君の為にできる事したい事





姓が変わって三カ月。新居にも、少しずつ家事にも慣れてきた頃。昼食をとったナツは、リビングでテレビを見ていた。
ラクサスが出勤するのを見送った後に、掃除と洗濯を済ませた。夕飯の買い物に行くまでの時間をのんびりと過ごすのが、一人でいる時の一日の流れ。
最近楽しみになってきた昼間放送のドラマ。平日に連続放送しているので、昼間家にいる事が多い主婦にはなじみやすい。
茶請けの煎餅をかじりながら、ドラマに釘づけになっていたナツは、次回予告の画面が終わって、息をついた。

「結婚って大変なんだな」

ナツが見ていたドラマは、無理やり婚姻を結ばれた女性が他の男を体の関係を持ち、それが夫の愛人にばれて、という内容だった。よくありがちな愛憎劇である。
思わず呟いたナツだが、ナツ自身新婚三カ月という状況だ。自分の言葉に気付かなかったナツだが、ふとドラマの内容に気になる点があった。

「俺とラクサスもエッチすんのか?」

ナツとラクサスは、未だに性行為を行っていなかった。寝室は一緒だが、ベッドは別である。
一度気になってしまえば、疑問はしつこくも纏わりついてくる。買い物中も、夕飯の支度中も、ラクサスの帰宅を待っている間も、一人では出せない答えに悶々としていた。
ソファに座っていたナツは近くにあったクッションを抱き込み、顔を埋める。

「すんのかな……」

「何がだ」

ひとり言のはずが、横から入ってきた声。己以外の声に、ナツの身体がびくりと跳ねる。顔を上げれば、いつの間にか帰宅していたラクサスが立っていた。

「お、お前いつ帰ってきたんだよ!」

「今だ。で、何をするって?」

ラクサスの問いに、ナツの顔が一瞬で赤く染まる。先ほどまで思考を埋めていた事を口にするには、羞恥が大きすぎる。

「何でもねぇ……」

ナツはクッションを抱きしめる力を強めて、上目づかいでラクサスを見上げた。

「おかえり」

すでに羞恥心からナツの顔は真っ赤で、瞳には薄らと涙の膜が覆っていた。出迎えの挨拶に、言葉を返そうとしたラクサスだが、喉元で詰まる。
耐えるように眉を顰めて、歯ぎしりした口を開いた。

「誘ってんのか、お前は」

きょとんとするナツに、ラクサスは気まり悪げに背を向けた。

「先に風呂入ってくる」

「あ、おお」

ラクサスの行動はナツを避けていて、ナツには、ラクサスが不機嫌に見えてしまった。もしかして、嫌われているのか。過った考えに体が強張るが、それはラクサスが風呂から出たことで消えた。
風呂から戻ったラクサスの態度は常と変らず、食事の準備をして待つナツの頭を撫でた。

「今日も美味そうだな」

ひと月続いた毎晩カレーからシチューに変わって十日目。それでも、ラクサスは文句を言わずに、ナツが盛りつけた分を残さず平らげる。
一人暮らしの状態が長かったナツは、レトルトやインスタント食品に慣れている為、同じ食事が続いても大して気にはならない。この後、一般的に考えて一月同じ食事は辛いものだとナツが気づくのは、シチューが一月続いた後だった。
食事の片づけを終えたナツは、入浴時間になる。これも常と変らぬ流れで、風呂から出たナツは、リビングのソファでくつろいでいるラクサスへと歩み寄り、隣に腰かけた。首をひねって向けた視線が交うが、ラクサスは視線をそらして立ち上がってしまった。

「ホットミルクでいいか?」

目の前のテーブルには、ラクサスが飲みかけていた珈琲。ミルクを用意してくれるのだと気づかいを察し、ナツが慌てて頷く。
暫くして、甘い香りを漂わせながら、ラクサスが戻ってきた。差し出されたマグカップを受けとったナツは、両手に伝わる温度に頬を緩める。

