Happy Day
一年で一番幸せな日を聞かれたら、まだ幼いナツは、間違いなくその日を選んだだろう。
毎年、この日だけはいつもより早く目が覚める。興奮して眠りが浅いのだろう。そして、目を覚ました事に気付いた父親が顔をのぞかせるのだ。
『おはよう』
まだ上体を起こしただけのナツに歩み寄り、父親の大きな手がナツを抱え上げる。いつもより視線が高くなり、背の高い父親に見上げられ、ナツは切れ長の瞳を見詰めた。
父親の唇が言葉を刻む。呪文のように唱えられる言葉から一日が始まるのだ。
『誕生日おめでとう。ナツ』
ナツは満面の笑みを浮かべた。
『ありがと、父ちゃん!』
祈るように額に口を寄せられる。くすぐったさに身をよじると、小さな体は大きな腕で抱きしめられた。
心地良い声だった。嬉しい言葉だった。暖かい体温が気持ち良かった――――
ゆっくりと目を開いた視界を遮るのは真っ白なシーツ。起きあがらずに視線だけを動かしていけば、カーテンの隙間から差し込む光が目を刺激した。大分見慣れた景色。いつもならこみ上げてこない感情が押し寄せてくる。
寂しい。冷たい。会いたい。
ナツは堪える様にシーツを握りしめて、目を固く閉じた。今日は七月二日だった。
「父ちゃん……」
ちょうど一年前は、目を覚ましたナツに気付いてイグニールが笑顔で声をかけてくれた。今年は、それがないのだ。己の体温が移って暖かいはずのシーツが、今日はこんなにも冷たい。
ナツはゆっくりと上体を起きあがらせた。今日は平日だから学校へと行かなければならない。
ぼうっと何もない場所を見つめていると、扉を叩く音が響いた。静寂な朝により強く聞こえたその音に、どきりと胸が鳴った。あるはずのない人物を期待してしまい、ナツは食い入るように扉を見つめる。
返事をせずにいると、音を立てて扉が開かれた。ゆっくりと開かれる扉の隙間から、その姿があらわになる。
「何だよ、起きてんなら返事しろっての」
顔をのぞかせたのは、ナツと同じく施設で暮らすグレイだった。
「……う、な、何だよ」
不機嫌だったグレイの顔は、ナツを見て強張らせた。グレイの顔を確認したナツの顔が、泣く寸前だったのだ。くしゃりと顔をゆがめるナツに、グレイは酸素を取り込むように口を開閉させるだけだった。
その場に立ちつくすグレイに、ナツは手近にあった枕を投げつけた。
「ぶふッ……てめ、何しやがる!」
顔面に直撃し床に落ちた枕を、グレイは拾い上げ投げ返す。ナツが枕を受け止めた隙に、グレイはナツへと飛びかかった。
「勝手に入ってくんじゃねー!」
「起こしに来てやったんだろーが!」
「頼んでねぇ!」
ベッドの上で暴れはじめる。これは二人にとっては挨拶の様なものなのだが、始まれば止まらないのは問題だ。特に朝など時間がないというのに。そして、毎度二人の喧嘩を止める人物も決まっていた。
「ナツ、グレイ……また喧嘩をしているのか」
低い声に、ナツとグレイの勢いは火を消されたように止まった。もみくちゃになっていた二人は、ぎこちない動きで扉の方へと振り返る。
「「え、エルザ」」
「あれほど喧嘩をするなと言ったはずだ」
睨みつけられ、二人は蛇に睨まれた蛙よろしく身体を硬直させた。
「そもそも、グレイ。私はお前に、ナツを起こしに行くように頼んだはずだぞ」
グレイは気まずそうに目をそらす。冷や汗を流す二人に、エルザは溜息をついた。
「こんな事をしていたら学校に遅刻してしまうな。急いで準備をして食堂に来い」
すでに準備は済ませてあったグレイは、エルザと共に出て行こうとする。それに、ナツは慌てて口を開いた。
「あのさ!今日、なんの日かしってるか?」
見上げてくる猫目に、振り返ったエルザとグレイは、すぐに背を向けた。
「知らね」
「ナツ、時間がないんだ。早く準備をしろ」
