「…あー…、とりあえず上がれ」


「……うん」

半開きだった扉が大きく開かれて私は家の中に通される。家の主であるグリーンは私の姿を見るなり眉間に皺を寄せながら「ここで待ってろ」と言い残して部屋の奥へと行ってしまった。
髪や服からポタポタと雫が垂れ、乾いていた玄関をじわじわと濡らしていく。外は昼間の晴天が嘘のように暗く重い色をしていてまるで私の心を映しているみたいだ。少し体を動かしただけでびちゃびちゃと濡れた音が響いたのが気に入らなかったけど、雨の中走りも雨宿りもせずゆっくりと歩いていたのは私なわけだから何も文句は言えない。
グリーンが奥へと行ってしまってから数分後、今度は駆け足でタオルと服を持ってこちらにやってきた。


「お前これ持って風呂行け」


「え、でも、」


「このままじゃ風邪引くだろ。話は出てからいくらでも聞いてやるから」


「……グリーン、」


「ん?」


「ごめんね、ありがとう」


私の言葉にピタリと動きを止めたグリーンをおいて、私はそのまま風呂場へと向かう。
そう思っているのなら毎回毎回グリーンに迷惑をかけるのはやめるべきだと分かってはいるのだ。だけど気がついたら足はグリーンの元へと向かっていて、なんだか無償に会いたくなる。はた迷惑な幼なじみだと何度思ったことか。いっそのこと彼に頼らなくてすむようにどこか遠いところへ行ってしまおうか。
そうすればきっと、私がグリーンに迷惑をかけることもなくなるのだから。









数十分後、歩き慣れた廊下を裸足でぺたぺたと進み、リビングの扉を開ける。突き当たりの部屋から洗濯機を回す音が聞こえてきて、私の服はいつものことながらそこにあるのだうと考えながらそっと口を開く。


「グリーン、上がったよ」


「おー」


間延びした返事だと思った瞬間、それまで聞こえていたリポーターの声や芸能人の笑い声がぷつんと消えた。テレビにリモコンが向けられている。そういうところは本当に律儀だなと思う。そのあとつづいて、「で?」という声が聞こえてくる。


「今度はどんなフラれかたしたんだよ」


べつに、フラれたわけじゃないもん。
威勢よく言うつもりが逆に弱々しくなってしまう。それを聞いたグリーンは「そうか」とこぼして数回私の頭を撫でた。
私の言いたいことなんて全部グリーンに筒抜けなんだね、なんて分かりきったことを頭の隅で考えながら貸してもらった服の裾をきゅっと握る。ぶかぶかなところからしてグリーンの服なんだろう。鼻を掠める匂いがとても暖かくて優しくて、気がついたら再び口を開いていた。


「べつに、私もそんなに好きじゃなかったの」


「あぁ」


「前にも話したけど、誰かが隣にいないと落ち着かなくて、」


「そうか」


「……カフェで優しくしてくれたって言ったけど、あれうそなの。ナンパされて面白半分で付き合ったんだよね」


「………」


「…うそついてごめん、だから好きでもなんでもなかったから悲しくはないんだけど、なんか…」


グリーンにね、会いたくなったの。


「…ごめん…」


「…………」


しばらく間、グリーンは何も言わなかった。いつも私の話を聞くときは目を逸らさないくせに、こういうときだけはこっちを見ようとしないんだから。

そもそも別れようと言われたことについては何も思わなかった。友達としては好きだったかもしれないけど、付き合ってどうのということはない。お互いそんな冷めた関係でも、私はそれでよかったのだ。隣に誰かいてくれればそれでいい。つまらない男でも嫌な男でも、私のそばにいてくれれば。
こんなに臆病になったのはきっと、誰のせいでもない。グリーンは昔からポケモントレーナーになりたがっていたから旅に出るのは分かりきっていたことなのだ。それなのにいつまでもくよくよして適当に男の人と付き合っては別れてを繰り返して。迷惑をかけたくないとか言いながら結局は迷惑ばかりかけているのだから自分でも腹が立つ。


「なあ、名前」


自己嫌悪という言葉と一緒になってぐるぐると、自身の中心に渦巻く何かをぐっと隠しこむ。呼ばれた名前にちらりと顔を上げた。


「お前、言ったよな」


何を言ったというのかと問うほど私は馬鹿ではなかった。きっとそばにいてくれれば誰でもいいという、そのことを言ってるんだ。けれども私はそのことを再び自分の口から出す勇気もなく、かといって何のことだか分からないとふざけたことをぬかすこともできない。ただ静かに首を縦に振って、自分一番楽になれる選択を選ぶ。きたない、なあ。そう思った瞬間、それまで至極真面目な顔をしていたグリーンの目が少しだけ大きく開かれた。


