05


 ヤグルマの森の終わり、木々のトンネルを抜けた先。一気に拓けた光景に、思わず感嘆が漏れた。

「わあ……!」

 雲一つない蒼穹を背に、海峡を飛び越え視界いっぱいに続く巨大な橋。鈍色の塔が二本、空と海の異なる青を縫い留めるように悠然と聳え立ち、塔と塔の頂上付近は中空で繋がってもう一つの橋を形成しているようにも見える。遥か先にも鏡合わせのように同じ形の塔が建てられ、二対の塔の間を太い強固なワイヤーが結んでいた。そして視界の果て、橋の辿り着く先に待ち受けるのは、ひしめき合って林立する高層ビルの群れ。
 四本の主塔で支えられたスカイアローブリッジは、イッシュ地方最大最長の橋として名高い。いや実のところ、イッシュ地方どころか世界でも最大級の吊り橋だという。ガイドブックの写真だけでもなかなか壮観だったが、いざ実際に訪れてみると写真よりもずっと迫力があって圧倒された。当時の最先端技術とポケモン達の力が惜しみなく注がれた橋は、建築に興味がない私でも嘆息してしまうほどの魅力を備えていた。頭上のエアレスは何も言わないが、ほう、と静かに息を吐いたのが聞こえたあたり、私と同じ感動を私より静かに味わってくれているのだろう。
 ゲート前の広場で手摺りに身を乗り出し、呆気に取られて橋を見上げていたが、今からこの足であれを渡るのだ。そう思うと居ても立ってもいられず、足早に橋へ続くゲートを通り抜けた。長い長い階段と緩やかなカーブを描く坂を登りきれば、より大きさを増した橋が足元からまっすぐに伸びていた。潮風が髪や服を持ち上げ揺らす。
 橋、海、空、波音に風、海の匂い、遠くに見える摩天楼。

「すごい、すごいよ、この景色! 皆も出てきて!」

 せっかくだから、皆にもボール越しではなく直接この景色を感じてもらいたい、この気持ちを共有したい。そんな思いから恭煌と武己のボールを放り上げれば、眩い光が黒と朱、白と青のどこか対照的な色合いの彼らを形作った。

『……!』

 この巨大な建造物を前に、流石の恭煌も圧倒されたのか目を見開いて呆然としていた。彼の低い目線ではあまり遠くまで見えないかもしれないが、その分この橋を構成する要素全てが、私よりも大きく映り込んでいるはずだ。いつも反応の薄い恭煌の珍しい姿にくすりと笑みを零すと、ハッとしてすぐ仏頂面に戻ってしまった。それでも周りが気になるのか、耳と鼻が小刻みに動いている。
 ――少し、心配していた。森での出来事で、恭煌が何かしら引きずらないかと。けれど微塵も陰は感じられなくて、それなら私も触れずにいよう。
 一方、武己は興味深そうに橋を見回した後、進む先ではなく背後へと視線を落ち着けた。釣られて私も振り返る。
 眼下には様々な色合いの緑を塗り重ねた、もう一つの海原が静かに広がっていた。午後の日差しをたっぷりと浴びて瑞々しく輝く森は、一体のダゲキが旅立っても何ら変わりなく、昨日と同じ姿でただそこにある。私が同じ方を見ている事に気づくと、武己は森の際、木々が疎らになった辺りを指した。

『今まであの辺りまでは来た事あります。でも、海を越えるのは初めてです。自分、ほとんど森から出た事ないんですよ。たまにシッポウシティ辺りまで修業に行ったりしたくらいで……』

 少し照れくさそうに笑って、武己は再び橋へ、その先へと目線を上げていく。明白な期待と希望を宿した眼差しに、こっそりちらついた不安の色は、私が旅立った時を思い出させた。今まで遠出の域だったカラクサタウンの、更にその先へエアレスと一緒に進んだ日。故郷の森をずっと後に、見知らぬ世界へ足を踏み出した時の高揚も、燻った微かな郷愁も、全部覚えている。