朝食は、決まった時間に全員そろってすると決まっている。余程の事がないかぎり、一人が遅れれば他の者も遅れる事になるのだ。早々に出ていく二人の背を見送って、ナツはゆっくりとベッドから抜け出した。
準備してあった服に着替え、いつも身につけているマフラーを手に取った。幼いナツには大き過ぎるそれを首に巻きつける。
「今日はオレの、誕生日なんだぞ……」
すっぽりと口元を隠してしまったマフラーに、伝える様に呟く。ケーキもプレゼントもいらない。ただ一言、幸せの一日を始める、あの言葉が欲しい。
ナツは目じりに浮かんだ涙を手の甲で擦ると、部屋を後にした。
朝食をすませて学校へと向かう。いつものように登校するのだが、ナツが話しかけようとすると、周囲はどうも避ける様に話を変える。学校へ着いた後も、休憩時間も。いつでも誰かが近くにいたナツにとって、今日ほどの異例な事はない。
「なぁ!今日……」
放課後になり、同じクラスであるリサーナに声をかけるが、ナツの言葉は最後まで続けられる事はなかった。思い出したように手を叩いたリサーナが、ナツへと振り返る。
「あ!あたし、ミラ姉の手伝いするから先にかえるね」
「急げよ、リサーナ」
クラスの違うグレイが教室の外で声をかけてきた。唖然と立ち尽くすナツに、リサーナは眉を下げた。己のランドセルを背負い、ナツの持っていたランドセルを手に取った。
「ごめんね、ナツ!ランドセルはあたしが持って帰ってあげるから」
「つか、おまえ邪魔だからどっか寄り道していけよ」
グレイを引っ張って教室を出ていくリサーナ。慌ただしい足音は、周囲の雑音に紛れてすぐに聞こえなくなった。グレイの言葉が脳内で繰りかえされる。まるで、帰ってくるなと言われているようで、全身が重く感じた。
「……なんだよ」
じわりと浮かんでくる涙を拭って、ナツは教室を飛び出した。
高校に通っているラクサスは授業を終え、寄り道をして寮へと帰路の途中だった。日照時間が長い真夏でも、そろそろ薄暗くなってくるだろう時間。
一番早く帰路につくべく、いつもなら住宅街にあたる裏道を利用するのだが、今日は違った。途中の分かれ道で自然と足を向けていた、裏道よりも人通りの多い河川敷。堤防の上を歩み進めていくと、見知った色が視界に入った。
川側の斜面に座り込んでいる小さな影。青々と茂る草に紛れる事のない桜色の髪が、風に揺れていた。寮で生活しているナツだ。
思いがけない人物にラクサスは顔をしかめた。高校生のラクサスにとってはそうでもない時間だが、小学生のナツには少し遅いし門限の時間も過ぎている。
「何やってんだ。ガキの門限は過ぎてんだろ」
放っておいて後で何か言われるのは面倒だ。そう思ったのだが、振り返ったナツの姿に声をかけた事を後悔した。
「ラクサス……」
幼さのある大きな猫目は潤み、丸みのある頬にはいくつも筋が出来ていた。誰がどう見ても泣いていたのだと分かるのだが、ナツは隠そうとしているのか目元を手で擦る。焦って力を入れたのだろう赤くなってしまった。
「今何時か分かってんのか?」
呆れたようなラクサスの声に、ナツはふいっと顔をそらした。
「おまえだって、今から帰るんだろ」
「ガキと一緒にすんじゃねぇよ。お前と俺とじゃ門限が違ぇだろ」
言葉を詰まらせるナツの唇が突き出されている。原因は分からないがナツが拗ねている事は確かだ。このまま放置してもいいが、その後が面倒なのだ。何せ寮に戻れば間違いなくナツを心配しているだろう面々がいるのだ。
ラクサスは深くため息をついて、ナツへと歩み寄った。草を踏みしめる音に顔を上げるナツ。その隣に腰を下ろした。
「……帰んねーのかよ」
暫くして沈黙を破ったのはナツだった。いつもとは違って小さな声は、うっかり聞き逃してしまいそうだ。少し間をおいてラクサスが口を開いた。
「ガキより先に帰れるかよ」
ラクサスの言葉にナツは顔を俯かせた。ぐすりと鼻をすすり、窺うようにラクサスを見上げた。堪える様に震える唇がゆっくり開いた。
