No.00


 天は咽び泣き、風は逃げ惑い、雷の怒声に大地は怯え震える。篠突く雨が世界を幻へ塗り変えていく。そう、彼は確かに幻だった。
 泥濘みの中で尚、力強く地を蹴り上げる四肢。眼差しは迷いを捨て、只管に薄闇の中を見据えていた。
 まだだ、まだ足りない。もっと遠くへ行かなければ。彼が元々住んでいた場所まで連れて行く事も考えたが、仲間のポケモンはともかく彼女が環境の変化に耐えられるかはわからない。駄目だ。あの場所から遠く離れ、安全で、穏やかに過ごせる地を探さなければならなかった。幻である彼は人間の世界に疎かったが、全ての条件を満たす場所にたったひとつ心当たりがあった。
 彼女を生かし未来へ繋げる事。それが彼の使命。彼が唯一主と認め、仕え、愛した人間。主の最期の願いを無碍にするわけにはいかない。
 山肌が抉れ、巨大な一枚岩がひさしのように迫り出した洞が見えた。彼は速度を落とし、洞へ滑り込む。避難していた野生のポケモンが既に何体かいたが、彼の力を本能的に感じ取ったのか遠巻きに眺めるだけだった。
 彼はずっと咥えていた大きなバスケットを置き、鼻先でそっと分厚い布を押し上げた。布の上から彼の力で包んでいたとは言え、嵐と疾駆に晒された中の様子がずっと気がかりだった。
 彼女は静かに眠っていた。濡れる事もなく、穏やかに寝息を立てている。五つのモンスターボールがセットされたベルトを、その小さな手に握りしめて。一つは彼の、残り四つは傷ついた彼の仲間のボール。亡きトレーナーとの絆の証。
 雨音が風音がどこか遠く、それは無垢な静寂と深い悲哀に彩られた一枚の絵のように。彼は悲しげに顔を歪めた後、彼女を起こさないように布で覆い直した。
 雨脚は激しくなるばかりだった。仲間のポケモンだけでなく、彼も戦いで酷く傷ついていた。その後に碌に休息も取らないままここまで駆けてきたのだ。傷は痛み、体力もかなり消耗している。天候と体力の回復を待って、目的地へ向かおう。身体を横たえ、目を閉じた。

「いたぞ! ×××××だ!」

 風雨の奥から人間の声。彼はすぐさま跳ね起き、バスケットを咥えた。完全に引き離したと思っていたのに、どうやら運命は彼に束の間の安息すら与えるつもりはないらしい。
 彼は再び嵐の中へ躍り出た。走りながら、ちらりと背後を振り返る。初めの追手とは別の人間のようだった。偶然この近辺にいた追手の仲間に、偶然見つかってしまったのだ。更に偶然、彼らは足の速いポケモンを従えていたらしい。ゼブライカに乗った彼らの仲間は、つかず離れずの距離を保ち追い縋る。更に追手の仲間を呼ばれてしまったら。消耗した彼が彼女を守りながら逃げ切れる確率は限りなく低くなる。ただ逃げ続けるだけでは駄目だった。
 何か手立てはないかと思考を巡らす彼の頭上で、一際大きな稲光が弾けた。直後、追手のゼブライカでさえ驚き嘶くほどの轟音が響き渡った。
 視界を灼き耳を劈く迅雷は、彼の脳裏にとある考えを導いた。
 今一度四肢に力を込め、彼は速度を上げた。地を踏み締め泥を跳ね飛ばし、雨を切り裂いて進む先には切り立った崖。

「まさか! やめろ!」

 追手の悲鳴は雨音に押し潰される。次の瞬間、彼は崖から身を投げた。続く稲妻が、落下する彼のシルエットを虚空に染め抜く。そのまま気の遠くなるような遥か谷底へ、彼は呑み込まれた。

「×××××が!」
「自棄になったのか……この高さでは、奴はもう……」

 呆然と追手は雨に煙る崖下を見つめた。銀幕の向こうへ、彼の命は隠されてしまった。この嵐の中で崖下へ降り死体を確かめるなどと、危険で気の滅入る作業はしたくもないし、そこまでの義理はない。彼を追い捕まえるようにとしか聞いていないのだ。もう追手ではなくなった彼らは立ち去る他なかった。
 けれど、彼らは知らなかった。彼は幻であり、人知を超えた力を秘めた偉大な獣である。谷底の彼はバスケットを咥え直し、疲弊した身体に鞭打って遠くへ遠くへと走り続けた。




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