「いい匂いすんな」

「蜂蜜入れたからな」

火傷するな。ラクサスが注意の言葉をつけ足そうとしたが遅かった。

「あちぃ!」

「バカ、気を付けろ」

小さく息をついたラクサスは、ナツへと視線を向けた。

「平気か?」

痛手の程度を確認しようとはしたのだが、実際にナツが口を開いて舌を出している姿を見て、動きを止めた。ナツは、患部を見せようとしているだけだ。頭で分かっていても、風呂上がりで少し湿っている髪と、ミルクのせいで甘い香りを漂わせていることが加わって、誘われている気分になってしまう。
ラクサスの手は自然とナツの頬に添えており、顔を近づけていた。

「冷やした方がいいか?」

ナツの声に我に返ったラクサスは、慌てて距離を離す。きょとんとするナツの目は純粋で疑いなど含んでいない。

「氷でも口に含んどけ」

ラクサスは気まり悪く、視線が合わせられないまま告げる。すぐに冷蔵庫に向かったナツに、ラクサスは溜め息をついてソファの背もたれに寄りかかった。
帰宅してナツの姿がある、それだけで満足なのだと言い聞かせてはいたが、三カ月も経てば欲も出る。他の男に取られたくないという、ナツのことなど考えない子供の我が侭ような理由で、半ば無理やりに婚姻を結び、側に置く事は出来た。安心はできたが、関係を勧める事が出来ないでいる。
夫婦となっても手も握れず、もちろん口付けも性行為もなし。無防備に近づかれて、無意識に挑発され、ラクサスの理性は限界に近かった。

「……もう無理だ」

晴らすことのできない欲求から、弱音が口をつく。小さく聞き取り辛い声だったが、間が悪く戻ってきたナツの耳に届いてしまった。

「なにが?」

反射的に顔を上げたラクサスは、不安げに眉を落とすナツに思わず喉を鳴らした。
常ならば輝く瞳が弱々しければ、抱きしめたくなる。でも、触れてしまえば、ただ抱きしめるだけでは終わらない。
ラクサスは、拳を握りしめると、拳を解いてナツへと手を伸ばす。

「平気か?見せてみろ」

「ん、もうへーきら」

舌を出すナツに、ラクサスは苦笑して頭へと手を移動させた。

「ガキじゃねぇんだ、気を付けろよ」

ぐしゃりと髪をかき混ぜれば、先ほどまで不安を宿していた瞳が細まる。はにかむ頬は紅潮しており、ラクサスの手は引き寄せられるように動いていた。
腕を掴んで引き寄せたナツの身体を抱きしめる。咄嗟に反応が出来ていないナツは、瞬きを繰り返して、ラクサスの顔を見ようと首をひねった。

「ラクサス?」

心音までもが伝わりそうなほどに密着する身体。戸惑うナツの声に、我に返ったラクサスは身動きがとれずにいた。
己より細い体。柔らかい髪。名を呼んでくる声。触れている高い体温。全てが情欲を掻き立てる。本能を理性でねじ伏せたラクサスが身体を離そうとするが、それは、わずかに二人の間に空間を開けるだけで終わった。
ナツの手が、ラクサスの背に回ったのだ。しがみ付くように服を掴み、至近距離にある瞳を見つめる。

「らくさ……ぅんっ」

ナツを目の前にして、理性が勝つには難しかった。ラクサスは衝動のままにナツの唇を奪っていた。触れるだけで終わるはずもなく、角度を変えて貪る。氷で冷やしたばかりのせいか、ナツの舌は冷たく、ラクサスは熱を与えるように舌を絡め吸い付いた。
口づけで、ここまで熱が生まれた事はない。口づけだけで、これほどまでに切なくなることも、愛おしさが溢れた事もない。
触れて満たされ、更に欲は深く激しくなる。
唇を解放すれば、呼吸を乱すナツの顔が至近距離で映る。口は半開きで、絡め合っていた舌先から透明な糸で繋がっていた。虚ろな瞳で身体を震わせる姿は、扇情的過ぎる。
ナツは、呼吸を整えながら、力なく笑みを浮かべた。

