05-2


瀬多先輩が雨の中途中で帰ってしまって、私は一人帰路についた。何か気に障ることをしてしまったのだろうか。慌てている様子だったから、なにか急用だったのかもしれない。だから河原で猫と戯れる私に付き合う時間などなかったのだろう。悪いことをしてしまった。傘だけでも持って行ってもらうべきだった。今度謝らなければならない。花村先輩のお友達で、なにかと気を使ってくれる先輩だったので嫌われるのは気が引ける。それならいまだ瀬多先輩に対してのよそよそしさを取り除くべきなのだろうけれど、やはりうまく接することはできなかった。人と接するというとは本当に難しい。

「ただいま」

がらり、と古い引き戸の玄関を開ける。居間からおかえりーと間延びした声が聞こえてくる。あれと首をかしげるが、そういえば今日はお休みにすると言っていたなと思いだして靴を脱いで中に入った。

「……お母さん、家の中だからってその恰好ははしたないよ」

居間の襖をあけると、割ときわどいナイトウェアランジェリーを着たお母さんが寝転がりながらテレビを見ていた。お母さんは私が入ってきたことに気づいて顔だけ振り向いてだぁってと不服そうに言う。

「最近暑いし、この格好楽なんだもの。久々のお休みなんだしいいじゃない」
「……誰か来てもそのまま出てないよね?」
「大丈夫よ。お母さんまだ若いもの」

ということはそのまま出たのか。そういう問題じゃないと言おうとしたけれど、言っても仕方ないと思って、やめた。我が母ながら少し呆れる。
確かにお母さんは若い。なんたって私を16歳で産んで今は32歳だ。娘の私が言うのもあれだが、スタイルもよく美人である母は高校一年生の娘を持つ人には見えない。
この若さで私一人を養うためにスナックを経営している――よく勘違いをされるけれど、いかがわしい店とは全く別物で、純粋にお酒を飲むことと普通にお母さんとの会話を楽しむために来ているようなお店だ。私も何度か手伝ったことがある。
ジュネスでバイトを始めたのはそんなお母さんの負担を少しでも減らすためでもある。自分のために貯金しなさいというお母さんの主張を、半分は貯金をしてもう半分を家に入れるという形で納得させた。といっても、高校生のアルバイト代なんて微々たるものではあるけれど。

まあ、お母さんはがお休みのときは大抵だらしないし、本当に久しぶりのお休みだし、少しの横着には目を瞑ろう。
今日の夕飯当番は私だ。お母さんがいるなら早く作りはじめた方がよさそうだ。

ピピピ…。

晩御飯はなににしようかと口を開いた瞬間、携帯が鳴る。私の鞄から鳴り響くそれを取り出すと、ディスプレイにはバイト先、ジュネスのチーフの名前が映し出されていた。

「もしもし」
『あ、亜希ちゃん? 悪いんだけど今から入れないかな?』
「え?」
『今日入る予定だった子が二人も無断欠勤しちゃってさ……。今日安売りの日だから雨でもお客さん多くて……。ほんと申し訳ないんだけど、来てもらえると助かるんだけど』

ちらりと時計を見る。5時前。安売りの日は7時前までピークが続くだろう。今日はお母さんと久しぶりにゆっくりしたいなと思ったけれど、仕方無い。

「わかりました。今から行きます」
『ほんと!?助かるよ!特別給与出すから!』

じゃあよろしくと電話は切れた。ふぅと溜息をつくとお母さんがバイト?と聞いてきた。うんと頷く。

「人、足りないんだって。今から行ってくる。ごめんね、晩ご飯作れないや」
「そんなことは全然いいけど……今から? 大丈夫? 雨も降ってるし、私も一緒に行こうか?」
「平気。久しぶりの休みなんだからゆっくりしてて。いってきます」

お母さんは納得していないようだったけれど、何かを言われる前に早足に家を出た。戸を閉める時、気をつけてねというお母さんの声が聞こえた。外は相変わらずの雨で、傘をさして雨の中を歩きだした。


***


閉店時間30分前に、ようやくお客さんの波は引いて、ふぅと息をつく。私は食品売り場での商品の棚卸やバックヤードでの商品の検品、在庫の確認などが主な仕事でレジ仕事はやらないのだけれど――人と接するのが苦手だという私に花村先輩が店長とチーフに口添えしてくれたのだ。元々裏方の仕事は地味に大変でやりたくない人が多いので、私が積極的にやるというと是非!と利害関係がうまく一致した――お客さんの多い時や人が足りない時は棚卸はともかく検品や在庫確認をひとりで大量にやらなければならず、今日はまさにそれで目が回るような忙しさだった。
人が少なくなった今は売り場での最後の商品確認と品だしをして、それが終われば掃除をして終わり。あと少しだから頑張ろうと自分を励ます。

「おう亜希。頑張ってるな」

聞き覚えのある声に顔を上げる。グレーのシャツと赤いネクタイをした無精ひげが似合う男性は、片手をあげて久しぶりだなとほほ笑んだ。

「堂島さん」

堂島さんはお母さんのお店の常連さんだ。お母さんのお店が堂島さんの勤めている警察署の近くなこともあり、何かと贔屓してくれている。私も何度か会ったことがあり、父親のいない私たちのことをよく気にかけてくれている。堂島さんの家も父子家庭ということもあって、お母さんと堂島さんは年は離れているものの互いによき理解者であるらしい。
お久しぶりですと頭を下げると堂島さんはおうと言ってぽんと私の頭に優しく手を置いた。

