03
私は、駄目なトレーナーかもしれない。エアレスの忠告も無視して、見限られてしまうかもしれない。
「やめて!」
それでも、もう限界だった。口は塞がれていないのを良い事に、私は声を張り上げた。大声に驚いて緩んだ蔓を振り切り、デルビルに駆け寄ろうとして。
かつり、ヒールがタイルを打つ、ただそれだけの音が私の動きを止めてしまった。目と鼻の先で銀糸が揺れる。指の先まで動かないのに、心臓の音だけが激しさを増す。
あっという間に距離を詰めてきたビショップに、行く手を阻まれていた。
「あら、可愛い子ねぇ。迷子かしら? ここは危ないから、お帰りなさいな」
ビショップの口元が弧を描く。整った顔立ちの微笑みに、得体の知れない何かを感じて怖気が走った。外見はどう見ても人間なのに、滲み出る魂が明らかに人間ではない。相手が人間でない事に、こんな恐怖を感じたのは初めてだった。
「……デルビルを、放して」
だけどもう退く事はできない。目を逸らしたいのを必死に抑えて、逃げ出そうとする足を必死に叱って、震える声で、どうにか絞り出した。ビショップは軽く首を傾げて、笑みを深めた。
「困ったわ。わたし達、見られてたのね。ねぇボス、どうする? 人間みたいだけどやっちゃう? やっちゃうわよ」
ボスに確認しているようでいて、実質ただの宣言だった。返答を待たずにビショップは動いた。ぐっと腕が伸びてきて、抱き寄せられる。思わず上げた悲鳴は声になっていなくて、まるで自分の喉から出たものじゃないみたいだ。
頭の後ろに長い指を備えた手を添えられて、上を向かされる。至近距離で、ビショップのぞっとするほど深い孔雀石色の瞳と視線がかち合った。
ぐわんと、地面ごと大きく揺らいだような感覚。耳鳴りがして、頭に霞がかかったようにぼんやりとしてくる。
駄目だ、気をしっかり持たなきゃ、助けなきゃいけないのに……待って、誰を、助ける? 私、そもそもなんでここにいるんだっけ。
『主!』
エアレスの声が遠い。……どうして、そんな必死なんだろう。何か、あったんだろうか。考えようとしても、上手く、纏まらないし、何より面倒だ。二度寝の時みたいな、魅力的な眠気に、ゆっくり、ゆっくり、沈む。
「シロア!」
「――!」
今一度、はっきりと名前を呼ばれて、我に返った。途端に目の前の存在に気づき、思いっきり突き飛ばす。私が抵抗するのが予想外だったのか、あっさりと腕は解かれた。けれど問題は私の方である。姿勢と体格の関係か、突き飛ばしたビショップは少しふらついただけで、私の方が大きく後ろに倒れる形となったのだ。硬いコンクリートに叩きつけられるのに備えて、息を詰める。
「……あれ?」
衝撃は襲ってこなかった。代わりにしっかりと支えられ、踏み留まっている。肩を抱いた手は、原型の時よりもいくらか大きい。
「この馬鹿主めが」
私を受け止めたのは、擬人化したエアレスだった。そういえばさっき名前を呼ばれた時も、鳴き声の混ざらない、クリアな声だった。名前……私を「主」と呼ぶエアレスが、名前で呼んでくれた?
いや、今はそんな事を考えている暇はない。自分の足で立ち上がり前を向けば、ビショップが綺麗な顔を歪めて私を睨んでいた。笑顔と同じく、いや隠しもしない敵意を向けられている分、笑顔よりも怖い。だけど不思議な事に、逃げ出したくなる衝動は沸いてこなかった。きっと、すぐ傍にエアレスがいてくれるからだ。
「せっかく女の子だから手加減してあげたのに、気に入らないわね。潰すわ」
私に向かって一歩を踏み出すビショップ。足元を絡め取るような薄暗い敵意に身震いして、バトルを覚悟した。けれど、それ以上の行動を起こす前に、ボスがビショップの腕を掴んだ。
「やめておけビショップ。少し騒ぎ過ぎたらしい。……全く、今日は邪魔ばかり入るな」
ボスは静かに言い、私の後ろを睨む。エアレスでもなく、更に後ろを見据えている。邪魔って一体なんだろう。私の他にも誰かがいるって事?
