イザシズ | ナノ



ただあの顔を見ただけで苛立ち、そのにおいに誘われるがままに追いかける。ゴミ箱を手にして投げつければひらりと避けられ苛立ちが増すだけだった。いい歳した男達が街中を駆け巡れば不思議そうに視線を向けてくる奴らもいたが、そんな視線すら気になんかならなかった。ただ目の前に居る真っ黒い男を殺す為に神経を集中させているから視線なんて物は感じてもいないのだ。
走り出してからどれくらいが経ったのだろうか。そこはただの住宅街で周りには人の姿は無かった。男が動きを止めれば、追いかけていた彼も動きを止める。観念したのかクルリと男は振り返った。そしてじりじりと近付いてくる。その男の手にはナイフが握られており、このままいつもの様な殺し合いが始まるのだと彼は思った。だから近場にあった標識を引き抜こうと手にしたのだ。手にしただけで引き抜くことは出来なかった。気がつけば目の前にまで真っ黒で、紅い瞳の男が移動していて標識を抜くことが出来なかったのだ。ニヤリと男の口角が吊り上る。血管が切れる音が聞こえた。

「いざッ…!!」
「ねぇシズちゃん」

ナイフを首筋に当てられて苛立ちは最高潮だ。それと男のにおいに酔い始め判断が鈍り出している。だからこの男が嫌いなのだ。こんなにも心を乱す男が。

「シズちゃんはさ、本気で刺しても刺さらないじゃない?だから俺は考えたんだよ。きっとこれを聞いたら君は俺を褒めるかもしれない。シズちゃんに褒められても嬉しくないけどね。俺の考え、聞いてくれるよね?モチロン」

ぐだぐだと一人で喋りだした男にやっぱり殴り殺すと答えを出し、標識から手を離そうとした瞬間に男がナイフを投げ捨て両手を首に宛がい絞め始めた。驚いた彼は標識を握り締めて折り曲げてしまった。

「刺さらないのなら酸素を取り込めないようにしたら良いって俺は考えたんだよねぇ…苦しい?シズちゃん」
「ッ…し、ねっ!」
「んー?まだ絞めたり無いのかなー…これだから化け物は嫌いなんだよ。…ねぇシズちゃん…死んでよ…俺に酸素全部吸い取られてさ」

食いつくように唇を奪われる。僅かな酸素の取入すら許さない様に。
ぬちりとした物体が口内に侵入してきて舌を絡め取られる。それが男の舌だとは今の彼の思考では理解出来ない。
酸素が回らない。そのせいか、目の前がチカチカとし始め意識が飛びそうになるのをぐっと耐えた。せめてもの抵抗にと男の肩を押しやれば、男は簡単に離れていった。げほげほと咳き込みながら酸素を取り込む。今すぐにも男を殴り殺したいのに身体が言う事を聞かない。

「シズちゃん顔真っ赤ー!…まぁ君が顔を真っ赤にさせながら涙を流してる姿を見れたし今日はこれで終わりにしてあげるよ。酸素を奪い取るのはどうやら有効みたいだしね。じゃあねー!」

走って逃げる男の後姿を不本意ながら見送る形になってしまった彼は男の取っていた行動を思い出す。ああ、キスされてたのか。そうぼんやりと思った。

「…キモチワリィ」

服の袖で唇を拭いながら立ち上がり、ふらふらと歩き出す。
いつもの日常に戻る為に。
次、男と出合った時に殺す事を誓いつつ。
顔を紅くした彼は日常に戻っていったのだ。





あなたのすべてを




ねぇ…俺に頂戴…
君の中にあるもの全部を
酸素すら君に触れさせたくないんだ






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