傷口と
靄がかりながらも、鮮明に脳裏をよぎるのは、桃色。一般的に想像されやすい色彩よりも、桜色と称した方がしっくりくる、その色が頭から離れない。
それは、森で倒れていた少年を見つけてから、ずっと。
目を覚ましたラクサスは、台所で喉の渇きを癒やしていた。
「おはよう」
声の方へと振り返れば、同じ屋根の下で暮らしているキルシェが立っていた。
手慣れた様子でエプロンを身に付けながら、ラクサスを見上げる。
「今日は早いのね」
ラクサスが目を覚ますには早い時間だった。
キルシェが細い首を傾げれば、長い髪が揺れた。淡い桃色。どちらかと言えば白に近いような色だ。ミルクにわずかな果汁を落としたような落ち着いた桃色。
肩にかかっているそれに、ラクサスの手が伸びる。骨ばった指に、長い髪が絡んだ。
「ど、どうしたの?」
ラクサスの行動に、キルシェが微かに頬を紅色させた。
無意識の行動だったのだろう、ラクサスはキルシェの声に我に返り手を離した。手の中からすり抜ける桃色を目で追いながら、目を細める。
「ラクサスさん?」
「何でもない」
ラクサスは拳を握りしめながら、目をそらした。意識していないのかもしれないが、ラクサスの眉にはしわが寄っている。何かを堪えるような表情。
キルシェも自然と不安そうに顔を歪めていた。
「そういや」
思い出したようなラクサスの声に、キルシェは慌てて、何?と問う。
「キルシェ、今日は牧場に行くんじゃないのか」
「……あ、やだ、そうだった!」
キルシェは身に付けたばかりのエプロンを外しながら、慌ただしく部屋をかけ周る。
キルシェ達が暮らしている村では、金銭での物の売り買いは、ほとんど行っていない。街へと仕入れや買い入れをする以外は、物々交換や手伝いなどで、成り立っているのだ。
キルシェが牧場に行くのも、バターや牛乳を譲って貰う代わりに、手伝いをするのだ。
「ごめんなさい、ラクサスさん。食事の準備している時間が……」
「いいから早く行け。じいさんが心配する」
牧場を営んでいるのは大分年を老いている男性で、キルシェを孫娘のように可愛がっている。いつも時間に正確な彼女が遅れれば心配してしまうだろう。
ラクサスの言葉に苦笑して、キルシェは扉に手をかけた。開けば陽の光が彼女を照らす。外へと踏み出そうとした足は思いとどまるように止まった。振り返ったキルシェの顔が、くすぐったそうな笑みを浮かべている。
「ラクサスさん、楽しそうね。ナツ君が来たからかしら」
まるで、兄弟みたい。
楽しそうに告げて出ていったキルシェ。扉が閉じて陽の光が遮られても、ラクサスはその場に立ちつくしたままだった。
「楽しい?」
自分では気が付かなかった。楽しいのかと、そう問われれば否定はできない。でも、それだけではないような気がするのだ。
昨夜、ラクサスはナツと共に木の実を採りに森へと入った。一時目を離したすきにナツが姿を消した、その時の焦燥感は己でも異常だと思えるほどだった。
出会って数日とはいえ子供に何かあったら目覚めが悪いだろうが、己の中ではそれだけではないような気がした。
「何か引っかかる」
ラクサスは前髪をかきあげた。
ナツの髪。つい目を奪われてしまうような桜色。色でいうならキルシェの髪の色こそ美しいと称するはずだ。村でも、彼女の髪に憧れを抱いている女性は多い。
それなのに、昨夜ナツの髪に触れた指は、まるで熱を持っていくようだった。今朝キルシェの髪に触れた時とは、全く違う感覚。
「何なんだ、いったい……」
「よー」
欠伸のまじった声。ラクサスは溺れかかっていた思考から一気に抜け出した。
目の前には、寝起きのナツの姿。まだ眠いのだろう目をこすっている。
「キルシェは、まだ寝てんのか?」
仕方ねぇなぁ、と続けるナツに、ラクサスはいやと首を振るう。
「あいつは牧場に行ってる。朝飯は今用意するから待ってろ」
ラクサスの手がナツの頭へと伸びる。まるで、それが当り前のようにナツの頭を撫でようとしていた。
指先をかすめる感触に我に返り、ラクサスは紛らすように拳を握りしめた。
「ラクサス?」
きょとんとするナツから目をそらせて、ラクサスは台所へと足を向けた。強く握りしめた拳。力を込めなければ、触れた指先に意識してしまう。
台所へたどり着くと、ラクサスは深くため息をついて心を落ち着かせた。
暫くして、一定で響く包丁の叩く音。空腹を誘うような匂いが部屋にただよい始めた。その匂いにナツの腹が空腹を訴える。昨晩の食事から、口に入れた物といえば催眠効果のある木の実数粒だ。もちろん食事にも間食にも入らないそれが、腹の足しになっているわけがない。
