agitato





ナツが学園に来てから一週間。寮にも慣れ、学園生活を満喫していたが、未だにラクサスとは出会えていなかった。
部屋の中に響き渡る目覚まし時計の音。アラーム音を止めて、逃げるように頭まで布団を被るが、しばらくして、布団は第三者の手ではがされた。

「いい加減起きろよ、ナツ」

ナツは呻りながら、うっすらと開いた目を声の主に向けた。

「グレイ……」

布団に手をかけたままナツを見下ろしているのは黒髪の少年グレイ。ナツの寮の同室者であり、同い年で、バイオリン専攻。初めて学園に足を踏み入れた日、ピアノを弾くラクサスを探していたナツに、練習室を教えた少年である。
グレイは、すでに制服を身にまとっており、ナツが目を開いたのを確認して、部屋の扉へと歩いていく。

「急がねぇと食堂閉まるぜ」

再び閉じかかっていた目は、グレイの言葉で完全に開いた。慌てて飛び起き、ベッドから抜け出す。

「飯!」

「俺は先に行くからな」

ヴァイオリンケースを手に、扉を開いて廊下へと足を踏み出したグレイが振り返る。

「そうだ。ナツ、今日のメニュー、お前の好きなオムレツだったぜ」

「ほんとか?!つーか、お前、飯は?」

いつも食堂に行く時は、手荷物を持ってはいない。寝巻に手をかけたままできょとんとするナツに、グレイは意地の悪い笑みを浮かべた。

「もうとっくに食ったよ。じゃぁな」

扉のしまる音を聞きながら、ナツは時計を見やる。アラームを止めてたいした時間は経過していないと思ったが、予想以上に経っていた。
寮の食堂は、朝と夜の決まった時間にしか開いていない。時間を過ぎれば、食事をとっていなくても食事は不可となるのだ。今は、終了時間間際。

「グレイのバカヤロー!」

とっくに扉の向こうへと消えたグレイに非難の声を叫んで、ナツは寝巻を脱ぎ捨てた。
早々に着替えて向かった食堂には、生徒の姿はない。食堂内の時計を確認すれば、朝の営業時間終了を過ぎていた。
慌ててカウンターへと駆けよれば、食堂内で片づけをしていた料理長がナツに気付いて笑みを浮かべた。

「ああ、来たか」

「頼む!飯くれ!」

手を合わせて拝めば、料理長は笑い声を上げた。そして、すぐにカウンターに差し出した一枚のトレー。上には本日の朝食メニューが乗っている。

「いいのか!?」

「絶対に来るだろうと思ったから待ってたんだよ」

ナツの大食漢ぶりは、短期間ながらに多くに知れ渡った。朝と夜の食事を準備している料理長は当然知っており、ナツならば高熱を出そうが這ってでも食べに来るだろうと確信していたのだろう。

「サンキュー!」

ナツはスプーンを手にしながら、食事の挨拶をすると立ったままで食事をかき込み始めた。食堂の営業時間が終わっているという事は、学生の本文である学業が開始になるのだ。急がなければ、授業に間に合わない。
ほとんど丸飲み状態で食事を終わらせ、食堂を飛び出した。寮は学園の敷地内にあり、校舎までの距離はほとんどない。
校舎へと向かって走っていたナツは、門を通り抜けたところで止まった。学園全体に響く予鈴の音。それと交じって、ピアノの音が耳に入ってくる。

「……あいつだ」

ラクサスが弾いている。
ナツは校舎へと入らず、壁にそって足を進める。以前はマカロフが持ち主であったピアノが設置されている練習室は一階にある。
近づけば音は次第に大きくなるので、大体場所は掴める。腰を曲げて体勢を低くしながら歩いていたナツは、開いていた窓を見つけて顔を覗かせた。

「居た」

窓からの角度では後ろ姿しか見えないが、ナツが探していたラクサスに間違いない。何より、イグニール似ている、優しい調べ。
ナツは身体を反転させると、壁に背を預けるように座りこんだ。膝を抱え、目を閉じて視覚を閉じ、ピアノの旋律だけに集中する。
本当は、すぐにでも飛び出したいが、グレイや他の友人達にラクサスの話しを聞いたのだ。ラクサスは、授業やコンクール以外で、人前で弾くのを嫌うらしい。だから、ラクサスはあまり人のいない時間を選んで、練習室を利用しているのだと。
隣接はしているが、高等部と大学部では校舎が違う。出入りを咎められることはないが、大学部にも練習室があるのだ。それなのに、ラクサスは何故か、わざわざ高等部の校舎にある練習室を利用している。疑問に思う者もいるが、ラクサスのピアノが聞けるなら、ナツにはたいした問題ではなかった。