「不安?」
『とんでもない! 自分の意思でシロアさんについて行くって決めたんです! 不安なんてこれっぽちも……』
「本当は?」
『……後悔はしてません。でも、知らない世界でやっていける自信が、完璧にあるわけじゃない、です』

 真面目で一生懸命な武己の事だ、不安を感じた己を恥じているのかもしれない。でも、同じように森で育ち外の世界に旅立った私が、ここまで来れたんだ。

「私も旅に出るまで、狭い世界しか知らなかったの。知識だって本やテレビで見たものばっかりで、体験した事の方が少なかった。自分で望んで決めた旅なのに、不安もホームシックもあったし、実際大変な目に遭ったりもしたけど……でも、旅に出て良かったって思える事の方がずっと多かったよ。一緒に支えてくれる仲間だっているしね」
『自覚があるようで感心だ。その通り、私がいなければ今よりももっと残念な主になっていただろうな。全く、世話の焼ける下僕を持つと苦労する』
『オレはテメェを仲間だと思った覚えはねェな』
「ちょっと空気読んでよ!」

 これは酷い。良い感じの雰囲気を作ったのに台無しだ。
 武己は目をぱちぱちさせて口を開きかけたものの、結局何も言えずに呑み込んだ。フリーダムな二体のせいで、言おうとした言葉が霧散してしまったのだろう。けれど、吹き飛ばされたのは言葉だけではなかったようだ。ほんの少し顔つきを変えた武己は、『ありがとうございます』とシンプルな一言に纏めた。

「じゃあ、行こうか。このまま歩く?」
「はい! ヒトの姿にも慣れておきたいですし」

 頷いて擬人化した武己は、もう一度だけヤグルマの森を振り返ってからゆっくり歩き出した。
 私は足元に目を向ける。答えは予想がつくが、念のため恭煌にも聞いておこう。

「恭煌は?」
『……オレもこのままでいい』
「だよね戻っ……ん?」

 面倒だから戻る、なんて言われると思って既にボールに手をかけていたのに。
 ひたすらにまっすぐな橋は、まばらに人影が見えるものの誰も彼も遠い。人間嫌いな恭煌が歩くのに支障はなさそうだけれど。

『偶には歩きてぇ気分にもなるんだよ、文句あんのか』
「ないです!」

 フンと鼻を鳴らして恭煌は走っていった。武己を追い越し、少し距離を取ってから速度を落とす。これ以上距離が開く前にと私も足を踏み出した。驚いたけれど、悪い事じゃない。今は、皆と渡れるこの時を楽しもう。
 皆と連れ立ってスカイアローブリッジを行く。橋は二層構造になっていた。私達がいる道が歩行者通路、下は自動車専用道だ。手摺りに寄りかかり覗き込めば、カラフルなコンテナを積んだトラックが何台も通り過ぎていった。
 遮るものの無い橋の上、日差しは眩しいが温度の低い風が心地良い。時折強い風が吹けば、両脇の鋼鉄のワイヤーがゆっくりとしなり軋む音を立てた。

「エアレス、ボールに戻る?」

 風に飛ばされないか、という心配もあるが、葉っぱの尾を持つエアレスに潮風は不快だろう。塩を振りかけたサラダのように、しなしなになったら大変だ。

『戻りたければ自分で戻れる。この方が見晴らしがいいのでな。さあ、キビキビと歩け主、日が暮れるぞ』

 いつもの調子で尻尾で背中をはたかれた。ハリのある衝撃は全くしなびているとは思えない、むしろ日差しを浴びて調子が良さそうだ。心配して損した。
 不意に、ボーと低く長い音が大気を震わせた。びっくりして足を止め、何の音だろうと辺りを見回す。恭煌も聞き慣れない音に警戒している様子だったが、意外にも武己は落ち着いていた。

