竜持くんは小さな頃から何かと理由をつけて私をからかったり、苦手だった人参を虎太でも凰壮でもなく離れたテーブルでみゆちゃんと楽しく食事をとっていた私の皿にこっそりとしのばせたり、お気に入りのワンピースで出掛けられることに歓喜してスキップしていたところに足を引っかけられたり、もう本当に変な子だった。さすがに最後のは腹が立って、2、3日家に引きこもっていたかったけど私には学校があるから仕方なくランドセルをしょって外に出れば、いつものように三つ子が私を出迎える。「名前さん、昨日のワンピースどうしたんですかあ?」にやにやといやらしい笑みを浮かべた竜持くんに私の堪忍袋の緒が切れた。「竜持くんのせいで転んだときの血はつくしボロボロに破けるし、もうさんざんだった!竜持くんなんて嫌い!最低っ!」それから私は頑張って三つ子から逃げるようにして走って学校に行った。もう学校に着いたときには乱れた髪が汗で顔にへばりつくし、息は絶え絶えだし、何よりも私の心がズタズタだった。なんで、なんでそんなこと言うの竜持くん。許すつもりはなかったけど、朝きちんと謝ってくれた考えないこともなかったのに。お気に入りのワンピースだったのに。いたずらばっかりの竜持くんに、見せたかったのに。似合ってるって言ってほしかったのに、私にはズタズタでボロボロなワンピースがお似合いってこと?考えれば考えるほど涙がとまらなかった。だっていたずらばっかりで生意気ですっごく嫌なやつで、それでもたまに見せてくれる笑顔とか同い年にしてはやけに大人びてるところとか人参が苦手なところも全部ひっくるめて私は竜持くんが大好きなんだ。私はこんなにも竜持くんが好きなのに竜持くんは私なんかちっとも見くれない。私のそういう気持ちを、きっと望んでないんだ。だから嫌がったり泣いたり怒ったりする顔ばかりを見て笑ってるんだ。とまりそうにない涙をどうすれば周りに悟られずにすむのだと考えたけど、結局分からなくて顔を伏せて目を瞑った。こうなったら先生が来るまで寝てやる。幸い三つ子全員と違うクラスだし、今の私の状況を知ってる子なんていない。あいつら友達いないしね、ざまあみろ。「名前ちゃん…?なんで泣いてるの…?」ゆみちゃんの声が、うるさかった教室を一瞬にして静かにさせた。数拍おいたあとにわっと私の机の周りにクラスメイトが群がるのを感じる。「名字ー!なんで泣いてんのー!?」「なんでなんでー?」小学生って誰か泣くとすぐに群がるんだよなあと自分のことなのにまるで他人のことのように考えた。ああうるさいなあもう。私は失恋の上にお気に入りのワンピースダメにされて怒ってんの。悔しいから口には出さずに、私はだんまりというか狸寝入りをしつづけた。泣いているわけを聞きたがる声は、に「早く言えよ!」とか「さっさとしろブタ!」といった悪口になっていく。はっ私は大人だからあんたたちなんかに構ってやれるほど暇じゃないんだよなんてことにはならず、私の中で竜持くんに対しての怒りとは違った怒りがふつふつと沸き立つ。うるさいクラスメイトに制裁を!今ブタっつったやつ出てこい!


「おい」


それは今までの中で一番よく聞こえた声だったと思う。声のしたほう、つまり教室の入り口を見たら、扉に背中を預けて偉そうに腕を組んだ凰壮がいた。さっきのこともあってか、なんか、気まずい。なんでここにいるんだとも思ったけど、彼は私と同じクラスではないが同じ学校の同じ学年の同じ階の、しかも教室を出て左に約3歩ほどで着く隣のクラスに在籍しているんだったと思い直す。ここにいるのも不思議ではないし、その「おい」が私に向けられたのかも分からないのだから、気にすることもない。だけど凰壮は私と私を取り巻くクラスメイトを怪訝そうに見たあと、まっすぐに私を見て「名前、廊下出ろ」とだけ言って先に廊下に行かれてしまった。
先程まであんなに騒いでいたというのに、クラスメイトたちは三つ子が関わっただけでしんと静まりかえって私など最初から泣いてなかったかのようにそれぞれのおしゃべりを再開させる。お前らどんだけ三つ子怖いんだよ。唯一心配してくれたゆみちゃんは、私が泣いてたことが三つ子にあると思ったのか、私が泣いていたから三つ子に呼ばれたのか勘違いしているみたいだった。いや、どっちもあながち間違ってないけど。そんな私の唯一の友達であるゆみちゃんに大丈夫だよと笑って私は廊下に出た。クラスメイトなんか知るか。お前らゆみちゃん見習え。
廊下で私を待っていたのは私を呼んだ張本人の凰壮、だけだった。もしかしたら竜持くんが謝りにきてくれたのかも、と嬉しくなった純情な私を返してもらいたい。まあ謝られたところで許しはしないけど。