「初ちゅーだな」

拒絶される事さえ考えられないほど夢中になっていたラクサスは、ナツの言葉で、ようやく己の行動を自覚した。

「……ラクサス?」

固まってしまったラクサスにナツは首をかしげた。
ラクサスはナツを視界に入れないように立ち上がり、リビングの出口へと足を進める。

「先に寝る」

理性を忘れていた己の自制心の低さに衝撃を受けた。それさえなければ、あのまま、あの場所でナツを組み敷き、無理やりにでもことに及んでいたかもしれない。
寝室へと進めていた足を止めたラクサスは、己の下半身が熱を持っていることに気付いて、額を手で覆った。

「思春期のガキかよ」

熱を処理するべくトイレへと向かいながら、情けなさに耐えられず溜め息をもらしたのだった。

一人リビングに取り残されたナツは、ラクサスが出て行ってすぐに、その場にへたり込んだ。
初めての口づけは想像していたよりも激しく、全身が熱を持っていく。手を当てなくても分かるほどに、鼓動が早鐘を打っていた。

「エッチ、すんのかな」

先に寝室へと向かったラクサス。夫婦になれば性交をするのも当然。特に三カ月も経過していては、コミュニケーション不足とも言える。
暫くぼんやりとしていたナツは、マグカップを手に取りホットミルクを一気に喉へと流しこんだ。生ぬるくなっていた甘さを舌で感じながら、口元を拭って立ち上がる。覚悟は決まっているのだ。ナツは寝室へと足を向けた。
しかし、寝室にたどり着いたナツの決意は無駄になった。寝室の灯りは消され、薄暗い中微かに灯る照明。二つのベッドの間に置かれているスタンドライトだけだった。
ナツは戸惑いながらも、ラクサスのベッドの前まで歩みを進め、目を閉じているラクサスの顔を覗きこむ。

「ラクサス?」

寝てしまったのか、声の音量を最小限にして呼びかければ、少し間を置いてラクサスの目が開いた。目が合った視線をそらしながら、ナツは両手を弄ぶ。

「なぁ、一緒に寝ていいか?」

求婚は強引さがあったものの、婚姻が決まってからのラクサスは、ナツに対して甘かった。だから、拒否される可能性など、ナツの頭にはなかったのだ。

「ダメだ」

低い声だった。拒絶の言葉が、そう聞こえさせたのかもしれないが、ナツには冷たく感じた。
ナツが視線を向けた時には、ラクサスはナツに背を向ける形で横向きに寝がえりを打っていた。

「お前寝像悪いだろ」

何故だと問う暇もなく、ナツが言い返せない言葉をラクサスが紡ぐ。言葉を詰まらせるナツに、ラクサスは更に続けた。

「蹴り落とされたら堪らねぇんだよ。早く寝ろ」

言葉と向けられた背が、手を伸ばせば届くはずの距離を遠くさせる。
ナツは己のベッドにもぐりこみ、スタンドライトの照明を消した。掛け布団を頭まで被り丸くなる。
先ほどまで熱かった胸は、靄がかったように気持ちが悪い。眠りたくとも眠気が訪れず、ナツは掛け布団から顔を出した。ラクサスの後ろ姿をぼんやりと見つめながら、呟く。

「ラクサス――」

俺のこと嫌いか?

