夜遅くに目が覚めてしまった。もう一度目を瞑ってみるものの眠気はやってこず、小さく溜息をついてから身体を起こす。眠気はないもののぼんやりしている意識を覚醒させようと、目を擦りながら静まり返った館をあてもなくうろうろとする。ふと廊下の奥から洩れている光が目に付き、普段あまり人のよりつかない部屋を覗き込むと何やら熱心に手元を動かしている囚人の姿があった。今日は一日彼の姿を見ていなかったな、と改めて思いつつ足を踏み入れれば、囚人は顔を手元から上げずに声をかけてきた。
「悪いけどそこに散らばっている紙取ってもらえないかな」
いま手が離せないんだと付け加える彼はおそらく誰が入ってきたのかなんてどうでもいい事なのだろう。足元に散らばった紙に目を通せばよく分からない数式や図が書き殴られていた。数枚の紙を拾い上げて囚人の近くに置いてやるとそこでようやく誰が来たのかを確認するように顔を上げる。
「なまえだったのか」
意外だったようで驚いた表情を浮かべる囚人だったが、その口は嬉しそうに緩められる。
「もし眠れないならこの部屋に居てくれないか?」
そろそろ話し相手が欲しくなってなと瞳をきゅうと細めながら呟く。あてもなく館をうろうろとするのは嫌だったので大人しく横に腰を下ろすと囚人はもう一度こちらに視線を向けて先程と同じように笑みを向けてくる。
「なに」
「いや、なんとなく見たくなっただけだよ。こうして一日中部屋にひとりで居ると誰でもいいから人間を見たくなるものさ」
「…ルカって言わなくていいことまで言っちゃうのが玉に瑕だよね」
冷ややかな視線を向ければ、犬歯をみせてうははと笑う囚人。よく言えば裏表のあまりない人間なのだと捉えられるけれど、もしこれが初対面の人間だったとしたら嫌煙されてしまってもおかしくない。直す気は無いようで、この類の注意は三度目になる。
「なまえがこうして話し相手になってくれるなら私はそれで満足なんだよ」
だからいいだろう?このままでもと言いたげに首を傾げる。その態度になまえは肩を小さく落としてしまう。
「ルカの見ている世界は小さいよ、僕はもっと他の人と交流をもって広い世界を見てほしい。いざというときに助けてくれるのは発明じゃなくて人間なんだからさ」
そう思わず伝えてしまうと囚人は露骨に嫌な表情を浮かべてなまえを見やる。しまった、と彼の止まってしまった手元に視線を泳がせてしまう。何か言わなきゃと思考を巡らすけれど上手い言い訳が出てこないまま開きかけた口を噤んでしまう。すると囚人は少し困ったように自身の首元に手を添えた。
「なまえってたまに痛いところつくよね」
明らかに沈んでいる彼の声色を聞き、胸のあたりが重くなる。しかし次の瞬間、囚人は下げていた口角をきゅと上げてなまえの所作なく動いている手をつかむ。
「でも、もし私がそういうことになってしまったらなまえが助けてくれるだろう?」
「え?」
「私が誰かにそそのかされて悪い方向に行ってしまいそうになったらなまえが教えてくれるだけでいいんだ。自分のことだけは気づけないんだよ、昔から」
あまり自分に関心がないと昔、囚人が言っていたのを思い出す。一日中部屋に籠って何も食べなかったり、変則的な生活をしていると誰かに指摘された時にそう答えていたのだ。今もその生活は改善されることはなく続いている。つまり、今もなお自分自身への興味は全く無いのだろう。
「そんこと言われても、ずっとルカのこと見てるわけじゃないし。難しいこと言わないでよ」
「なまえがずっと私のそばにいれば簡単なことだろう?」
さも当然かのように呟いた囚人に一瞬反応が遅れてしまった。なまえが知る限り、彼は冗談をいう性格ではない。
「それ本気で言ってるの?」
「ああ、至って本気だよ。なまえがそばにいても何故だか気が散らないからね」
どうせなら部屋もひとつにしてしまおうかと提案してくる囚人に思わず首を振ってしまう。しかし彼はなまえの反応などおかまいなしに部屋の配置を考えるようにぶつぶつと独り言をつぶやきはじめていた。