さくら食堂





「ナツ、お店の名前なにがいい?」

イグニールはテーブルに向って、紙にいくつもの単語を書きとめていた。店の名前の候補の様だ。
ナツはイグニールの膝の上によじ登ると、満足そうに腰かける。

「ハンバーグ!」

「ハンバーグかぁ」

イグニールは笑みをこぼして、ナツの希望とする名前の単語を書きとめる。
ナツが言っているのは好きな食べ物であって、イグニールの問いに応えてはいない。しかしナツに甘いイグニールには斬新だと思わせていた。
イグニールはペン先で紙をつつく。小さくぶつかる音が一定のリズムを刻み、それを聞きながらイグニールは目の前で揺れる桜色の髪を眺めた。

「桜……」

「なにー?」

ナツが首をひねって振り返ってきた。大きな猫目と目が合い、イグニールは口を開く。

「お店の名前が決まったよ」

目を細めて浮かべるイグニールの笑みは、柔らかく安心できる。それを見ているだけでナツにも自然と笑みが浮かんでいた。
イグニールは料理界でも名の通った料理人で、数多くの賞も受賞している。今まではホテルで腕をふるっていたのだが、一人息子のナツの為にと辞した。
幼稚園に預けていたナツを、夜になっても迎えに行く事が出来なかった事態が起きたのがきっかけ。幼稚園にたどり着いた頃には、ナツは泣き疲れて眠っていた。その事で己を責めたイグニールは、ナツと共に居られるようにと自らが店を開くことにしたのだ。
昼時と夕方からの数時間営業の食堂。幼稚園の迎えに行く時間もとれ、ホテルで働いていた時よりもナツと共に時間を過ごす事が出来る。
店の名前は、愛息子の髪の色からとって、さくら食堂。
商店街にも近く、イグニールの名前が知れ渡っている事もあって店は繁盛した。ナツも店を手伝い、それが更に客の心をひきつける。何も問題などなく、むしろ幸せの時を過ごせていたのだ。
しかし、それは数年で終わりを迎えた。

夕刻を過ぎた時間帯、常なら賑わっている食堂が静けさに満ちていた。すすり泣く声と共に、黒い服を纏った者たちが出入りしていく。
常とは逆で沈みこんだ雰囲気の食堂では、事故死してしまったイグニールの葬儀が開かれていた。

「……イグニール」

呼吸を乱しながら飛びこんできた金髪の青年は、目を閉じたままのイグニールに呆然と立ち尽くした。
息苦しそうな狭い箱に納められているイグニールの身体。
青年が最後にイグニールと対面したのは数日前。イグニールを追うように料理人となり、若手で今一番注目されている彼は、イグニールの推薦を受けて各国の料理人が集う世界料理会議に出席していた。

「ラクサス?」

背後からかけられた幼い声に青年は振り返った。ラクサスは青年の名であり、呼び捨てで呼ぶ子供など一人しかいない。

「ナツ」

ラクサスはナツの姿に眉を寄せた。
ナツは常通りの私服で、常通りなにも知らぬような表情でラクサスを見上げていた。手にはトレーがあり、その上にはカップが乗っている。匂いで湯気を立てているのは珈琲だとすぐに分かった。

「何やってんだ、お前」

あれほど父親について離れなかった。そんなナツが、父親が死んでしまったというのに普通でいられるはずがない。
ラクサスの言葉にナツは首をかしげて、イグニールの眠る棺へと近づいていく。

「父ちゃんにコーヒーいれたんだ。父ちゃん、疲れてるとなかなか起きねぇからな、おはようのコーヒーでおはようするんだ」

「ナツ」

幼い手は小さく震えていた。ナツは、棺近くの床にトレーを置くと棺を覗きこんだ。

「父ちゃん、コーヒーいれたぞ。おはようのコーヒーだぞ」

背を伸ばして、イグニールの顔を覗きこむ。その声と身体は震えている。
ラクサスは周囲へと目を向けた。イグニールを慕っている者たちが最後の別れにと訪れている、その中にはラクサスの知る顔も数多い。
その参拝者たちが涙を流しながら囁いている。ナツを憐れむその言葉に、ラクサスは全てを察した。
ナツは愛されている。誰をも惹きつけるものを持っていた。だからこそ周囲は、ナツから残酷な現実を隠そうとしているのだ。ナツの年齢を見ても、理解していないはずがないのに。
ラクサスは、歯を食いしばるとナツへと近寄った。

「ナツ」

「父ちゃん起きねぇな。コーヒー冷めちまうのに」

「ナツ!」

ラクサスはナツの身体に腕を回した。
体勢を崩したナツの身体がラクサスへと寄りかかる。

「ラクサス、父ちゃん、どうやったら起きるかな」

「起きねぇよ」

掠れた声で告げるラクサスの腕の力が強まる。

「イグニールはもう起きねぇんだよ、分かるだろ」

永遠に現実から目をそらす事などできないのだ。それに幼くとも、ナツは現実と向き合える強さを持っている。
ナツは、抱きしめてくるラクサスの腕に両手を伸ばし、しがみ付きながらしゃくり上げる。
ラクサスは腕に水滴が落ちるのを感じて瞳を閉じた。

「お前は俺が守ってやる、この店と一緒に」

イグニールがナツと共にいる為につくった店。道を示してくれたイグニールが愛したものを、己が守る。
決意するように、ラクサスは再び同じ言葉を繰り返した。

どれほどの時間そうしていたのか分からない。イグニールの眠る前で、ラクサスはナツを抱きかかえたまま座りこんでいた。
参拝者は帰ったのだろう、姿が見られない。人の気配も感じられない中、ラクサスは腕の中にいるナツへと視線を落とした。
しがみ付くように抱きついたまま、ナツは身体を放そうとしない。その桜色の髪をぐしゃりと撫でれば、ナツが身じろいだ。

「ラクサス……」

顔をあげたナツの瞳は真っ赤にはれていた。常に元気旺盛で輝いていた瞳が悲しみに濡れている。
その頬を撫でれば、ナツは窺うようにラクサスを見つめた。

「ラクサスも泣いていいぞ」

「泣かねぇよ」

涙なら、その分ナツが流しているのだから。
再び強くしがみ付いてくるナツに、ラクサスは視線を横に移す。ナツが持ってきた珈琲が冷めきった状態で放置されていた。
ラクサスはそれを手に取ると、目を閉じて珈琲を口に含んだ。

「……苦いな」

珈琲を飲む時は常に無糖なのだが、その時の珈琲はラクサスには酷く苦く感じた。




2011,06,19

イグナツからラクナツへバトンタッチ。この後同居が始まり、愛が芽生える(笑)
ラクサス「イグニールに顔向けできねぇな」


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -