめて。いつものことだった。サッカーに勤しんでいる彼を引き止めてもっといたいなんて言うことはできないから、わたしはその静かな背中を堪能して再び門をくぐる。だったはず、なのに。


「多義くん!」


気がついたら声を出していた。わたしが出した声だというのに、彼が振り返ってからわたしの顔を見て首を傾げるまで、何もできなかった。「なんだ?」と少し小さめの声で返されたのに、それは静寂な住宅街でやや大きめに響いて聞こえる。
中学生の多義くん。この間まで弟たちと一緒にサッカーをしていた多義くん。わたしの最愛の彼氏である多義くん。少し前まで近くにあった温もりが、今じゃ一線引かれた向こうのもののようにも思える。「いとおしい」小さな溢しを反響させたこの世界に、わたしは小さく微笑んだ。


「つづきは、またあした」


それからしばらくして聞こえた「……ん、また、あした」の言葉を胸にしまって、今度こそわたしは門をくぐった。ガシャン、とわざとらしく音を立てて門を閉めれば離れていく足音が聞こえてくる。
夕日に溶け込みそうな景色と彼の足音。なんて素敵な時間だったのだろうと、いつもとは違うそれがたまらなく愛しくて。


「姉さん」


「姉貴」


先程鳴らした門の音に気づいたのか、玄関からよく似た顔がふたつ、こちらを覗いた。
ただいま、と軽く微笑んでから彼らの頭に手を置けば、竜持も凰壮も反応はそれぞれ違って。けれどすぐに同じような顔をして「姉さん、早く中に入りましょう」「課題教えてほしいんだけど」と、いつものようにわたしの手を二人して引っ張って中に入っていく。竜持も凰壮も、ここにはいない虎太も、こうして優しいのはいつまでたっても変わらない。
ああ、なんて、愛しいのかしら。


「姉さん?」


「んだよ、にやにやして」


「ふふ、ううん。なんでもないの」


あなたたちの優しさも。同じ家に帰るのも。手を引いてくれるのも。
いつの日かやってくる彼との別れも。
全てを想いながら、わたしは今日も、愛しい彼に想いを馳せるのだわ。

――――――――――――

虎太→姉ちゃん
竜持→姉さん
凰壮→姉貴
で呼ばれてみたい。
上記に+多義くんのお話書きたい!という想いからできた産物。