遠くで声が聞こえた気がして、ラクサスは目を開いた。泣きそうに、寂しそうに呟かれた声。上体を起こし、隣のベッドへと視線を向ければ、ナツが眠っている。

「ナツ」

呼びかけても返事はなく、耳をすませば規則正しい寝息が聞こえてくる。
夢だったのだろう。あんなに覇気のない声は聞いたことがなかった。音量を落とす事を知らなそうな印象さえあったナツだ、あんな声を出すはずがない。それに加え嫌われる事を恐れるような言葉など。
好かれたいという願望から、夢でも見たのだろう。虚しさを感じながら、時間を確認すれば起床予定よりわずかに早い時間。眠気など完全に失せており、諦めてベッドから出た。
目覚ましの設定を取り消していると、ナツが身じろいだ。

「らく、さす……」

耳に入った舌足らずな声に視線を落とせば、ナツの寝顔。寝言で呟いたのだろう。夢の中でも己と時間を共にしてくれているのだと思うと、ラクサスの胸は簡単に撃ち抜かれた。表情も幸せそうに緩んでいれば余計だ。
ラクサスは腰を折ると、ナツへと手を伸ばした。桜色の髪を指で弄びながら顔を近づける。

「愛してる」

至近距離で囁き、触れるだけの口づけを落とした。
寝込みを襲うような行動は、これが初めてではない。先に目が覚めた時、眠っている姿に誘われて口付けたのが始まりで、数回にわたって密かに愛を囁いていた。
湧き起こる欲を振り払ってナツから手を離し、寝巻に手をかけた。着替えを済ませて寝室を出ると、キッチンへと向かう。
常ならば、目覚ましで起きたナツが朝食の準備をしているのだが、わざわざ起こしたくはない。常より早い起床になってしまったからと朝食の準備を始めた。
元より、きちんとした食事などとる性格ではなかった。携帯食で済ませる事も多かったが、ナツがいるのであればそうはいかない。この変化だけでも、十分祖父のマカロフは喜んでいるのだが、それを当人達は知らない。
目覚まし時計の設定を取り消したから当然だが、ナツはラクサスが朝食を取り終えても起きる事はなかった。寝汚いのもあって、ラクサスが出勤する直前で、ようやく姿を表す。

「ラクサス!悪い、寝坊した!」

階段を駆け下りてきたナツは、玄関前にいるラクサスを見て眉を落とした。ラクサスはすでに身支度をすませ、靴を履くところだったのだ。
肩を落とす姿は叱りを受ける犬のようで、ラクサスは苦笑してナツへと歩み寄った。再び謝罪の言葉を口にしようとするナツを、頭を撫でて止める。

「出がけに顔が見られただけで十分だ」

ラクサスの手が離れ、ナツはそろりと顔を上げる。ラクサスはナツに背を向けて靴に足を通すと肩越しに小さく振り返った。

「行ってくる」

「い、いってらっしゃい!」

ラクサスが扉を開けたところで我に返り、慌てて見送りの言葉かける。すぐにラクサスの姿は扉の向こうへと消え、ナツは溜め息をついた。
気落ちした足取りでリビングへと向かったナツは、ダイニングテーブルに乗っているものに目を止めた。透明なラップで保護されているのは皿。皿の上には、フレンチトーストが乗っていた。付け合わせにタコの形のウィンナーと、簡単なサラダにされた生野菜。

「すげぇ……これ、ラクサスが作ったのか?」

ラップを解けば、密封されていた香ばしい匂いが飛び込んでくる。作り立てとはいかないが、若干生暖かい。
匂いに誘われて腹からは空腹を訴える音が鳴る。ナツは早々に席に着くと、側に置かれていたフォークを手にとってフレンチトーストにかぶりついた。

「、うめぇ!」

余分なものが入っていないシンプル生地がパンに沁み込み、焼き目の付いている周りはカリカリとし、中は半熟のようにとろける。上にかけられているメープルシロップが絡まって、ナツの好みに合う抜群な味だった。
先ほどまで暗かった表情が一変して輝く。だが、食事を進めてすぐ、ナツは手を止めてしまった。
半分ほどまで減ったフレンチトースト。口に含んだものを咀嚼しながら、ナツはぼんやりと見つめる。