「あのな……らく、さす……き、今日は」
「お前の誕生日だろ。散々聞かされた」
大きな瞳が、驚きで更に見開かれる。
「お、オレ、言ってねーぞ」
ナツは己の誕生日などラクサスに告げた事はない。ナツは、きょとんとしていたが、その表情はすぐに笑顔になった。ラクサスが自分の誕生日を知ってくれている事が嬉しかったのだ。
先ほどまでの暗かった表情が嘘のように明るい笑みを浮かべ、地に手をついて身を乗り出す。
「ラクサス!今日は、オレの誕生日なんだぞ!」
「だから、知ってるってんだろ」
期待したように見上げてくるナツに、ラクサスはあきらめた様に幼い頭を撫でてやる。
「よかったな」
想像していたのとは違う言葉が送られ、ナツは首をかしげた。
「こういう時は、おめでとうって言うんだぞ」
ラクサスが、乱れた桜色の髪から手を離した。不思議そうに首をかしげていたナツだったが、すぐに嬉しそうな笑みを浮かべて、ラクサスを見上げる。
「なぁ、ラクサス歌うめーんだろ」
ナツと反対側ラクサスの隣に置かれているのは、ラクサスが持ち歩いているギターケース。中身は一年ほど使っているエレキギター。趣味で、まれに休日になると野外ライブなどをやっていたりもするのだ。
下手だとは思っていないが、己の事で、はっきり上手いと言うのは自信過剰ではないか。ラクサスが無言のままでいると、ナツが瞳を輝かせた。
「オレ、ラクサスの歌聞きてぇ!な、いいだろ!」
せがむナツにラクサスは鬱陶しげに顔を歪めたが、拒否してもナツは引かない事は分かっているし、今日多少触れた後の手入れはまだだったのだ。手入れの後なら要望など聞く気はなかったのだが、仕方がない。
「一曲だ」
「おう!」
ナツが嬉しそうに返事をすると、ラクサスはケースからギターを取り出した。期待で目を輝かせるナツの視線を感じながら、ギターを抱え、弦をはじく。
夕暮れ時の河川敷でギターを奏でながら歌詞を紡ぐなど、青春ドラマのようだ。そんな事を実際にやっている事に多少寒いものを感じながらも、隣で目を閉じて聞き入っているナツを見ると、途中で止める気にはならなかった。
路上ライブで、客が群がってきたり、世間で美人だと称されるだろう女性に声を掛けられても、今の様な気持ちにはならないだろう。
頬を撫でる風が心地よく、穏やかだ。こんなにも、自然に想いがこみ上げる事は滅多にない。調子がいい、この時が好ましい、そう素直に思える。
たかが数分の調べは、すぐに終わりを告げた。ギターの余韻を耳に感じていると、腕に微かにかかる重み。隣へと首をひねれば、目を閉じたままのナツがラクサスにもたれかかっていた。
「……寝てやがる」
自分から聞きたいと言ったくせに、完全に熟睡していた。規則正しい呼吸と、そのたびに微かに動く肩。泣き疲れたのだろう。
ラクサスはギターをケースに片づけると立ち上がった。寄りかかっていたナツの身体は、支えをなくして倒れ込む。その衝撃でも目を覚ます様子はない。
ラクサスはナツの腕を掴み、人形のようにぐったりとしているナツの身体を背負った。ギターケースを手に取り、草の茂る斜面から、堤防の上へと足を踏み入れる。
夕暮れ時でも、結構な人通りがある場所だ。ナツと、ナツを背負って歩くラクサスは兄弟に見えるのだろう、微笑ましいような視線が向けられる。そんな視線を鬱陶しく感じながらも、ラクサスは普段よりも遅い速度で歩みを進めていった。
暖かい体温。ゆりかごの中にいる様に揺れる体。この感覚は似ていた。安心できた父親の背中だ。
ゆっくりと開いたナツの瞳に映ったのは、炎のような赤ではなく橙色だった。誰だろう、そう思ったのは一瞬だった。耳に装着している珍しい形のヘッドホンが誰かを教えているからだ。橙色は、金髪が夕焼けに染まっていただけだったのだ。