「今日は、すげぇ気持ちいいな」

最初に聞いた時のように、途中から荒れたりはしない。目蓋の裏に、父親と過ごした日々が蘇えってくるようだ。
表情を綻ばせるナツの意識は、次第に沈んでいった。
どれほどの時間そうしていたのか、ナツの意識が一気に浮上する。開いた目に映ったのは、グレイの顔。至近距離で覗きこんでいるグレイの口から、おっ、と短い声が漏れる。唇が言葉を繋げようと動くが、その前にナツは手を動かしていた。
ナツの拳がグレイの顔面に見事に打ちつけられ、グレイはその場に倒れる。反射的な行動であり、ようやくグレイだと認識したナツは、顔を引きつらせた。

「お前、なにやってんだよ」

「第一声がそれかよ、てめぇ……」

たいした痛手はなかったようで、グレイはすぐに起きあがったのだが、鼻から一筋の赤い線が出来ていた。

「げっ、お前鼻血出てるぞ……なに考えてんだよ」

鼻血を出す。つまり、卑猥な事を考えている。よくある思考にたどり着いたナツは、若干身を引いた。

「てめぇのせいだよ!」

グレイは片手で鼻を覆い、もう片方でナツの頭を殴った。ナツは、殴られた場所を抑えながら不満げに口を尖らせる。

「つーか、お前授業は?」

「それはこっちの台詞な。一限目サボりやがって」

グレイは己がしていた腕時計をナツへと向ける。時計の指針は二時限目に入る目前の時間を示していた。

「俺、寝ちまったのか――あ、あいつは!?」

ナツは立ち上がると窓にしがみ付く。練習室に人の気配はなく、目当てのラクサスの姿もない。溜め息をついて振り返れば、袖で鼻血を拭くグレイと目が合った。
ナツの反応で大方の察しはついたのだろう、グレイの口から呆れで溜め息がもれる。

「そんなに会いたきゃ大学部に行ってこいよ」

グレイの案は尤もだが、人前で演奏するのを避けているのだから、突然会いにいっても警戒されるだけなのではないだろうか。まるで野生の獣を相手にしているようだ。

「でもよぉ、何で、人前じゃ弾きたがらねぇんだ?」

「知るかよ。いいから行くぞ、お前がサボると同室の俺まで怒られんだよ」

歩きはじめるグレイに、ナツも慌てて足を動かす。隣に並んで歩きながら、ナツの脳裏にはラクサスの奏でた旋律が満ちていた。懐かしくて、優しい調べ。ナツの表情は自然と笑みを浮かべていた。

「……何だよ」

視線に気づいて隣を見やれば、グレイと目が合う。訝しむナツの声に、グレイは目をそらすと、決まり悪げに頭をかいた。

「何でもねぇよ」

その頬は微かにだが紅潮していた。










一週間後。再び、遅刻間際の登校となったナツは、七日前と同じように校舎の壁にそって練習室へと足を向ける。しかし、窓から覗いても、ラクサスどころか人の気配はなかった。

「今日は来ねぇのかな」

もしかしたらという期待があっただけに、落胆も大きい。
ナツは窓を開けると、窓の桟に乗り上げた。履いていた靴を脱いで、室内に足を踏み入れる。
ナツがこの場に足を踏み入れたのは、学園に来た初日以来、初めてである。音楽専門の学園とはいえ、授業は技術を磨くだけではない。大学部では、専攻する楽器や音楽の歴史も学ぶのだが、高等部の授業の半分は、一般的な高校課程の教科を学ぶことになっている。
ナツのクラスでは、当の練習室を使う事は、今はまだなかった。許可をとらずとも使用できるが、ナツが利用することはなかった。時間がないわけではない、ただ一つ理由があるとすれば、ラクサスが現れるのを待っていたからだろう。
手にしていた己の靴を床に置いて、ナツはピアノの前の椅子に座り、鍵盤に手をそえた。
父親を尊敬していたから、父親が作曲した曲は全て記憶している。そして、世界に知られていない唯一の曲も。

「父ちゃんも、使ってたんだよな」

元はマカロフ宅に置いてあったピアノだ。イグニールも幾度となく触れてきた。
ナツは小さく息をつくと、鍵盤を指ではじいた。野を駆けまわる様に、無邪気さ。指は、軽い調子で鍵盤の上を跳ねる。
ナツが、学園に来た初日に弾いた曲と同じものだ。父親からの最後の贈り物だから。世に出る事のない、自分だけの曲。
ナツが真剣に見つめる鍵盤には、父親の手が見える気がした。いつも笑顔だったイグニールの表情を思い出しながら、ナツは父親の手を追う。
まるで、一緒に演奏した幼い頃のようだ。自然とこみ上げてくる愛しさと寂しさ。こみ上げてくる感情に喉が詰まり、同時に手が止まった瞬間、練習室の扉が開いた。