「しばらく見ないうちにでかくなったか?」
「……残念ながら、気のせいです」


中学のうちに成長は止まっています。というと、堂島さんは可笑しそうに笑った。
お父さんがいたらこんな感じなのだろうか。堂島さんと会うといつもそう思う。

「お母さんが寂しがってました。最近来てくれないって」
「あー、そういや最近は忙しくて行ってなかったな……。わかった、近いうち顔を出すようにする」
「そうしてあげてください。お母さん、喜びます」

堂島さんは苦笑してどっちが親かわからないなと言った。

「おまえも母親同様ほどほどにしろよ。気持ちはわかるが、働きすぎて体を壊したら元も子もない」

ぐりぐりと頭をなでられる。こういう優しさは気恥ずかしい。どうしていいかわからなくてうつむくしかなかった。堂島さんはそんな私の様子に慣れているので、相変わらずだなとまた苦笑した。

「お父さん」

小学生くらいの、髪を二つ結びにした可愛らしい女の子が堂島さんに小走りに走り寄ってきた。女の子は私と堂島さんを不思議そうに見つめている。堂島さんはああ、と女の子を一歩前に出した。

「娘の菜々子だ。確か会うのは初めてだったよな」

こくりと頷く。堂島さんの娘さん――菜々子ちゃんのことは、堂島さんからもお母さんからもよく聞かされていた。会うのは今日が初めてだったが、どこかで見たような気がするのは気のせいだろうか。くりくりとした栗色の好奇に混じった瞳でじっと私を見上げてくる菜々子ちゃんはとても可愛らしかった。自然と顔が綻ぶ。

「はじめまして菜々子ちゃん。水無瀬亜希っていいます。菜々子ちゃんのお父さんによくお世話になってます」

菜々子ちゃんと視線を合わせるようにしゃがんで、よろしくねと笑う。
人と接するのは苦手だけれど、動物や小さな子は好きだった。堂島さんの娘さんということもあり、気兼ねなく笑うことも話すこともできる。

「菜々子、お姉ちゃんのこと知ってるよ!『亜希ちゃん』でしょ?」

お父さんから聞いたことあるよと楽しそうに笑う菜々子ちゃんはとても愛らしかった。

「あとね、まえお兄ちゃん達とジュネスに来たとき、亜希ちゃんのこと見たんだよ。陽介お兄ちゃんと話してた」
「……あ、あのときの女の子、菜々子ちゃんだったんだね」

そういえば五月の連休、先輩達がジュネスに来たとき小さな女の子がいた。あれがそうだったのか。
覚えててくれてありがとうと言うと、菜々子ちゃんは照れたようにえへへと笑った。失礼なことだとわかっていても、本当に堂島さんの娘さんかと疑ってしまうほど可愛かった。
けれど、どうして菜々子ちゃんは先輩たちとジュネスにいたのだろうか。

「水無瀬?」

名前を呼ばれ顔を向けると、驚いた顔をした瀬多先輩がいた。私も驚いて立ち上がる。

「なんだ、おまえらもう顔見知りだったのか」

堂島さんはそうれなら話が早いと瀬多先輩を菜々子ちゃんの隣に立たせた。

「亜希、こいつは瀬多総司……って知ってるか。俺の姉気の息子でな。しばらくうちで預かってんだ。おまえの母さんから聞いてないか?」
「……ああ、そういえば」

高校入学前、お母さんがそんなことを言っていた。どんな子かしらねーと話をしていたような、気がする。学年も違うし、自分には関係のないことだと正直聞き流していた。

「堂島さん、水無瀬と知り合いなんですか?」
「あー、まぁな」

堂島さんは言葉を濁す。さすがにスナックの常連とは言いずらいだろう。この年の子たちはスナックを風俗店まがいのものを勘違いしてしまう人のほうが多い。

「うち、自営業で、その常連さん、で。友達なんですよ、お母さんと」

ね、と堂島さんに言うと、友達なあ、と笑っていた。瀬多先輩はそうなんだとどかこかバツが悪そうに視線を彷徨わせる。ああ、そうだ。放課後のことを謝らねば。

「あの、さっきは、その、すみません、でした」

頭を下げると瀬多先輩はひどく驚いて、慌てた様子で首を振った。

「水無瀬が謝ることじゃないよ…。あれは俺が勝手だった」
「でも」
「水無瀬は悪くないから。謝らなきゃいけないのは俺。ほんと、ごめん」

申し訳なさそうに言う瀬多先輩にどうしていいかわからず戸惑っていると、堂島さんがふぅと息を吐いた。

「何があったか知らんが亜希も総司も仲良くしろよ。学年は違うにしても同じ学校なんだからな」
「菜々子も、亜希ちゃんと仲良くしたい!」

菜々子ちゃんはとてもキラキラとした顔で私を見上げている。子ども特有の純粋な好意。ふと瀬多先輩に視線を向けると、困ったように、それでいて優しそうに微笑んでいた。すこしだけ、顔が熱くなった気がする。







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