自然と目が覚めた。しばらくそのままボーっとしていたが、時間を見てすでに昼過ぎだと分かり身体を起こす。
今日は確かお店が定休日だったはずだ。バイトはない。一日何をして過ごそうか。
ぐっと伸びをしてベッドから降り、カーテンを開ける。
の、瞬間。
ガラガラガッシャーン!!!!
「っは?!」
階下からものすごい音が聞こえ、慌てて部屋を飛び出て階段を駆け降りた。
「あ、天音。おはよう」
「……なにしてんの」
リビングに入ってキッチンの方を見れば、エプロンをつけた(今日は黒だった。これまた無駄に似合う)ジオが顔や服をべたべたにして、さっきの音の原因らしい落ちている複数の調理器具を拾っていた。ちなみに床もべとべとだ。これは…たぶん…。
「ホットケーキミックス?」
「ああ、その、今の時代はすごいな。こんなに簡単にパンケーキが作れるなんて」
「で?」
「……その、見ての通り手元が狂った」
「手元が狂ってそこまで派手に散らかせられるなんてある意味才能あるわ」
「……すまん」
しゅん、と申し訳なさそうに項垂れるジオに小さく息を吐いて、落ちていたボウルを拾った。
「ほら、やっとくから顔洗って着替えてきなよ」
「いや、でも」
「そんなべとべとだと気持ち悪いでしょ。いいから行って来い」
べしん、と背中をたたくとジオは苦笑してありがとうと言った。どこか力のない表情だと感じたのを、片付けに集中しているように見せかけて気付かないふりをした。
「(あ、私まだパジャマのままだ…顔も洗ってない…)」
頭とか爆発してないかなぁとどうでもいいことに思考を向ける。そうしないと昨夜のことを思い出して、どうすればいいかわからなくなりそうだった。
***
片付けをし終え、とりあえず顔を洗って着替えもぱっと済ませ、幸いにもまだミックスが残っていたためお昼は(ジオは知らないが私は朝食も兼ねて)ホットケーキを作ることにした。もちろん、私が。
「俺も…」
「手伝うとかぬかしたら平手だから」
さっき派手にちらかしたのはどこのどいつよ。
ジオが言い終える前に私の言葉をかぶせると、ジオはぐっと押し黙って、それでも落ち着かないのか、座って待っていればいいものを、ミックスを混ぜている私の隣に立った。しかもじっとこっちを見ている。視線が鬱陶しい。……いや、どちらかというと今は痛い。けれど私はいつも通り平静を装って、ホットケーキの種作りを終えた。
フライパンをコンロに置き、火をつけて温める。
「今日は寝不足なんだ。ぼうっとしてやらかしてしまった」
「ふぅん。なに、面白いテレビでもやってた?」
「考えてたんだ」
昨日お前に言われたことを。
ぴくり、と手が止まった。
「……忘れてって言ったでしょ。もうぶり返さないで」
なんでだろう。声が震えそうになる。
油をしいて種をフライパンに流し込む手まで、震えてしまいそうだ。
「忘れられないさ。俺もそう思ったから」
「……どういう意味?」
「確かに俺は、おまえになにも話さなかった。おまえはなにも望まなかったし、俺も話す必要はないと思った」
鼻をくすぐる良い匂いも、お腹を刺激する生地を焼く音も、どこか遠いもののように思えた。私はいつの間にか、ジオの顔を真っ直ぐ見ていて、ジオのあの、綺麗なオレンジ色の瞳も、真っすぐ私に向いていた。
「初めは警戒心からだ。おまえを信用することが出来なかった。心を許してはいけないと、そう思った。天音もそうだっただろう?」
苦笑するジオに、私は何も言えなかった。彼は構わず言葉を続けた。
「けれど、それがなくなった。おまえの傍は心地がいいと感じた。たとえおまえが俺に隠し事をしていようと、そんなことは気にならなくなった。けれど今度は、おまえに『俺』という人間を知ってほしくなかった。おまえが本当の俺を知ったら、態度が変わってしまうのではないか、今までのように接してくれなくなるんじゃないかと、柄にもなく不安になった。だから踏み込んでほしくなかったし、俺も踏み込もうとはしなかった」
でも、とジオは言う。
「嬉しかった」
「……え?」
「昨夜、おまえは俺のことを『なにも知らない』と言った。おまえが、おまえの知らない『俺』のことが気になって、興味を持った。それがすごく嬉しかったんだ」
本当に嬉しそうに、愛おしそうに、ジオは微笑む。
綺麗な表情で、綺麗な声で、それがすべて私に向いていて。
ぎゅう、と心臓を掴まれた感じがした。
「なぁ天音」
いつの間にか、私の左手はジオの右手に包まれていた。
「話をしよう」
語りかけるように、彼は言う。
「俺が今までどういう風に生きて、育って、なにをしていて、なに経験して、なにを感じたか。すべてをおまえに話すよ。だから天音、おまえのことも俺に話してくれないか?」
「え…?」
「おまえがどんな家族のもとに生まれ、育って、どんな友人がいて、どんなことを勉強して、どんなものを見て感じたのか。俺は知りたい。天音のことを、知りたいんだ」
ぎゅ、とジオの手に力が込められる。私はその手から逃れることも、彼の真っ直ぐな瞳から顔を逸らすこともできず、囚われてしまったかのように、気付いたら首を小さく縦に動かしていた。
「私も、ジオのこと、知りたい」
その時見たジオの顔は、今までに見たどの表情よりも綺麗で、甘美な色を持っていた。