どうやら俺は、タイムトラベルをしてしまったらしい。
原因はまったくわからない。俺はただ、夜遅くに仕事を終えて、明日の予定を確かめることも、スーツを脱ぐのも億劫で、マントだけ放りなげてそのままベッドに突っ伏して、そのまま眠っただけだった。そして起きたら見知らぬ部屋のベッドで、見知らぬ女が俺を驚いたように見つめていた。
その時の衝撃は、半端じゃなかった。
この俺が、人前で、なにも感じることなく、眠っていたのだ。
元々、俺の眠りは深くはない。安心して眠ってはいけないからだ。いつ、俺を殺しに来る奴が居るかわからない。いつもなら、物音や空気、そして、俺の中に流れる『血』で、すぐにわかる。
けれど俺は、人前で、しかも、見ず知らずの場所や女の前で、すやすやと眠ってしまっていたのだ。
どういうことだ。なんなんだ。一体。
動揺を悟られないように、俺は女に誰だと問うた。女は俺の言葉にびくりと肩を震わせて視線をきょろきょろと彷徨わせた。言葉が通じないようだった。良く見れば、自分の友人の故郷特有の人間の顔立ちだった。
俺は日本語で女に話しかけた。日本語は書物や友人から習っていた。女は反応した。俺は女を責めるように問いただした。今思えば、俺は焦っていたのだと思う。どう見ても一般人の女に殺気まで放って、俺らしくもなく、余裕を持つことができなかった。
女は一瞬脅えた様子を見せたが、次の瞬間、自分になにかが投げつけられ、咄嗟に防いだ。
思わず、呆気にとられた。
彼女は、俺を真っすぐ睨みつけ、指まで指して、怒鳴った。俺を罵った。
あんなに真っ直ぐ罵倒されたのは久しぶり、否、初めてだったかもしれない。
気付いたら、腹を抱えて笑っていた。
あんなに大笑いをしたのは、本当に久しぶりだった。
彼女の名前は、天音と言った。
彼女の家に住ませてもらうようになってからは、驚きの連続だった。俺の住んでいたころの時代と、なにもかもが違って見えた。俺の知らないことばかりで、不安よりも好奇の方が大きかった。
彼女はなにも知らない俺に、嫌そうにしながらも俺が理解をするまで最後まで教えてくれた。面倒だと言いながら俺の様子を見ては不自由がないようにしてくれた。素直ではないが、心根は優しい娘だった。
数日たっても彼女が俺を『男』として見ることはなかった。どうやらそういったことに興味がないようだった。俺はそれがとても嬉しかった。
彼女は俺に何か隠しているようだった。俺はなにも聞かなかった。
彼女がまだ俺を信用していないことはわかっていたから。実際、俺が彼女に隠していることは山ほどある。俺も、彼女を信用していなかったからだ。
俺は彼女から警戒心を解くつもりはなかった。
何故だかわからないが、彼女にはまったく『超直感』が働かなかないのだ。
***
「とうっ」
「!?」
がくんと頭が落ちた。天音がハート形のクッションを持って見下ろしている。どうやらそれを枕に眠ってしまっていたらしい。
「これ私のクッションなんだけど」
まただ。
また、彼女が近づいてきたというのに、目を覚ますどころか気配を感じることすらできなかった。一体、なにがどうなってるんだ。
「いいじゃないか。それが一番気持ちがいいんだ」
「知ってるわよ。奮発したもん」
ぎゅ、とハート形のクッションを抱きしめながら天音は言う。本当にお気に入りらしい。
「でもこれはダメ。私のだもん」
「ケチだな天音は」
「そういうこと言うんならこれ私が使うわよ」
ずいっと差し出されたプレゼント用の包装をされた袋。受け取ると柔らかい感触がした。
天音が抱きしめているハート形のクッションと同じものが入っていた。ただ、天音が持っているのは濃いピンク色で、入っていたそれはオレンジ色だった。
「それ、ジオ専用のだから。好きに使っていいよ」
「……ハート型だな」
「それしかなかったの!嫌なら使わなくていい。私が使うから」
「いや、ありがとう天音」
天音はふいと顔を逸らした。
「べ、別に買い物のついでに見つけただけだし…セールで安くなってたから買っただけでお礼言われるようなことしてないわ」
「私の目の色と同じだな」
「う、うるさいな。夕飯抜きにしてほしいのジオ!」
「それは困る。天音の作る食事は美味いからな」
だったらジオも手伝ってよと彼女は台所に向かった。俺はその後ろを首を傾げてついて行った。
「なぜ『ジオ』なんだ?」
「ジョットだから、『ジオ』。ジョットってちょっと言いにくいのよね」
「……そうか」
「嫌?」
「いいや……。愛称で呼ばれたことが今までなかったから」
「じゃあこの呼び方は私専用なわけね」
悪戯っ子のように彼女は笑った。
その瞬間、俺は彼女を、愛しいと思った。