2杯目「来客」



マグノリア商店街から少し外れた場所にある、さくら食堂。その前に、開店前の時間一人の青年が立っていた。

「ここか」

開店時間までほんのわずかな時間しかない。すでに準備が始められており、閉店中には片づけられている暖簾が、上に掲げられている。
青年は、戸にかかっている準備中の札を見やると、それを無視して戸に手をかけた。
開く戸の音に、中で準備していたイグニールが厨房から顔を出す。

「すみません、まだ準備中で……」

イグニールは青年の姿に、目を見開いた。

「ラクサス」

イグニールは青年の名を呟くと、厨房から出て青年ラクサスへと歩み寄る。笑みを浮かべるイグニールとは逆に、ラクサスの顔は不機嫌そのものだった。
事前の連絡もない訪問。急用かとイグニールが問う前に、ラクサスは口を開く。

「本当だったんだな。あんたみたいな人が、こんな小せぇ店なんか開きやがって……冗談じゃねぇ」

低く呻るラクサスに、イグニールは苦笑した。
ラクサスは、イグニールが働いていたホテルの若手料理人で、イグニールが高く評価していた人物でもある。
若い分足りない実践を積めさえすれば自分よりも上に行くと、口にした事はないがイグニールは期待していた。

「口が悪いのは変わらないな」

そうは言っても、イグニールがラクサスに会うのはホテルを辞職した日以来。二か月ほどしか経過していないのだ、人がそう簡単に変わるはずがない。
ラクサスの目はイグニールを睨む様に見つめており、イグニールは視界に入った時計で時間を確認すると、ラクサスの脇を通りぬけた。
戸を開いて、準備中の札をひっくり返す。営業中の札に変わったのを確認して、戸を閉めた。

「悪いけど、もう店を開ける時間だ。話しは後にしてくれるか?」

「ここで待たせてもらう」

店全体が見える隅の席にラクサスが座り、それと同じタイミングで客が入店した。イグニールの出迎えの言葉が店内に響き、少しずつ賑やかになっていく。
さくら食堂は、昼時と夕方からの数時間の営業。客入りが一番多い時間帯を選んで開いている。その理由は、幼稚園に通っている息子のためだ。
店内を観察していたラクサスは、小さく息をついた。店内は広いとは言えない、しかし、その場所を一人で動き回るのは無理がある。
時間が立つごとに客は増えていく中、イグニールは厨房と接客を同時にやっているのだ。
その姿を眺めていたラクサスは溜まらずに立ちあがると、厨房に顔を出す。

「注文は俺がとる、あんたはそっちに専念しろ」

目を見開くイグニールに、ラクサスはすぐに厨房から出て行ってしまった。すぐに店内にラクサスと客のやり取りが聞こえ始め、イグニールは笑みをこぼしながら調理の手を進めた。
昼時は二時までが開店時間になっており、二時までの入店客分の注文までを聞き入れる。幼稚園の迎えの時間が三時だからだ。
最後の客が退店し、店内が静かになると、イグニールはエプロンを外しながらラクサスへと近づく。

「助かったよ、ありがとう」

「まさか、いつも一人でやってんのか?」

若干疲れを見せる顔のラクサスに、イグニールは口を開く。

「今日はたまたまだよ」

開店当初よりも客が増えた今、食堂を一人で切り盛りするのは難しく女性を雇っているのだが、女性には子供がおり、今日は子供が熱を出したからと休んでいたのだ。

「悪いけど、もう少し待っててくれるかい?」

「まだ何かあるのか」

顔を顰めるラクサスに、イグニールは穏やかな表情を更に緩めた。

「お迎えだよ」

そう言って出ていったイグニールは、数十分程度で戻ってきた。食堂で待っていたラクサスは、戸の開く音に振り返った。

「ただいまー!」

「ただいま」

元気のよい幼い声に続いて、イグニールの笑みの含んだ声が店内に響く。

「今日のおやつはなにかなー……?」

イグニールと共に帰宅したのは、幼稚園に通っているナツ。
ナツは、ラクサスの姿を目に移すと首をかしげた。
夕方まで準備中となっている食堂。その中に、見知らぬ顔があれば誰でも疑問に思うだろう。

「そのお兄ちゃんは、ラクサスだよ」

「ラクサス……ラクサス!」

イグニールの言葉に、ナツは思い出したように名を呼ぶと、ラクサスに駆け寄った。観察するようにじろじろと見つめ、にっと笑みを浮かべる。

「お前が、父ちゃんがいっぱいほめてたやつだな!」

目を見開くラクサスに、イグニールは苦笑しながらナツの頭を撫でた。

「ナツ、着替えてきなさい。おやつにしよう」

「おやつ!」

「今日は父ちゃん特製プリンだぞ」

「父ちゃんのプリン!」

ナツは目を輝かせると、住居となっている二階に続く階段を駆け上っていった。
ナツがいなくなれば食堂内は一気に静かになる。ナツが消えていった方を見ていたイグニールはラクサスへと視線を向ける。

「俺の息子だよ」

「見てりゃぁ分かる」

あのやり取りを見て、他人とは思わないだろう。

「ずいぶん楽しそうだな」

「楽しいよ」

即答され、ラクサスは一瞬躊躇するように口を閉ざす。
沈黙が訪れる中、ラクサスは昂る感情を押さえるように拳を握りしめ、イグニールを見上げた。

「あんたみたいな人がこんなとこに居ていいわけねぇ……戻ってこいよ」

ラクサスの訪問の理由はそれだったのだ。ホテルを辞職する際にも、イグニールは何度も引きとめられたが、全て振り切ったのだ。
真っすぐに見つめてくるラクサスに、イグニールは小さく息をついた。

「無理だ」

「ガキの事なら、夜まで預かってくれる場所があんだろ!俺が探してやる!」

イグニールは首を振るうと、柔らかく目を細めた。その目は、目の前に居るラクサスではない、遠くを見ている。

「ナツじゃなくて、俺がダメなんだ」

訝しむラクサスにイグニールが続けた。

「一緒にいる時間が増えてよく分かった。俺は、あの子といる時が何よりも幸せなんだよ……ナツが我慢してくれても、俺が我慢できないんだ」

何より愛しくて、一度穏やかな時間を過ごしてしまえば手放せなくなる。
ホテルで働いていた多忙な時は感じなかったのに、今では、その分を取り戻そうとしているかのように、湧き起こる愛情が加速していく。
出来る事なら、抱きしめたままでいたいぐらいに。

「……分かった」

ラクサスは立ち上がると、入り口へと向かって歩き出した。戸を開けたところで、イグニールが口を開く。

「また来なさい。その時は、ご馳走するよ」

今まで聞いたことがないような穏やかな声がラクサスの耳に入る。
ラクサスだけではない、同じようにホテルで働いていた者たちも、こんなイグニールの表情や声を知りはしない。
ホテルで働いていた時のイグニールは、常に凛とした態度だった。料理人として、誰もが焦がれるような人物で、ラクサスもイグニールに焦がれて料理人の道へと進んだのだ。
ラクサスは口を開いたが、声を発することなく歯を噛みしめ、店を出ていった。
静かになった店内で一人たたずむイグニール。そこに、慌ただしい足音が響く。音の発生源は二階に続く階段からだ。

「父ちゃん、おやつー!」

近づいてくる足音に振り返り、イグニールは腕を広げて、飛び込んでくるだろう桜色を受けとめる準備をした。




20110825

イグニールの愛は重い(周囲の視点)

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