※深海少女パロ
例えばそう、私が悲しみの海に溺れていたのなら。一体どれくらいの人が手を差しのべ、私を救いだしてくれるのだろう。ひとり、ふたり。なんて数えられる人たちはいない。私はひとりで沈んでいって、底のない悲しみの波が私を押し潰していく。
はじまりはなんだったかな。ただテストの点が悪かったとか、仲のいい友人と喧嘩したからとか、そんなくだらないことではなかったはず。それでも思い出せないのならそんなにたいしたことではなかったから。わけがわからないまま沈んでいく私の視界に、きらきらと垣間見えるきれいな光も、私の手にかかれば汚くなってしまう。だから私は、見ているだけでいい。私は堕ちて、彼は光りつづけて。小さく笑った声は、彼に届いたかな。
「名前さん!」
ばしゃん、と波が音を立てた。
伸ばされる手にしがみつけば、私は楽になれるのだろう。だけどそれはならない。私が汚してしまっていい光なんて、ない。ああ墜ちる。どこまでも、ずっと深く。果てのない悲しみにのまれて、消える。
意識が飛んでしまう際に、何かに包まれたような気がした。
*
冷たくない。そう思って重たい瞼を持ち上げれば、清潔感を漂わせる真っ白な天井が私を見下ろしていた。見たことのある部屋だった。悲しみにまみれた海じゃない。暗い暗い混沌の底じゃない。日の光があたる、きらきらした世界。そこは私にとって眩しくて、羨ましくて、いくら望んでも手に入らない世界であった。
「おはようございます」
天井につきだすように出した手をすっと引っ込める。声の主は竜持で、手には薬とお粥の入ったお椀の乗った盆を持っていた。
「まったく、あなたはバカですか?」
「………」
「深夜に学校へ忍び込んだ上に、プールに飛び込むなんて」
「………」
「風邪でも引かれたら、迷惑するのは僕なんですよ?」
「…竜持」
「なんです?」
「なんで、怒らないの?」
しん、とした空間にお盆を置く音が響いた。「怒ってますよ」「怒ってない。そんなの、怒ってるって言わない」再び静寂が辺りを支配する。
「心配、しました」
私の人生はフリオ・イグレシアスのように偶然で成り立っていない。何かひとつのことを目指して一度その頂点まで登ったのは、偶然ではなく彼の努力。だけどそこから2つや3つの才能を目覚めさせたのは、全部偶然。たまたまとちょっとの努力は、偶然の産物。"私の人生は奇跡そのものだ。"世界の恋人とさえ称された彼の歌は、たまたまで出来上がっていた。
そのことを知ったとき、はじめて私は本当の悲しみというものに堕ちた。
私の人生は、奇跡なんかじゃない。偶然やたまたまで物事を片付けられたり才能を開花させられるほど甘くはない。偶然で全てが上手くいく人とそうでない人。神様に選ばれた人と選ばれなかった人。格差社会だとも差別社会だとも思わないけど、すごく悲しくなったのだ。
ああそうだ、これが私のはじまり。悲しみのはじまりだった。
「怒ってますよ。怒り狂ってどうにかなってしまいそうです。」
「じゃあ、なんで」
「…僕が怒鳴り散らしたら、あなたは消えてしまうでしょう?」
いつもは堂々とはっきり物を言う竜持の声が、今はか細く聞こえた。消えてしまう。私が消える。私はそんなに弱くて脆かったのかな。
「僕が翔くんの家に無遠慮に居座っている凰壮くんを迎えに行かなかったら、学校へ忍び込む名前さんを見つけられませんでした。」
「そう、たまたま見つけたんだね」
「ええ。ですがそのたまたまがなければ、あなたは死んでいましたよ。」
「そっか、」
じゃああの時見た光は竜持だったんだね。服も靴も履いたまま、思いのままに飛び込んだ。空に輝く星を眺めながら、私は沈む。手を伸ばしても、伸ばさなくても。きれいな星には届かない。だから私は、手を伸ばさない。堕ちていく私を包むまどろみの世界。私の居場所であったはずのそこには、もう何も残ってなかった。
「…本当はもうこんなことをさせないように、監禁でもしてしまおうかと思いました。」
「うん」
「ですがそんなことであなたの悲しみが癒えるとも思ってませんし、無意味だと分かってます。」
「うん」
「……だからせめて、生きてください」
するりと髪に手を絡ませ、竜持はきれいに笑った。ベッドに腰かけて上半身だけ起こした私の頬に手を這わせる。
本当は分からなかった。何が悲しくて、何が悲しくないのか。何をしたくて、何をしたくないのか。
偶然ってなに。たまたまってなに。分からないものにすがるのは嫌い。不合理なことも、非科学的なものもみんな嫌い。
でも、竜持だけはそんな風に思えなかった。
「ほら、あなたはこんなにもきれいな色をしているじゃないですか。」
そっと手を伸ばした私の手を包み、細くてきれいな指が頬を撫でる。赤い瞳に吸い込まれるみたい。竜持の手を握る。竜持が笑う。無意識に握った手の上に、たくさんの涙が落ちてきた。
ぶくぶくと泡がたつ。ゆっくりと目を開けば、こちらに伸びている手が視界に入った。きれいな赤い瞳が細められて私の手をすくいとる。
悲しみの海に、光が射した。
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