「竜持さ、」


「うん?」


「ほんとはきっと、お前のこと好きなんだと思う」


なんで凰壮がそんなこと言うの。意味分かんないよ。
私は私の中で気持ちが一瞬にして冷めるのを感じた。べつに凰壮が悪いわけではない。凰壮は竜持くんと私を仲直りさせたいんだけなんだ。それは分かっている。分かっているんけど、なんかね、うまく言葉が出てこないの。無理矢理口を開けば何も悪くない凰壮に何か嫌なことを言ってしまいそうで、私はぐっと押し黙る。


「竜持のやつ、謝りたいんだと思うんだけど」


「…じゃあ謝りにくればいいじゃん」


「名前さんを悲しませてしまったんです。謝ったって許してはくれません。それに、僕は最低ですから。つってるけど、」


さすが三つ子だ、演技のクオリティが高い。だけど表情まで真似することなんてないのに。ぎゅっと眉間に皺を寄せて、凰壮は本当に悲しそうな顔をして言った。それは凰壮のアドリブであって竜持くんがそんな顔をするはずないのに、その切なげな声になんだか私まで悲しくなってしまう。


「…竜持くんは、最低だよ」


もう訳がわからない。私が何に怒っていたのかも、わからなくなってきた。「とにかく、竜持くんが謝ってくれるまでは知らないから!」私をとめる凰壮の声が聞こえたけど、それを無視して教室に入る。一瞬視界に入った竜持がくんは悲しげな顔をしてこちらを見ていて、私はそれすらも無視した。

その後私と竜持くんが前みたい話すこともなくなり、そのまま別の中学へと進学するのだった。




*




中高一貫校へ進んだ私は同世代の子たちが受験やらなんやらでばたばたとしている間、こたつでぬくぬくと縦にも横にも成長していた。また合否発表でみんなが喜んだり泣いたりしている間、欠伸をしながら終わらない課題を延々と解いていた。周りからしてみれば無駄で価値のないことかもしれないけど、私はみんなに比べて一足先に苦労したのだからこれくらいしたって当然だ。堂々と道路の真ん中を歩いてやる。足元までの丈のワンピースを着ていた時代も過ぎ、私は膝上のスカートにかわいらしいリボンとブレザーを羽織って、もうすっかり大人気分だ。高校生は制服を着ただけで大人になったように感じられるから不思議。中学よりも短くなったスカートが、風に揺られてひらひらと踊っているようだった。

あの日から、私は竜持くんと一切顔を合わせていない。家は相変わらず近いけれど中学は違ったわけだし、私も向こうもなんだかお互いを避けるように生活していたから、顔を合わせないのは仕方のないことだといえばそうだったようにも思える。まあワンピースのことなんて今さらどうでもいいけど、せめて一言ぐらい謝ってほしかったなあ。竜持くん、本当に好きだったんだけどなあ。なんて、もう終わったことなのにいつまで引きずってるんだろう。自分自身を叱咤して、ゆみちゃんの合格祝いに何か買ってあげようと目的地を近所のコンビニに変えた。茶色のローファーで音を立てながらアスファルトの道を歩いたけど、いまだに竜持くんを考えると胸が痛いんだよなあって考えたら悲しくなってきた。
滲む視界には、住宅街以外何も映っていなかった。

「おや、今回はスカート丈が短くありませんか?」


不意に、あのいじわるな声が聞こえた。一瞬私の空耳なのではないかと思ったが、足元に伸びる私とは違うもうひとつの影が空耳ではないことを示していた。恐る恐るという言い方はおかしいかもしれないけど、それくらいゆっくりと振り返る。ああ、もう。なんでこんなときに会うのよ。ていうか、なんで話しかけてくるの。