「うまそーだな」
待ち切れずに、ナツが台所へと足を踏み入れる。包丁を持って野菜を切るラクサスの隣に立ち、湯気を立てる鍋へと顔を近づけた。
「危ねぇから、向こう行ってろ」
「おー、いい匂い」
ラクサスの言葉など聞いていないようで、ナツは匂いを嗅いでいる。まるで犬を思わせるようなその動作に、ラクサスも微かに笑みを浮かべた。
少年とくくられるとはいえ、ナツ程の年齢ならば働く者も大勢いる。わざわざ注意するような事でもないだろう。そう思い直し手元へと視線を落とした。
「あっち!」
鍋の中を覗き込もうとしたのだろう。鍋の蓋を開けようとしたナツは、指から伝わる熱に、蓋を取り落としてしまった。蓋の落下する音とナツの声に、ラクサスは弾かれるように顔を向けた。
「、バカ……ッ!」
咄嗟に注意がそれた瞬間、自身の指にも鋭い痛みが走った。包丁で指を切ったのだとすぐに理解したが、先にナツの方へと意識を向けた。
「だから、向こうに行けって言ったろ」
ラクサスは手にしていた包丁と野菜を手放し、傷の負っていない方の手でナツの手を取った。
「こ、この位なんともねぇよ」
「いいから冷やせ」
ナツの手を無理やり蛇口へと引っぱり、水を勢いよく出す。ナツの手が流水で冷やされていく。大した痛手はなかったのだ。熱していた鍋の蓋に少し触れてしまっただけで冷やすほどでもない。
不満気に唇をとがらせながらもナツは甘んじて受け入れていた。
流れる水を眺めていたナツの視線が、不自然な赤へとそれる。ナツへと意識が向いていてラクサス自身も忘れているのだろう、指からは血が流れている。
「お、おい」
ラクサスが、ナツの手を水から離した。ナツの手は、水で濡れている以外に異常は見られない。ラクサスは小さく息をついた。
「飯できるまで、近づくなよ」
ナツの手をタオルで拭こうとするラクサス。その手を、ナツが強引にとった。もちろん、指先を赤く染めている方の手だ。
やはり忘れていたのだろう。目を見開くラクサスが言葉を失ったのはすぐだった。ナツが、赤く染まる指を口でくわえたのだ。傷を負っていることに対してなのか、口に広がる鉄の味に対してなのか、ナツの顔を顰められている。
吸われるような感覚と、生暖かい舌が触れる感触。目の前で行われる行為に、ラクサスは生唾を飲んだ。
「……これで治るな」
指を解放したナツが満足げに呟く。
ナツの行動はまれに野生的に感じる行動がある。それの延長で、多少の傷は舐めればいいという考えもあるのだろう。唾液には消毒の作用があるのは間違いではないが、通常他人の傷を舐めると言う事はない。
舐めただけで傷がふさがるわけではない。傷口から再び血が滲みでてくると、ナツは再び口を開いた。
「あが?」
指を口に含む寸前で、指を引きぬかれた。口を開いたまま見上げてくるナツに、ラクサスは耐える様に顔を顰める。
「き、たねぇ事すんじゃねぇ」
ラクサスは蛇口から水を出して、ナツに舐められていた指を、流れ出る水にあてた。
「何すんだ!せっかく治してやったのに!」
「舐めただけで治るわけねぇだろ。お前は向こうに行ってろ」
ナツとしては怪我したラクサスを心配しての行動。それはラクサスにも分かっている事なのだが。
このままでは食事をとれなくなると思ったのだろう。文句を言いながらも台所から離れていくナツを視界から外して、ラクサスは脱力した身体を調理台に預けた。
「……何考えてんだ、あいつ」
流水にあてられていた指を眺める。流水から外しても血は出ない。近くで見ても目立たない傷。
ぼんやりと傷跡を見つめていると、頭に軽い痛みが走た。ちりちりと焼けつくような痛み。
――――いてて、切っちまった
目の前で映像が流れたように、脳裏に浮かぶ。今よりも幼い姿のナツが、顔を顰めて自らの手を見つめている。
「……ナツ?何だ、今のは……」
まるで、焼ききれた映像フィルムを無理やり再生しているようだ。目蓋を閉じた暗闇に映し出される光景。頭痛が激しくなっていく。
ラクサスは頭を抱えると、その場に膝をついた――――
『いてて、切っちまった』
妖精の尻尾のギルド内、毎度の如くナツとグレイは、言い合いから殴り合いの喧嘩に発展していた。しかし、いつもよりも過激だったらしく、グレイに吹っ飛ばされたナツの身体はテーブルを巻き込んだ。
テーブルに乗っていたグラスが割れて、床に破片が散らばる。それに気付かずに手をついてしまったナツの手には赤い線が出来ていた。鋭い破片で切れた皮膚はじくりと痛む。