「ラクサス、なんで俺と結婚したんだ?」

ラクサスは料理までもできる。それ以前に、家事なら、ナツが始めるまでは家政婦が来ていたのだ。ナツの食事も家事も全ては家政婦が行っており、その時点で違和感はあった。
三食昼寝に加え、おやつ付き。ナツにとっては食いつかない方がおかしい条件で、ラクサスも約束を守っていたのだが。

「普通、奥さんが家事するんだよな……」

ナツは、こみ上げてくる涙をこらえて、俯いた。

「俺、ちゃんとできてねぇ」

震えた声が落ちた。一人でいるには広すぎる家が、いつもよりも寂しく感じる。ナツは晴れない心の靄に自然と溜め息をもらしながら、ゆっくりと食事を再開した。
食事を終えた後は、洗濯と掃除。昨日と同じ行動を脳内で描きながら、ナツは自室へと向かった。
寝過ごしたナツは着替える余裕もなく、未だ寝間着のまま。ラクサスは寝室で着替えをするが、ナツの着替えは自室でするようにと、共に暮らすことになった時にラクサスが決めたのだ。正確には、自分の前で着替えるな、と。
自室で着替えていたナツは、当時の事を思い出して動きを止めた。
昨夜は、ようやく口づけをしたと言うのに、ラクサスは逃げるように先に寝てしまった。一緒のベッドに入る事も、目の前で着替える事も禁止され、性交を求められる事もない。

「わけ、分かんねぇ」

頭を撫でてくれる手と、優しい扱いから、嫌われているとは思いたくなかった。何故、求婚されたのか。理解できない。
着替えたナツは、寝室へと向かう。仲良く並んでいるベッドも、今では距離が出来ている気がする。ナツはラクサスのベッドに歩み寄り、腰かけた。放られたままの寝巻に手を伸ばし、抱きしめる。

「ラクサス……」

そのまま身体を倒し、シーツへと頬を擦り寄せる。
結婚当初は全くなかった感情。当然だ、ほとんど面識などなかったのだから。だが、行われた披露宴で、ラクサスが妖精学園のバスケ部エースだった事を知った。当時、ナツが惹かれていた存在。
偶然にも学生時代に憧れていた男に、願ってもない条件で求婚され、結婚後は条件以上に甘やかされる日々。
そんなラクサスの行動は、周囲から見れば、ナツを妻というよりも子供やペットのように可愛がるようにしか見えない。

「好きだ」

三カ月の間で、ナツには、はっきりとした感情が生まれていた。
目を閉じて、鼓動が速くなっていくのを感じていると、携帯電話の呼び出し音が鳴り響く。着替えた際にポケットに入れた携帯電話が発生源だ。ナツは寝転がったままで携帯電話を取り出し通話ボタンを押した。

「誰だー?」

気だるげに呼びかければ、耳にあてた受話口から、女性の柔らかい声が聞こえた。

「あら、奥さんはお疲れかしら」

「ミラ!」

ナツは勢いよく身体を起こして、携帯電話に集中する。
ミラは愛称で本名はミラジェーン。ラクサスの幼馴染であり、ナツが妖精学園に在学中だった頃の二つ上の先輩。卒業後もナツを気にかけ、結婚後も家事全般の指導をしている、相談相手でもある。
職業は看護師で、人手不足の病院へと出張に行ったのが一月ほど前。

