03


 私とエアレスが異変を感じたのは同時だった。

「エアレス!」
『わかっている!』

 エアレスに呼びかけながら飛び起きて、先に走り出していた緑色の背を追う。向かうは湖畔の空き地。既に恭煌が威嚇する声が聞こえている。
 空き地に戻ると、一足先に到着していたエアレスが恭煌と同じ方を睨み身構えていた。ここまでくれば私にもその理由を感じ取れた。森の奥から、茂みを揺らす気配がどんどん近づいてくるのだ。戻ってきた武己でも、通りすがりの野生のポケモンでもなさそうだ。でなければ彼らがここまで警戒するはずがない。十中八九、人間だ。ポケモンを探しに来た、ただのトレーナーだろうか? しかしプラズマ団の泥棒事件からまだ日が経っていない今、こんな道から遠く外れた場所まで来る人間が全て良い人間だという保証はない。目を凝らしてみても繁茂した低木の枝葉に遮られて、全く見通しが利かない。緊張だけが高まっていく。
 ぱきりと小枝を踏み折る音と共に、茂みが大きく揺れて気配の主が姿を現した。

『……ッ!』

 瞬間、恭煌の威嚇が途切れた。相手を凝視したまま前に倒していた耳を跳ねさせ、一歩後退る。動揺――そう、動揺だ。しかし現れた人物に心がざわついたのは恭煌だけではなかった。
 不意に風が吹き抜ける。風は湖面を撫でつけ、木々を揺らし、見覚えのある鮮やかな萌黄色の髪をなびかせた。
 カラクサタウンで出会った、底知れない信念を抱えた不思議な青年。ポケモンをトモダチと呼び、私と同じく原型ポケモンの言葉がわかる人間、Nさんの姿がそこにはあった。Nさんは青緑色の瞳を見開き、まっすぐ恭煌を見つめていた。彼もまた、驚いているらしいのが伝わってくる。
 Nさんと過去に面識がある、とは以前恭煌が漏らしていたが、その詳細は不明なままだ。無理に聞き出すようなものではないと、記憶の片隅に留めながらもずっと触れずにいた。カラクサタウンの近くでゲーチスさんの演説の前後に接触していたのでは、と推測していたけれど。二人の様子を見るに、ほんの一度関わっただけというような浅い関係ではなさそうだった。

「キミはあのデルビルじゃないか。可哀想に、まだ傷が癒えていないんだろう。ボクの所に戻っておいで、他のトモダチも待っているよ。きっとキミも助けてあげるから」

 驚愕に見開いていた目をすぐ柔らかく細めたNさんは、私の存在など全く無視してしゃがみ、両手を広げた。――浅い関係どころではない。Nさんは明らかに、私の知らない恭煌の過去を知っている。
 知りたくてもまだ踏み込めずにいる相手がいて、その相手を自分よりもよく知っている人物が現れるというのは、あまり居心地のいいものではなかった。寂しさと、羨ましさと、悔しさ、それでも仕方ないという諦め。確か恭煌がNさんの話をした時、向けられた同情を吐き気がすると切り捨てていた。それは裏を返せば、同情を向けるに足る事情をNさんが知っているという事なのだ。恭煌がひとりでに離脱したりはしないと信じていたが、私よりも彼を理解している相手が現れた今、その自信が揺らいでしまった。もしここで恭煌がNさんの所に戻る選択をしたら、私は、引き留められるだろうか。ついさっきだって、呼び止めるのを躊躇ってしまったというのに。私とNさんの視線が焦点を結ぶ先で、恭煌が動いた。
 私の不安を踏み潰すように、恭煌はNさんとは逆方向――私の足元まで歩いてきた。何も言わずに私に一瞥を寄越した後、Nさんに向き直って唸った。

『失せろ。同情と綺麗事ばかりのテメェより、間抜けで泥臭いこいつの方がまだマシだ』
「それって褒……イツッ」

 頭に走った小さくも鋭利な痛みに、私の言葉は中断された。反射的に頭にやった手は、慣れ親しんだ鱗に触れる。

『気をつけろ、主』

 さっきの刺激は、いつの間にか頭に乗ってきたエアレスが髪の毛を引き抜いた痛みだった。顔を寄せたエアレスが囁いた意味を理解して、慌てて口を結ぶ。つい自然に反応してしまうところだったが、まだNさんには私が原型ポケモンと話せる事を知らせていない、知られていいものか判断できていないのだ。エアレスの機転のおかげでNさんに私の能力がバレずに済んだ……と思いたいが、他のやり方はなかったのか。エアレスめ、ハゲたらどうしてくれるんだ。

「キミは……?」

 恭煌の姿を目で追ったNさんは、今初めて私の存在に気づいたらしかった。恭煌に向けていた微笑みは砂に吸い込まれた水滴のように消え、無表情のまま僅かに首を傾げる。

「そうだ、確か一度会ったね。ツタージャの……トレーナー、だったか」
「私の名前はシロアです、Nさん」

 能力は伏せておきたいが、名前を名乗るくらいは問題ないだろう。私が一方的に知っているだけではフェアではない。Nさんは足元の恭煌と、頭上のエアレスを経てから、何かを見極めるかのように私を打ち眺めた。

「ふうん……シロアというのか。ツタージャも、デルビルも……キミは形こそ彼らのトレーナーのようだけれど、その在り方も関係性も既存の数式には当てはまらないようだね。興味深いよ、キミ達のような不確定要素を解き明かせれば、世界を変える数式の完成に近づけるかもしれない……」
「Nさんは、どうしてここに来たんですか。もしかして、恭煌を……デルビルを連れ戻しに?」

 早口に繋がっていく言葉は、難解で正直私には理解できない。しかも私に言っているというよりは、自分に向けて思考を確認しているようだった。若干の罪悪感を持ちつつも、どこまで続くかわからない思索を遮って声をかけた。私が恭煌の名前を呼んだ瞬間、Nさんは眉を潜めた。名前をつける行為を好ましく思わない、その考えは変わっていないみたいだ。

「……いいや、彼にここで出会ったのは偶然だ。本当はボクが救うべきだけれど、デルビル自身がキミを選んだ。ボクはトモダチの考えを尊重するよ。そしてトモダチに免じて特別に教えてあげよう。ボクはね、この森にいるとあるポケモンとトモダチになりに来たんだ」

 Nさんは光の無い、けれど確固たる意志を宿した瞳を私に向けた。ここで初めて、私はNさんと“目が合った”と感じた。ポケモンをトモダチとし人間に対して何処か棘のあるNさんが、人間である私を個として認識したのだ。それが良い事であると思いたいが、Nさんの真意は読み取れない。

「ああ、彼と話をしなきゃ。じゃあねシロア。キミとはまた会いそうな気がするよ」

 そう言い残して、Nさんが踵を返した瞬間。森の奥から、ごう、と音を立てて突風が吹きつけた。湖を渡ったというのに湿度を含まない、清々しくも鋭い風だ。乾いた風と巻き上げられた大量の草葉から目を守ろうと、無意識に目蓋を硬く閉じる。束の間の暗幕の向こう、風の奥に凛とした声を聞いた気がした。或いは、常緑を渡り去ってゆく風の唸りに過ぎなかったのだろうか?
 私が目を閉じていた時間はほんの僅かだった。けれど、次に森と湖の風景を映した視界の中に、Nさんの姿はもうなかった。


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