『怪我をしたのか?』
落ちてきた声にナツはびくりと体を震わせた。ゆっくりと顔を上げれば声の主が確認できる。エルザが心配げに顔を歪めている。しかし、エルザの怖さを知っているナツだ、先ほどまでグレイと喧嘩していたのもあって後ろめたさがある。
ナツは怪我している手を後ろに回した。
『け、怪我なんかしてねぇよ』
『嘘をつくな。さぁ、怒らないから見せてみろ』
手を差し出すエルザに、ナツは立ち上がると逃げる様に駆け出した。
『ナツ!』
エルザの慌てたような声にもナツは耳を傾ける事なく、ギルドを出て行ってしまった。
『……私が何かしたか?』
エルザの呟きに周囲は何か言えるわけもなく、ただ視線が合わぬように目をそらせる。その中で今まで無関心だった一人だけが、ゆっくりとした足取りでギルドを出ていった。
ギルドを飛び出したナツは公園へと逃げ込んだ。誰にも見つからないようにと茂みに身を隠すと、血の流れる手のひらを見つめた。
『このぐらい、ほっといても治るよな』
すでに乾いて赤黒くなっている部分もあるが、傷口からは新しく血が流れ出ている。ナツは傷口に舌で触れた。
『何してんだ』
背後からかけられた声に驚いて、出していた舌を噛んでしまった。
振り返れば、先ほどまでギルドにいたはずのラクサスが、訝しげにナツを見下ろしている。
『ひ、ひょぉ、あくはふ』
舌の痛みに涙を浮かべているナツ。その痛みのおかげで手の怪我の事を忘れ、いつものように、よう、と手を上げてしまったのだ。
向けられた手のひら。赤く染まっているそれに、ラクサスは顔をしかめた。その手首を取り、強引に引っ張る。
『怪我してやがったか』
やはりといった表情に、ナツはぎくりと顔を強張らせ気まずそうに目をそらす。
『ちょっと切っただけだ』
ちょっとではない、思ったより深い傷だ。手のひらを見ると陽の光に反射されて傷口に光るものが見えた。ラクサスは迷わず傷口に唇を寄せる。
『ら、ラクサス!なにす、ッ』
痛みに顔を顰めるナツに構うことなく、傷口に舌を伝わせる。舌先で傷口を探る様にえぐり、口づけるように吸う。ナツが声を押し殺して痛みに耐えていると、ラクサスは傷口から唇を離した。
顔をそむけて、地に向かって小さく吐き出す。光が反射して輝く小さなそれが、地に落ちた。切った時に破片が傷口に潜り込んでいたのだ。
『……ガラスで切ったか』
睨まれたナツは無意識に目をそらせ、ちげーよ、と続けた。
『わ、割れたビンだ』
『どっちも同じだ』
傷口に破片が入っていれば、普通の傷よりも痛みは増すし、治るわけもない。
『もういいだろ!手はなせよ』
不機嫌そうに口元を歪めるナツとは逆に、ラクサスは口端を吊り上げた。
『この位なら、俺が治してやる』
『お前、なに言って……ん!』
傷口にラクサスの唇が触れる。舌で傷口をつつきながら、窺うように視線をずらせば、ナツの赤い顔が目に入った。乾いた血を舐めとるように傷口周辺を舐めれば、ナツは身体をびくりと震わせる。
傷の部分は敏感になっているのだ。その周辺となれば痛みよりも、むず痒いような微妙な刺激になるだろう。
ラクサスはナツの手を逃さないように掴んでいた手に力を込めた。ナツの力ではびくともしない。
ナツの瞳が泣きだしそうに潤むのを確認すると、ラクサスは最後に傷口に口づけを落とした。
ナツは荒くなった呼吸を整えながらラクサスを睨みつける。
『何すんだよ!きたねーだろ!』
『唾液は消毒になるんだよ。知らねぇのか?』
睨んでいるつもりだろうが、涙で潤んでいる瞳では迫力などない。
さらりと言いのけるラクサスに、ナツは瞬きを繰り返した。
『そうなのか?』
嘘ではないのだが、ナツは全く疑いもしていないようだ。こんなにも信じやすくていいのだろうかと、半ば呆れてしまう。
ナツは己の手のひらをまじまじと見つめた。傷口は残ってはいるが、出血はほとんど止まっている。ナツは感心したように、すげぇと声を漏らした。
『じゃぁ、ラクサスが怪我した時はオレがなめてやるな!』
顔を上げたナツの表情は無邪気な笑顔だった―――――
「ラクサス?」
目が覚めたばかりの状態と似ている。妙にリアルに聞こえた声に顔を上げれば、そこにはナツが立っていた。ぼうっとその姿を見ていたラクサスの身体は、力が抜けた様に傾く。
「お、おい!ラクサス!」
駆け寄ってくるナツの声と足が遠くに聞こえる。ラクサスは視界が霞みながらも、求めるようにナツへと視線を向けた。
「ナツ……」
薄れる意識内でも、桜色だけは鮮明に映っていた。
2010,08,01