次の瞬間、蹄の音と共に閃光が弾けた。
『オラオラ、お前ら悪い奴だな! ぶっ飛ばしてやるぜっ!』
私の前に飛び出したのは、黒い身体に白い稲妻模様が走るポケモン。四つの脚で、しっかりと地面を踏み締めるシママだった。絶え間なく鬣から電気を飛ばし、少しも怯む素振りを見せない。
「おーいシロア!」
「よし雷霆、そのまま見張ってろ!」
次いで聞き馴染みのある声が二つ、慌ただしい足音と共に駆けてきた。廃屋の陰から現れた声の主に、こんな状況にも関わらず笑みが浮かぶ。
「チェレン! トウヤ!」
「シロア、メンドーな事に巻き込まれたみたいだね。僕のマメパトをサンヨウシティまで飛ばしたよ。彼は擬人化できるからね、事情を伝えればすぐ応援が来る」
眼鏡を押し上げ、私の隣に立つチェレン。トウヤはシママの隣に並び、いつでも指示を出せるように身構えた。雷霆、と名前をつけているから、このシママはトウヤのポケモンなんだ。
形勢逆転、私達三人を前に、ボスは焦る……ような事もなかった。ただ、私達を見回して鬱陶しそうに舌打ちした。
「お子様共と遊んでやるのは訳無いが、応援が来ると厄介だ。今回は退くぞ、ビショップ」
「……命拾いしたわね、小娘」
ビショップはもう一度私を睨んでから、手にした何かを地面に叩きつけた。真っ黒な煙が広がり、視界を覆い尽くす。
「あっ、待てよ!」
『逃げるんじゃねー卑怯者!』
トウヤと雷霆の制止を素直に聞き入れるはずもなく、トウヤだって本当に待つとは思っていないだろう。何も見えない中、唯一頼りになる聴覚が音を拾う。大きな羽音だ。羽音はたちまち遠ざかり、張り詰めていた空気が消えていった。
煙が晴れた頃には、二人の姿は跡形も無かった。代わりに彼らが立っていた場所に、水色と黒色が蹲っている。そうだ、デルビルは! 申し訳ないけど、取り残されたヒヤップについては後回しだ。
「デルビル! 今助けるから」
絡みつく網を引っ張り、持ち上げ、なんとかして外す。途端にデルビルは飛び起き――呻きながら崩れ落ちた。
「その脚……!」
庇うように内側に縮められた前脚が、不自然なカーブを描いている。
折れ、てる。
ショッキングな光景に息が止まった。ポケモンは人間よりもずっと頑丈な生き物だ。普通のバトルなら、ここまでの重症なんてそうそうならない。
『触んじゃねぇ、テメェも、殺す……!』
口の端から血を滲ませ、凄みのある声を張り上げるデルビル。昨日、私に襲い掛かってきた時よりも、遥かに強い殺気だった。せっかく昨日の夜、ほんの少しとはいえ話を聞いてもらう事ができたのに。ハンターに傷つけられたせいで、デルビルの閉ざされた心が、元通りどころか悪化してしまった。
ポケモンと同じで、人間にも良い人と悪い人がいる。人間全てがポケモンを傷つけるわけじゃない。昨日伝えた事が、デルビルの中で嘘になってしまう。
デルビルは折れた前脚を持ち上げたまま、ゆらりと立ち上がる。苦しげに咳き込んだかと思えば、どす黒い血を吐いた。
「無理しちゃ駄目だって!」
『うる、せぇ……オレに近づくな……!』
デルビルはふらつきながら背を向け、無事な方の脚を踏み出した。
考えるよりも先に、身体が勝手に動いた。昨日感じた、憎悪に燃えて燃え尽きて、消えてしまうのではという不安。このまま行かせれば、不安は必ず現実のものになる。安らぎを知らず、或いは忘れたまま、独りきりで果てるなんて、そんなの辛過ぎる。
「待って!」
両腕で抱き締めるようにデルビルを捕まえた。傷に触らないよう、できる限り気をつけたつもりだったけど、どこに触れても痛むのかデルビルが呻いた。
『離せ!』
「離さない! このままだとあなた死んじゃう……ぐっ、」
腕に鋭い痛みが走った。デルビルの牙が食い込み、血が溢れ出す。痛い、だけど、このボロボロのデルビルの痛みに比べたらきっと何倍もマシなのだ。意地でも離さない。