「帰って来たのか?」

「ええ、昨日の夜にね。お土産いっぱい買ってきたから、今日、家に行ってもいいかしら?」

兄弟のいないナツにとって、ミラジェーンは姉のように頼りになる存在だった。だからこそ、一月の間話せなかった不安が一気にこみ上げてくる。

「ナツ?」

返事のないナツに、ミラジェーンの声が訝しみを含む。ナツは、携帯電話を握りしめて、戦慄く唇を動かした。

「ミラぁ……」

相談に乗ってもらいたい。会いたい。言葉は、喉元で止まってしまった。再度、言葉にしようと口を動かそうとするが、その前にミラジェーンの声が静かに耳に入る。

「今から行くから、待ってて」

宣言通り、ミラジェーンはすぐに家に訪れた。玄関で出迎えたナツは、ミラジェーンの姿に、くしゃりと顔を歪める。

「俺、離婚かもしんねぇ……」

ミラジェーンは両手に提げていた紙袋を降ろして、ナツを抱きしめた。あやすように背中を撫でながら、ゆっくりと口を開く。

「話しを聞くから、落ち付いて。特製ハーブティも持ってきたから淹れてあげるわ」

鼻をすすりながら頷くナツを解放して、ミラジェーンは家へと上がったのだった。
ミラジェーンの手によって入れられた紅茶を前に、ナツはソファに隣り合って座った。似つかわしくなく顔を俯かせるナツから、覇気のない声で昨日の事が語られる。
膝の上で固く拳を握りしめるナツの手に、ミラジェーンは、話しが終わるまで己の手を重ねていた。

「相変わらず人の気持ちに疎いわね。ナツをこんなに悲しませて……酷いわ!」

怒りを含んだ声に、ナツは慌てて顔を上げた。

「ら、ラクサスは優しいぞ!」

ミラジェーンが言葉を発するまで暗かったナツの目が、訴えるようにミラジェーンを見つめる。
予想していたのか、ミラジェーンの表情はすぐに笑みに変わった。

「ナツは、本当にラクサスの事が好きなのね?」

言葉だけでは問うてるように聞こえるのに、ミラジェーンの瞳は確信を持っている。確認する目に、ナツは顔を赤らめて頷いた。

「おお、好きだ」

羞恥で唇を引き結ぶナツの目は真剣で、ミラジェーンは小さく息をついた。その口は弧を描いており、瞳は柔らかく細められている。
ミラジェーンは、ナツを弟のように見てきた。だからこそ、無茶苦茶なラクサスの求婚に少なからず嫌悪は持っていたし、ナツが傷つく事があれば、どんなことをしても二人を別れさせようとまで考えていた。その考えも、ナツ達が結婚してすぐに消えたのだが。
女遊びが激しかったラクサスの当時を知っているミラジェーンには、信じられないほどに、ラクサスはナツを大切にしていた。それこそ、過保護すぎるぐらいに。

「でも、それじゃダメなのよね」

ひとり言にナツが首をかしげると、ミラジェーンは誤魔化すように笑みを浮かべた。

「大丈夫よ。ラクサスは、好きでもない人と結婚できるような性格じゃないわ。特に、人前でプロポーズしてまで……ね?」

ラクサスが求婚をした場所は人であふれていた。昼の時間帯の食堂など、会社の中で一番人が集まる場所だ。そこで、求婚をしたラクサスとナツは周囲の目を集めたのは当然で、その日中に、会社内に噂が広まったのだった。
否定しないナツに、ミラジェーンは続ける。

「自分からは手が出せないのよ。きっと、ナツを傷つけたくないのね」

正確には、拒絶されるのが怖いだけなのだろうけど。ミラジェーンは内心で付け加え、ナツを見つめる。

「俺、別に何ともねぇぞ?傷つくとか、ねぇし」

先ほどまで落ち込んでいたのを忘れたわけではないだろうが、ナツは、ラクサスに傷つけられたとかラクサスのせいだとか、人のせいにする事はないのだ。責任転嫁などせず、己の力不足を嘆く。

「ええ、そうね。だから、ラクサスは人の気持ちには疎いって言ったでしょ?」

そして、初めてできた最愛の人に、うまく接することができない。臆病すぎるぐらいの奥手に、周囲は笑う事も出来ず、ただ、呆れてしまうばかりだ。

「ナツが一歩踏み出してあげて」

ミラジェーンは手荷物の一つである紙袋をテーブルへと置いた。
中身を覗いたナツは、ミラジェーンとを交互に見やると、ミラジェーンは口を開く。

「奥さんの為の七つ道具よ」

中身は残念ながら三つしか確認できない。訝しむナツに、ミラジェーンは淡々と説明を始めたのだった。






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