04


 悠久の時を息づく森が夢見た、束の間の幻影だったのではないか。そう思えるほどに、Nさんがいた形跡はあやふやで。私一人ならば、先ほどの出来事が現実かどうか疑ってしまうかもしれない。

『あのNとやら……救うだの数式だのと捲し立てて、挙句世界を変えるだと? 妙な言葉ばかり並べて、何が目的だ?』

 だけど、私は一人じゃない。エアレスは訝しげに零し、苛立ったように尻尾を大きく打ちつけた。もちろんそのダメージは全て私の背中へ注がれるのだけれど、今はその重みが、夢ではないという何よりの証明だった。そして、同じ出来事を見聞きしたもうひとり。

「恭煌。本当に行かなくてよかったんだね?」

 Nさんが去った方を、尚も睨み続けている恭煌に声をかける。振り返った恭煌の紅い瞳は、悲しみも動揺も鎮まり、いつもの鋭さを取り戻していた。

『あ゛? テメェはオレを厄介払いしたいってか』
「そ、そんな事ない! まだ私といてくれるんだって、ほっとして……」
『勘違いするな、最悪な中からマシな方を選んだだけだ。あの緑野郎も、前にジムリーダーとかいう奴の飼い犬になりかけた時もそうだ。どっちか選ぶって時は、テメェ以外にロクな選択肢がねェ』
「うぅ……」

 容赦なく斬り捨てられた。消去法でも納得するしかないと思いかけたところで、はたと気づく。
 私以外の選択肢……最初に恭煌を仲間にしようとした時の選択肢は、炎タイプのエキスパートでジムリーダーのポッドさん。当時ドのつく新米トレーナー(今はドは取れたと思いたい)だった私よりも、ずっと恭煌に適した環境や、望むなら強く鍛えられる場を用意できたはずだ。今回のNさんだって、私と同じくポケモンの言葉がわかり、私より恭煌の事情を知っていて、単純に比較するなら私が上回れるような要素はない。どう考えても、ロクな選択肢にしか思えないのだけど。

「ロクな選択肢、って例えばどんな?」
『……は?』

 聞き返されるとは思っていなかったのか、恭煌が固まった。完全に静止した恭煌の答えが纏まるのを待つ、数秒。私から飛び降りたエアレスの着地する軽い足音が聞こえた。

『うっるせェ、腐ってもトレーナーならテメェが考えて用意しろ!』
「みぎゃあぁぁっ!?」

 答えの代わりに悪の波動が吐き出された。咄嗟に横に倒れこむようにして逃げる。悪の波動は私の後ろの梢をぶっ飛ばし、湖周辺の日当たり面積をほんの少し増やすのに貢献した。手加減したとは到底思えない威力に顔が引きつる。

『主はわざと攻撃されるように仕向けるのが趣味なのだな。では、私もこれから気兼ねなく主の嗜好に付き合ってやろう』
「そんな危険な趣味ないから気兼ねして!」

 見事な危機察知能力で私から飛び降りていたエアレスの、恐ろしい発言に更に顔が引きつった。素朴な疑問を口にしただけなのに、どうしてこうなってしまうのか。Nさんは過去に恭煌と関わりがあったようだが、こんな風に攻撃されたりしたんだろうか、なんて現実逃避じみた考えが浮かぶくらいこの先が恐ろしい。
 自業自得だとばかりに鼻を鳴らす恭煌だが、まだ気が済んでいないようでいつにも増して不機嫌そうだ。しかし恭煌の視線はすぐに逸らされた。Nさんが去った方向から、またしても足音が聞こえてきたのだ。それもさっきより音が大きく、接近するスピードも速い。「彼と話をしなきゃ」と言ったNさんの声が耳の奥で響く。
 後数秒で足音が到達する時、迎え撃つかのように恭煌が茂みに飛び込んだ。

『うわーっ!?』
「武己!?」

 予想に反して、聞こえた悲鳴は馴染みのある声で。茂みから転がり出てきた武己の頭には、しっかりと恭煌が食らいついている。恭煌は武己の動きに合わせて牙を離し、何事もなかったかのように着地した。

『今度はテメェかよ。紛らわしいマネしやがって』
『自分が何したっていうんだよ!? あっ、シロアさん、何があったんですか? すごい音がしたんで、急いできたんですが』

 武己は湖の縁でへたり込んでいる私に、心配そうな目を向けた。理不尽に攻撃された事より私の心配をしてくれるあたり、私の武己への評価は留まるところを知らない。そしてそのすごい音の原因は知らん顔をして後足で頭をかいている。

「さっきの音は心配しないで……おかえり、武己。何か、見た?」

 同じ方角だったから、もしかしたらNさんや、Nさんの言う“彼”とすれ違っていたかもしれない。恭煌との関わりばかりに意識が向いていたけれど、それを抜きにしたってNさんの行動や発言には謎が多い。また会いそうな気がすると意味深に言われたのもあり、何かしらの情報が得られないか聞いてみた。

『何か? いや、自分はこの場では恭煌とシロアさんしか見てませんが……痛ってぇ!』

 ばしん、首を傾げた武己に見慣れた蔓の鞭が振り下ろされた。予期せぬ攻撃に尻餅をついた武己は蔓の発生源を指す。

『いきなり何すんだよエアレス!』
『うむ、今私も見えたな。よろしい』
『……うっそだろお前』

 蔓を戻したエアレスが、満足した様子で頷いた。まさかとは思うが、武己が挙げたこの場で見た人物の中に自分が入っていないから攻撃したのか、いやエアレスはそのまさかを平然とやってしまう性格だった。恨めしそうにエアレスを見た武己は、そのまま視線をずらして私を見つめた。

『シロアさん。自分、何か悪い事したんですかね……?』
「大丈夫、武己はなんにも悪くないよ」

 普通に戻ってきただけで踏んだり蹴ったり(噛んだり打ったり)な目に遭ってしまった武己は涙目だ。武己と同じ立場にいる私としては珍しくなくなってしまった光景だが、客観的に見るとなるほど、とても可哀想だ。育て屋の前で私とエアレスと恭煌とのやり取りを見たチェレンが、顔を引き攣らせていたのを思い出す。
 慰めの言葉をかけてみたが、この先、私も武己もこの立ち位置から脱却できないんだろうなぁ、という予感が頭から離れない。



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