父親でない事は残念なはずなのに、伝わってくる体温に安心できる。そのせいか再び目蓋が重くなってきた。半分夢の中に足を踏み入れながらも、ナツは自分を背負う男の名を呼んだ。
「ラクサス……」
「起きたんなら、自分で歩け」
降ろそうとするが、ナツはラクサスの肩にしがみついたままで、もごもご言いはじめた。半分眠っているのだろう、途切れながら幼い声が、ラクサスの耳に届く。
「オレ……お前のうた、すき……」
ナツの言葉に、ラクサスは微かに目を見開いた。ほんの数秒動きが停止している間に、ナツは再び眠りについてしまった。
ラクサスは溜息をつくと、緩めていた腕に再度力を込めた。落とさないようにと抱えなおして、足をゆっくり動かしはじめる。
「ガキのクセに」
歌の違いなど分かるものか。大体、ちゃんと聞いていたのかも怪しい。
皮肉めいた言葉を内心呟きながらも、わずかに上がった体温を隠せはしない。それも全て、背中から伝わる子供特有の体温のせいだと理由を付けて、ラクサスは帰路へと急いだ。
いつもよりも速度が遅かったせいか、寮へとたどり着いたころには、日が暮れていた。玄関へとたどり着けば、慌ただしい足音が近づいてきた。
「ラクサス!ナツを見なかったか!」
慌てた様子のエルザが駆け寄ってきた。ラクサスに背負われているナツに気付くと、驚いたように目を見開いた後、強張っていた表情を緩ませた。
「一緒だったのか」
「途中で拾っただけだ」
総出でナツの捜索をしていたようだ。エルザが声をかけると、蟻がたかって来るように集まりだした。一気に騒がしくなる中、エルザがナツの顔を覗き込んだ。泣いてそのままだったナツの目がはれている。
「泣いたのか」
エルザの言葉に、ミラジェーンが頬を緩ませた。
「かわいいなぁ」
「もう、ミラ姉!ナツが泣いたのって、あたし達のせいでしょ」
目を伏せるリサーナ。ナツが誕生日を楽しみにしていたのは知っていた。それでも、知らない振りをしていたのだ。その時の寂しそうな表情は目に焼きついてはなれない。
「それより、どうするんだ?ナツが寝てるんじゃ意味ないだろ」
ミラジェーンの言葉に、リサーナは食堂へと視線を向けた。玄関近くにある食堂。ラクサスもつられる様に、開いた扉から中へと視線を向ける。
食堂には、紙で作った輪をつなげた飾りなどで、いつもよりも明るくなっていた。少し不器用さが見えるそれが、微笑ましくさえ感じる。
「ナツの誕生会だ。内緒で準備していたんだが、それがナツに誤解させる結果となってしまった」
施設のみんなで協力して準備をした。学校から急いで帰宅して、ケーキも手作りだ。内緒にして驚かせるつもりだったのだ。だが、飾りつけも終えてナツの帰宅を待ったが、門限を過ぎても帰ってはこなかった。それほど、幼い心を傷つけたという事だ。
「仕方がない、眠らせてやった方がいいな。ラクサス、ナツを部屋に連れてってやってくれ」
残念だという声がいくつも聞こえる。ナツが喜ぶ姿を想像して、準備したのだろう。本人に悟られないように。でもそれが、今回はあだとなったわけだが。
他の者たちが食堂へと入って行き、廊下にはラクサスと背負われたままのナツだけとなった。先ほどまで騒がしく感じた廊下は静かになり、扉越しの食堂はにぎわいを見せる。
ラクサスは背負っていたナツを床に下ろした。腰を落とし、座った状態で寄りかかりながらも眠り続けるナツの体を揺さぶる。しかし、それだけでは起きない。
「飯食いっぱぐれるぞ」
飯と言う単語に反応したナツが身じろいだ。すぐに瞳が開かれる。
「……おぉ、らくひゃす」
おはよー。
のんきに、欠伸をしながら挨拶してくるナツの頭を、ラクサスは乱暴に撫でてやる。
「さっさと食堂行け」
「お、そっか!飯か!」
ぱちりと音がするほどに目が開く。完全に目が覚めたようで、嬉々として立ち上がると食堂の扉に手を伸ばした。だが、開こうとした手は背後から聞こえる足音に気が付いて止まってしまった。振り返れば、ラクサスが背を向けて歩いている。