エアレスが私の肩を掴んで揺さぶった。
「主、いい加減にしろ。貴様がそこまでする理由はない。こいつは貴様とは何の関係もない――」
「あるよ! ここまで関わったのに、関係ないなんてない!」
エアレスに見限られたくはない、でも、これだけは譲れない。叫ぶように言い返していると、ふと痛みが和らいだ。見れば、私に噛み付いたまま、デルビルは気を失っていた。
「シロア、大丈夫か!」
トウヤが駆け寄ってくる。デルビルの剣幕に押され、動けなかったのか。
「大丈夫じゃないだろう。ベルとは別方面で無茶するねシロアは……」
「うん、ごめん……でも、じっとできなかった」
呆れた口調のチェレンだけど、心配そうな表情を隠せていない。安心させようと笑って見せたけど、チェレンの眉間の皺が増えただけだった。
「私の事は気にしない! 早くポケモンセンターに連れて行かないと……」
でも、どうやって連れて行けばいいだろう。少し触れただけで苦しそうにするし、前脚も折れている。もしかしたら、他の部分も見た目以上の怪我を負っているかもしれない。下手に動かして、傷が悪化するような事があったら大変だ。
「ボールに入れるべきだ。安静にして運ぶには、それが一番だ」
チェレンの言葉にはっとした。確かに、モンスターボールに入れれば、ポケモンの負担を最小限に抑えられるらしい。けれどそれは、気絶したデルビルに断りもなく、勝手にゲットするという事になる。目覚めたデルビルは怒るだろう。もしかしたら、私がハンターと同じものとして見られてしまうかもしれない。
「……そうだね。ごめん、デルビル」
だけど、他の方法はなかった。空のモンスターボールを取り出し、デルビルにそっと当てる。体力も限界なのか、一切揺れずに静かになったボールを握りしめて……腕がずきりと痛む。反射的にボールを取り落とし、傷を押さえた手の平が、一瞬で赤く染まった。……これ、ちょっとまずいのでは。
「っていうか、シロアも早く治療しないと!」
「やっぱり、そうだよね……イタイすごくイタイ」
気が抜けたのか、自分を構えとばかりに噛まれた傷がじくじくと痛みを訴える。結構深く牙が刺さっていたのか、血が溢れて止まらない。あまりの痛さに涙が出てきた。
「当たり前だろばかシロア!」
トウヤが声を荒げた。私を心配して怒ってくれたのはわかっているので、反省しかない。
「こいつの言う通りだ馬鹿間抜け後先考えない阿呆」
重ねてエアレスにも言われたが、何故だろう、こっちは素直に反省できない。むしろ私を馬鹿にする機会を逃さないという強い意志を感じるぞ。
エアレスの蔓が伸びてきて、腕の付け根に巻き付いた。かと思えばぎりぎり締め上げられて、追加の痛みに本気で泣いた。
「ぎぇぇぇ痛ぁぁい」
「止血だ。我慢しろ、礼を言え主」
「ありがとうございますエアレス様もうちょっと緩めて欲しいだだだ」
そうこうしている内に、サイレンの音が聞こえてきた。木々の間からマメパトが現れ、着地するや否や飛行帽を被った少年の姿になる。少年はチェレンに向き直り、ビシッと敬礼した。
「お待たせしました師匠! ジュンサーさんをお連れしました!」
「アンフェザント、ありがとう」
「いえ、師匠のお役に立つのは当然です!」
もはや、腕全体が痺れて痛い以外の感覚がない。チェレンとマメパト、アンフェザントとのやり取りも、涙で歪んではっきりとは見えていないのだ。
アンフェザントに続いて、何人かのジュンサーさんとそのポケモン達がやってきた。通報したマメパトのトレーナーという事で、チェレンに事情聴取が始まる中、一人のジュンサーさんに声をかけられた。
「酷い傷……乗りなさい、ポケモンセンターまで連れて行きます! 後は我々に任せてください」
有無を言わせずサイドカーに乗せられた私は、サンヨウシティに戻る事になったのだった。