「イグニール……」

父親の名を呼ばれ、ナツは反射的に扉の方を振り返る。
立っていたのは、ラクサス。肩で息をする彼の目は、驚愕で見開かれていた。

「ラクサス」

咄嗟に呟いたナツをじっと見つめていたラクサスは、訝しむように顔を顰め、ナツの前まで足を進めた。

「お前、どこでその曲を知った」

「どこって……これは、父ちゃんが俺にくれた曲だ」

怪訝と嫌悪が若干まじった瞳が揺れる。納得したように、ああ、と小さく呟いてラクサスは言葉を繋げた。

「お前が、ナツか」

「何で俺の名前……つーか、お前、父ちゃんの事知ってんのか?」

「イグニールは、俺のピアノの師だ。お前の事はイグニールから聞いたことがある」

イグニールの名は、今でも曲と共に世に残っている。名前だけなら知らない者の方が少ない。だが、ラクサスの場合は異例だ。

「父ちゃんに弟子がいたのか」

ナツが父親と過ごしたのは島の中だけだ。イグニールが、コンサートなど仕事で島を出る時は、ナツは島で留守番をしていた。だから、ナツの知るイグニールの姿は、父親でしかなかったのだ。当り前とはいえ、自分の知らない父親の姿があったことに寂しさを感じてしまう。

「知らなかったのか」

ひとり言のような言葉がラクサスの口から漏れ、ナツは首をかしげた。

「先週、そこにいたろ」

ラクサスが顎をしゃくって窓の方を示す。その場所は、先ほどナツが侵入した場所であり、先週はその外でラクサスの演奏を盗み聞いていたのだ。

「き、気づいてたのかよ!」

「いびきかかれて気づかねぇわけねぇだろ」

気づかれていた以上に失態まで聞かれていた事実で、ナツの顔は真っ赤に染まった。羞恥に自然と俯きながら、口ごもる。

「あれは、お前の音が気持ちよかったから……」

ラクサスの演奏はイグニールに近く、ナツには心地が良すぎたのだ。特に、先週奏でられた音は、乱れる事なく穏やかだったからなお更だった。
反応しめさないラクサスに、ナツはちらりと顔を上げた。目があって、ぎくりと顔が強張る。

「俺の、音だ?」

ラクサスの表情は、苛立ち以外はない。

「てめぇも、ジジィの孫だからとか言うんだろ」

鋭い瞳は、嫌悪で満ちていて、ナツは後ずさるように椅子から立ち上がって距離を離した。
椅子に、ナツの変わりにラクサスが座る。その口元は、自嘲を含むように歪んでいた。

「そんなに聞きてぇなら聞かせてやるよ。何たって先生の息子様だからな」

喉で笑うと、ラクサスは手を鍵盤に打ちつけた。練習室に響く旋律は、曲を奏でるとはほど遠い、怒りにまかせただけのもの。耳を刺激するのは、曲ではない、叫び声のようだ。
それは、きっと、ラクサスの心そのもの。
ナツは、耳を塞ぎたい衝動にかられながらも、上げた手でラクサスの腕を掴んだ。
半ば強制的に止まった演奏で、ラクサスは不快そうにナツを見上げる。

「止めんじゃねぇよ」

「父ちゃんの曲を、そんな風に弾くな」

低く呻るラクサスの姿は、まるで追い詰められて警戒している獣のようで。その理由が、先ほど呟いた言葉に関係しているのだとすぐに分かった。
未だに耳に残る旋律が、自然とナツの瞳に涙を浮かべる。こみ上げてくる感情で言葉を喉に詰まらせながらも、ナツは言葉を紡ぐ。

「よく、分かんねぇけど……俺は、お前のピアノが好きなんだ」

全て理解しているとは言えないが、ラクサスの音が荒れる理由は、察することができた。
ナツは腕を掴んでいた手を、ラクサスの頭に乗せた。イグニールが幼い頃してくれた様に、髪を梳きながら、鋭い瞳をまっすぐに見つめる。

「孫とか関係ねぇ。ラクサスのピアノが好きだ」

毒気を抜かれたように、ラクサスの瞳から鋭さと同時に、纏っていた張りつめた空気も消えていく。

「今度はちゃんと弾いてくれよ。お前の音が一番父ちゃんに近かったんだからさ!」

にっと笑みを浮かべるナツを、ラクサスはただ見入るようにぼんやりと見つめていた。まだ幼い無邪気な笑顔、でも、その目には、確かに焦がれてやまなかったイグニールの面影があったのだ。




2012,04,13
久しぶりの音学。どうしてもラクサスがイグニールに憧れる設定が付きまとってしまう。ようやく対面という事で。

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