花火





夜空に上がる美しい花。
実物を見た事がないから尚更だろう。テレビを通して見たそれに、幼い心は強く興味を惹かれた。

「なぁ、父ちゃん。花火行きてー」

「花火?」

首をかしげるイグニールに、ナツは一枚の紙を差しだした。花火の絵が描かれているそれは花火大会の広告だ。
イグニールは納得したように、ああと声を漏らした。

「花火大会があるのか」

ナツから広告を受けとり日時を確認すれば、明日だ。場所も家から離れていない河川敷。
ナツが花火を見た事がなかった事を思い出し、イグニールは頷いた。

「よし。行くか」

「いいのか!?」

目を輝かせるナツに、イグニールは笑みを浮かべた。

「せっかくだから浴衣も出そう」

ナツに必要なものは全て持ってきているはずだ。己よりもナツの物を優先にしているから、ないわけがない。
嬉しそうに広告を眺めていたナツの目がイグニールへと向けられる。

「約束だからな!」

小指をからめたのは、昨日の夜だった。

夕方、朝から家を出ていたイグニールが家に駆け込んできた。
呼吸を乱しながら帰ってきたイグニールにナツが駆け寄る。

「どうしたんだ?」

不安そうに顔をゆがめるナツの両肩に、イグニールの手が乗せられる。

「すぐに準備しなさい。この家を出る」

困惑したような表情を浮かべるナツの手には一枚の紙が握りしめられていた。
それにイグニールは息をつめる。ナツが手にしていたのは花火大会の広告。そして一緒に行くと約束していた。

「オレ、ちゃんと父ちゃんの言うとおりにする」

今回が初めてではないのだ。家を出ると言う意味が、出かけると言う事ではないとナツは分かっている。イグニールの様子が尋常でない事も。
ナツは持っていた広告を背後に隠した。

「ナツ……」

ナツは部屋の中へと戻って行ってしまった。
その背中を見つめながら、イグニールは拳を握りしめた。今は急いで家を出なければならないのだ。

最低限の荷物を運び出して車に詰め込んだ。家具などは元から捨てていくつもりだった、持っていく必要はない。夜逃げ同然に一年余りを過ごしたアパートを後にした。
イグニールは車を運転しながら、隣へと視線をずらした。疲れたのだろう、ナツがシートに身を預けて眠っている。本当だったら、今頃花火大会に行っているはずだったのだ。

「……父ちゃんも、見せてやりたかったよ」

浴衣を着せて、花火を見て、屋台も出ているだろうから、かき氷でも食べて。
ナツが喜んでくれるならと、そう思っていたのだ。

「ごめんな、ナツ」

息子に花火を見せてやる事も出来ない。
イグニールはハンドルをきつく握りしめると、苛立ちをぶつけるように運転速度を上げた。
車を走らせながらも後をつけられていないか神経を集中しなければならない。車を走り続け、ようやく目的地に到着した。
車を停止させた場所には小さな影。ライトを照らせばすぐにその姿を確認できた。老人男性だ。
イグニールは車から出ると老人へと駆け寄った。

「先生」

「久しぶりじゃな、イグニール。話は中でしよう」

老人に促される様に入ったアパートの部屋。この部屋がこれからイグニール達の過ごす場所。家具など必要なものはすでに整えられていた。全ては目の前にいる老人が準備してくれたものだ。
イグニールはテーブルを挟んだ向かいに座る老人へと頭を下げた。

「ありがとうございます。マカロフ先生」

「主が礼を言う事ではない。巻き込んだのはワシらじゃ」

申し訳なさそうに顔をゆがめる老人マカロフに、イグニールは首を振るった。

「いえ、感謝しています。先生の後ろ盾がなければ、俺はナツと共にいる事は出来なかった」

イグニールは隣で寝ているナツの頭を優しく撫でた。
マカロフは、安らかに眠るナツに目を細める。

「大きくなったのう」

生きている。そう強く感じさせるほどに、生を強く放っている。
イグニールは眩しそうに目を細めた。

「この子がいるから俺は生きていける。……ナツは俺の光です」

イグニールの柔らかい笑み。それを見たマカロフは目を見開いた。イグニールを幼い頃から知るが、こんなにも穏やかな表情を見た事がなかったのだ。
マカロフは安堵に表情を緩め、ゆっくりと立ち上がった。

「すまんが、ワシはもう行くよ」

立ちあがろうとしたイグニールを、マカロフの手が制する。

「主はナツの側にいてやりなさい。ワシは平気じゃ」

思い出したように、マカロフは手にしていた袋をテーブルへと乗せた。中には、コンビニでも売っているような花火セット。大きな袋に数種類の花火が詰まっている。

「今日、近所で花火大会があってのう。そう大したものではないが少しは楽しめるじゃろう」

家庭用の花火も捨てたものではない。手持ち花火だけではなく、パラシュートが出てくるものや打ち上げ花火もあるのだ。

「ありがとうございます」

「気をつけなさい。奴らはすぐに嗅ぎつけてくる」

マカロフが家を出ていくと部屋には静寂が落ちる。
イグニールの脳内ではマカロフの最後の言葉が反響していた。逃げ回る様な生活、それが永遠に続けられるとは思っていないが、それでもイグニールはナツとの穏やかな時を手放せずにいた。

「もう、潮時なのか」

無感情な声が落ちた。それと同時にじわりと己の中に闇が生まれていくのを感じる。
どこか遠くを見つめるイグニール。まるで、それに反応したかのようにナツが身じろいだ。
我に返ったイグニールが視線を落とすと、閉じていたナツの瞳がゆっくりと開く。

「むー……とう、ちゃん?」

目元をこすりながら身体を起こしたナツ。

「起きちゃったか」

おはよー。
起きたばかりのせいか舌ったらずで告げた挨拶。ナツの瞳がテーブルの上に乗っている物に止まる。

「これ、花火だ!」

テーブルに置かれていた花火セットにナツが歓喜の声を上げた。どれほどナツが花火を楽しみにしていたのか、この姿を見れば分かる。
手にして喜ぶ姿にイグニールは眉を下げた。

「約束守れなくてごめんな。花火、見たかったろ?」

すまなそうに告げるイグニール。
ナツはきょとんとした後に、にっと笑みを浮かべた。

「これも花火だろ?父ちゃん、ちゃんと約束守ってくれたんだ」

「でも、花火大会みたいに大きな花火じゃないんだ」

ナツは瞬きを繰り返して、イグニールを見上げた。

「よく分かんねーけど花火なら同じだ。オレ、父ちゃんと花火見たかったんだ!」

大会とか規模とか関係ない。ナツにとっては、イグニールと共に、という事が大事だったのだ。
イグニールは、じわりと熱くなった目頭を隠すように、ナツを抱きしめた。

「……父ちゃん?」

溢れてくる涙を堪える様にかたく目を閉じた。
大人しく腕の中にいるナツの暖かい体温が、声が、笑顔が、己の中に住む闇を消し去ってくれる。
暫くして、イグニールはナツを解放すると見上げてくるナツに笑みを浮かべた。

「今から花火やるか?」

「うん!」

予定とは違ってしまったけど、浴衣を着て花火をしよう。きっと、大会の花火なんて比較にならない程に綺麗に決まっている。




20100801

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