「…この間のほうがかわいらしい顔をしていましたよ」


「うるさい。それより竜持くん、何か言うことはないの?」


「……もしかしてまだ怒ってるんですか?名前さん、心狭いですね」


「………」


久しぶりに見た竜持くんは、ブレザーの制服を着て黒い縁取りのメガネをかけていた。その制服を見るのははじめてだ。中学はたしか学ランだったよね。竜持くんと凰壮が同じ学ランを着て朝早くから走って行くのを何度も窓から見ていたから、それくらいは分かる。だけど見かけることはあってももう二度と顔を合わすことはないと思っていた竜持くんが、今目の前にいるんだ。今まではちょっと寂しいなとか会いたいなとか簡単に口に出していたけど本人を目の前にしてはとても言えそうにないし、それどころか昔の竜持くんみたいに嫌なことしか言えない。突然話しかけられたから何を話せばいいのかなんて分からない。しばらく黙っていると、同じく気まずいらしい竜持くんが「すみませんでした」と軽く頭を下げてきた。


「嫌な思い、させましたよね」


「……」


「…本当は、もっと早く声をかけたかったんです。だけどいざあなたを前にしたら何を話せばいいのか分からなくて、」


「……」


「………ワンピース、汚してしまってごめんなさい」


あんなに望んでいた言葉が、思いの外すとんと落ちてきた。なんだ、あっけない。あんなに遠回りしたのが嘘みたい。それから続けてどうぞと差し出された大きな紙袋に一瞬戸惑ったけどおずおずと受けとる。かわいらしいリボンと清潔な白い袋に夕日が反射して輝いて見えた。だけど私はその紙袋に見覚えはない。竜持くんと紙袋を交互に見ていたら、「開けてください」と開封を促される。


「…え、竜持くんこれ…」


「実はあのあとすぐ、母さんに頼んで買ってもらったんです。だけど僕、名前さんに嫌いだとか最低だとか言われたのが相当こたえたみたいで」


「だ、だって竜持くんが私のワンピース…!」


「…許してもらおうだなんて思ってませんよ。ただ僕が持っていてもどうにもならないものですし、……名前さん、」


「…っ、なに…?」


「好きですよ」


それまでこらえていたはずの涙が、ポタポタとアスファルトと抱き締められた紙袋に落ちる。紙袋にあとが残らないように、だけど力強く抱きしめてぐちゃぐちゃの顔を勢いよく上げた。


「りゅ、じくん、ごめん、ね…!だいすきっ……!」


今度は、ちゃんと言えた。
意地張っててごめんね。
ワンピースなんて気にしてないよ。
私も、竜持くんが好きだよ。
ずっと話したかったよ。
全部言い終わらないうちに竜持くんの胸板に顔を押し付けられて、背中に手を回された。自分で思ってる以上に私は竜持くんに会いたくて謝りたくて、だからきっと悲しくて嬉しいんだ。今まで離れていた時間、きっと竜持くんは私には分からない出会いや別れを繰り返して色んな思いをしてきたのだろう。そこに私がいないということも、くだらない理由で仲違いしてしまったことも悔しくて悲しくてたまらなかった。私だって竜持くんの知らない出会いも別れもしてきたのに、私だけが彼の中から切り離されてるみたいで怖い。不安で仕方なくて、こんなにも好きなのになんで今まで離れていられたんだろうと不思議に思う。小さく震える肩に、竜持くんが優しく触れる。そして、あのときとは全然違うがっしりとした腕が私を捕らえた。


「今度はもういたずらしないでね」


「さあ、それはどうでしょうねえ。僕は名前さんが大好きですから。好きな子をいじめたくなるのが男ってもんなんですよ。」


「じゃあ、もう手を離さないで」


そしたら今度は優しい声で「そうですね、嫌がられても離してあげられそうにありません」なんて言うから、また涙が溢れる。

竜持くんが私を離さないように、私もあなたを離さないからね。
紙袋に入っている小さなワンピースに、小さく笑っている自分の顔をそっとうずめた。