「汚い?」


「え?」


「お前今汚いって言ったのか」


「…私そんなこと言った?」


「言った」


「あー……」


不機嫌そうに眉を寄せるそれから、そういえばグリーンは昔から、自分を卑下することは嫌いだったなあと頭の隅で考える。だけどそれは自分には適用されず、私やレッドだけに関わらず、彼の周囲の人が自分自身を悪く言うことだけを嫌っていた。グリーンは自分のことを悪く言うのに、私はやみんなはだめなんだね。ほんと理屈ってのが通用しないんだから。


「きたなくねえって」


「……」


「名前は汚くなんかない」


「……そんなの、グリーンには分からない」


「……」


何も知らないのに、きたなくないとか、そんな簡単に言わないで。
どろどろとした真っ赤で、それでいて所々黒くこびりつくよくな汚さを持ったそれが流れ込んでくる感覚は、私だけが知っていて、さっき別れた彼氏も、ましてやグリーンまでもが知っているはずはない。この汚い何かは、グリーンがマサラを旅立ってから生まれたものなんだから、尚更だ。いつからこんなに汚いものを自分だと、これは自分のものなのだと言えるようになったのだろうか。ひとり、またひとりとグリーンに代わった温もりを求めるようになってからも、それは成長しつづけて、


「わかんねえよ。お前、ほんとに誰でもいいとか汚いとか思ってんのか?」


「…どうだろうね。私にもよく分からない」


「…………俺がそこにいても、いいのか」


いつもの自信ありげな声とは似つかわない、ひどく怯えたような声だった。きっとその伸ばされた手に、数年前の私は何も考えず自身の手を乗せていたのだろう。だけどそれすらも叶わなくなってしまった。私は誰よりも、汚れてしまった。ぐらぐらと揺れ動くグリーンの瞳に映る私は、なんだかくすんでいて、それでいて無表情に近く、きっと私と赤黒いそれにしか分からない程度に悲しそうな顔をしていた。


――――ピロロッ


刹那、空間を裂くようにして鳴ったポケギアにはっとなって視線を這わせる。今は出るべきじゃないと思ってはいたけれど、私とグリーンしかいないこの空間から逃げ出したくてそれを開いた。


『あ、名前?さっきはごめん、なんか苛ついてて。別れるなんて嘘だからさ、お前には俺しかいないんだし、戻ってこいよ』


たんたんと台本にでも書いてありそうなセリフを、役者でもない人が棒読みで読んだような言葉と声音。まさにそんな感じだった。
こんなところしか私の帰る場所はないのかと、私には本当に彼しかいないかともう嫌になるくらい問いたそれに答えは求めてない。


「……うん、わたしこそ、ごめんね」


私の口から吐き出された言葉に、今度はグリーンがはっとなった。その際こちらに伸ばされていた手が下ろされるのを感じで少し胸が痛んだけど、私はこれでいいのだと、本物の愛情を知るには遅すぎたのだと自分に言って聞かせた。
ピッという音を響かせて切ったポケギアをポケットにしまって、軽く手で髪の毛をとかす。服はグリーンのだから、このままでは彼に会いに行けない。一度家に寄ってから着替えて、それからもう一度お風呂に入って。今少しでも甘えそうになった馬鹿な私をシャワーで洗い流してしまおう。


「…服、ありがと」


「名前、」


「また返しにくるね、ばいばい」


「名前!」


「…ありがとう、グリーン」


ごめんね、とこの家に来たときと同じようにして言われた言葉にグリーンはくしゃりと顔を歪めた。そそくさと廊下に出て荷物をまとめる私とは対照的に、ばたばと慌ただしく廊下を走る音が響く。
できることなら私だって、あなたにすがっていたかった。誰でもないあなたに、私の隣にいてほしかった。泣き出してしまいそうなのを堪えて、掴んでいたドアノブに力を込めた。ほんとは逃げたい、あんな男のところになんて戻りたくない。誰でもいいなんてばかみたい。誰でもよくない、グリーンじゃないとだめなの。そんな風に私の往生際が悪いからなのか、ドアを開けることに一瞬抵抗してしまった。


「名前!!」


彼が私の腕を掴むまで、あと3秒。
私がドアを開けて走るまで、あと2秒。
私のほうが少しだけ、早かったね。

再び打ちつけるようにして降る雨が、私の肩を濡らしていく。
グリーンは、もう、追いかけてこなかった。


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つづくかも。