「ヤグルマの森でも時々聞こえてましたよ。この音は――」
『主、右下だ』

 エアレスが武己を遮り橋の下を見るよう促した。……促した、というのは綺麗な表現で、具体的には私の髪を掴んで操縦するように下へ向けたのだが。文句を言おうとしたが、そのおかげで目に入ったものに抗議する意思は吸われてしまった。
 船だ。それも何十、何百人と乗れそうな大きな船。さっきの低い音は船の汽笛だったらしい。実際に聞くのは初めてで、これも旅に出なければ体験できなかった事だろう。
 船は波間を白く砕きながら悠々と近づいてきて、ちょうど私達の真下へ潜り込む。急いで反対側の手摺りに向かい見下ろすと、もう先端が顔を出していた。近づいてくる時はゆっくりに見えるのに、実際にはかなりのスピードで進んでいるようだ。
 泡立つ軌跡を残して蒼海を征く船。あの船はどんな人やポケモン達を乗せて、どこに行くのだろう。武己と同じように故郷を旅立ったのかもしれないし、反対に故郷へ帰るのかもしれない。遠ざかる船の後ろ姿を見送りながら想いを馳せた。
 その後も、海面を跳ねるケイコウオを見つけたり、飛んでいくスワンナの群れを眺めたり、自動車道を走るトラックの中に、イワパレスの引っ越し屋やチョロネコヤマトの宅配便など、私が知っているロゴマークを発見したりと、小さな楽しみを見つけては飽きずに橋を進んでいた。
 真ん中あたりへ差し掛かった時だった。

『聞かねェのかよ』
「え、何が?」

 唐突に、まるでさっきまでの話の続きのように恭煌が問いかけてきて、目を瞬かせながら聞き返してしまった。先を歩いていた恭煌は顔だけで振り返り、紅い瞳を細めた。

『Nの野朗の事。オレの事。聞かねェのか』

 やっぱり、森での出来事を何も気にしていないはずがなかった。触れずにいたが、向こうからアクションを起こされたなら話は別だ。慎重に、けれど正直に言葉を紡ぐ。

「うーん……聞きたくないって言ったら嘘になるかな。でも、話す気がないのに無理に聞き出そうとは思えないよ。だから、いつか恭煌が話してもいいって思ってくれるように頑張るね」

 知りたいというのは真実だ。しかし、聞いても答えてくれるほど関係が縮まっているとは言えないし、簡単に話せるほど軽々しいものではないのもまた真実だろう。恭煌が本心から、私になら伝えるに値すると判断してくれる日が来ると信じて待つしかない。
 私の反応が正しかったかはわからないが、恭煌は再び前を向いてこの話題を終わらせた。一瞬だけ、その横顔が少しだけ穏やかなものに見えたのは気のせいだろうか。

「そう言えばエアレスの昔の話も聞いてなかったね……」

 過去の話といえば。エアレスは私の前にトレーナーがいたと本人からも聞いたし、そもそも名前をつけたのが以前のトレーナーだ。今となってはすっかり馴染んでいるので名前について不満はないが。前のトレーナーがどんな人だったのか、どんな旅をしたのか、何故研究所へ戻ったのか。詳しい話はまだ知らない。

『……別に隠しておくつもりはない。今すぐにでも話してやってもいいが……』
「いいが?」

 言い淀んだエアレスに立ち止まり、ごくりと唾を呑み込んだ。何か引っかかる部分があるのだろうか。無意識に見上げたが、真上にいるエアレスの表情が見えるはずもない。ぱたり、尻尾が振られた。

『話すより今は絶景を堪能しながら寛ぎたい気分だ。ほら、足が止まっているぞ、主』
「あいたっ! もー、私の緊張返して!」

 せかすようにお尻を蔓で叩かれて、抗議すればくつくつと楽しげな笑い声が降ってくる。エアレスなりに気を使って流されたのか、本当にただの気分なのかはわからないが、結局エアレスの過去についても何か得られるものはなかった。
 皆の全てを知っているわけではないけれど、それでも一緒にいられる今を、私は素直に楽しいと思える。だから、今はこれでいいんだ。


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