「ラクサス、おまえ飯食わねーのか?」
「疲れてんだよ。風呂入って寝る」
遠ざかっていくラクサスに、ナツは、ふーんと呟いて、笑みを浮かべた。
「ラクサス、ありがとな!」
ナツが食堂へと入っていく。扉が閉じてすぐに先ほどよりもさらに賑やかになった。楽しそうな笑い声は廊下に響き渡り、ラクサスの部屋にまで届くほどだった。
ナツを招き入れた食堂は、寂しさを吹き飛ばしたように明るくなった。
「ナツ、誕生日おめでとう!」
いくつも声が重なって、祝いの言葉はナツへとふりかかり、それが徐々に心に沁み込む。入り切れなかった分が、代わりとなって涙があふれ出す。ナツは目元をこすると、にっと笑みを浮かべた。
「ありがとな!」
ナツが生まれた事を祝う歌を皆が歌った。ナツの好物が夕飯として出され、ミラジェーンとエルフマンの手作りケーキには年の数のキャンドル。
「エルザ!ケーキもう一個くれ!」
すでに切り分けられた自分の分のケーキは、皿の上で半分ほどかけている。せがむようなナツの声に、エルザは苦笑した。
「今日は誕生日だから特別だ。だが、食べるなら明日にしろ。冷蔵庫に入れておく」
「オレのじゃねーよ。ラクサスの分だ」
「ラクサスの分はちゃんと用意するから心配するな」
「どれがラクサスのだ?」
不在者の分も含めて数人分切れ分けてあるケーキ。名前でも書いてあるわけでもないから、誰のというわけではない。
「今皿にとってやる」
「じゃぁ、これ!この一番でかいやつくれよ!」
若干大きめに切り分けられた物が一つあった。目ざとく見つけたナツがそれを指差すと、エルザは要望のままに皿に移してやる。
ラップをかけようとする前に、ナツがケーキに手を伸ばした。すぐに離れた手に、エルザは瞬きを繰り返してケーキを見つめた。
「……ナツ、これは」
「へへ、ラクサスにやるんだ」
照れたように笑みを浮かべたナツ。ケーキの上には、ナツの名前が書かれたチョコでできたプレート。ホールのケーキに一つしか付かない誕生日プレートは、誕生主にもらう権利があるのだ。
最初はナツのケーキに乗っかっていたのだが、それは本日の主役の意志で移されてしまった。
「喜ぶかな」
ケーキを見つめるナツをエルザは眩しそうに目を細めて、ケーキがつぶれない様に優しくラップをかけた。
「ああ、きっと喜ぶ」
ナツはラップのかけられた皿を手に取った。
「ナツ?」
「明日だと他のやつらに食べられちゃうかも知れねーから、ラクサスに渡してくる!」
誰もそんな食い意地張ってない。加えて、ナツがそこまで気を使っているのに、それを無駄にするような者がいるものか。しかし、誰かが止める前に、ナツは食堂を出て行ってしまった。
「ラクサス!」
ノックもなしに開いた扉。ラクサスの部屋なのだが、部屋の主はいなかった。風呂に入ると言っていたのを思いだして、ナツは残念そうに口元をゆがめた。
他人の部屋でも気にすることなくずかずかと入り、机の上にケーキの乗った皿をおいた。
「ありがとな」
一年で一番幸せな日。その始まりの言葉をくれた事が嬉しかった。そして、眠っている自分を起こして、幸せへと導いてくれたことが。
ナツは微かに頬を紅色させて、ラクサスの部屋を後にした。
数分後、風呂から戻ったラクサスが、自室の机の上に置かれたケーキに気付いて小さく噴出した。
丁寧にラップが掛けられているのに、フォークも何も付いていない。
「素手で食えって事か?」
珍しく笑みを浮かべた。それは本人さえも気づく事はない、幼い幸せの日を終える少し前だった。
次の年から、いつもよりも早く目が覚めたナツが、ラクサスの部屋に忍び込むようになるのだが、それはまた別の話だ。
幸せの日を始める、その言葉を、ラクサスがくれるとナツは信じているのだろう。これから先も、ずっと。
2010,07,02