まだあの人が俺を拾いたての時の記憶がある。それはバカなりに生きてた俺でもわりと衝撃的で、はっきり覚えていたりする。 記憶の底に埋もれた断片を拾い上げて、幾度も焦がれた。 今でも。 これからも。 きっと、ずっとその先も。 松下村塾の庭には花が咲く木があり、まるでソコだけを守るように咲いていた。 春の匂いなんて知らないけど、きっと春の匂いってこんな匂いなんだろう。 強かで生命力に満ちたその木を縁側からずっと眺めていたら、あの人は隣に腰を下ろした。脚を折って着崩さないよう丁寧に座る。一挙一動、思わず見とれてしまった。しかし、俺はぱっとあわてて目をそらす。なんだか見てはならないものを見ている気がした。紛らすように口を開く。 「ねェ。この木、なんていう名前?」 足をぷらぷらしながら木を指差す。 「桜という名ですよ。ある子のお父様がぜひ植えたいと申し出て下さったので植えたんですよ。綺麗でしょう」 ああ、たしかに綺麗だ。 淡い桃色が縁側までばらまかれる。いまにも破れてしまいそうな花びらを一枚とって、上下左右からじっくり見てみる。「さくら…」 さくら。 さくら、 さくら、さくら。 決して声には出さずに反芻する。気づけば初めて物を覚えようとしている自分がいる。俺は差し出された教科書を読むより、この人の話を聞くほうが好きだ。 暖かい日の光に花びらを透かして見てみる。 ―――――まぶしい。 さっき言ったさくらって、花びらとか枝も全部を含めてさくらっていうのかな。……わかんないや。 今度は日を浴びながら目を閉じて、花びらから漂う匂いを吸い込む。 ふいに横からくすっとのどで笑う声が耳をかすめる。目を一度開いてじとっと睨む。 「……なに笑ってんの」 「ふふ、銀時は素直でやさしいですね」 「………どこがだよ…」 聞き慣れない言葉にどう返事をすればいいか皆目検討もつかず、最後の返答は口許でぽしょぽしょ言うだけに終わった。 この人の話の意図がぜんぜんわからない。いったい俺のどこらへんが素直でやさしいんだ。たださくらって知ったあとに花びらの匂いをかいだだけじゃん。 それでも耳のはしがわずかに熱を持っているのを知りながら、うつむく。 こういうのは、どうしていいかわからない。 ……知らない。 この気持ちを紛らすことも、顔を持ち上げることすらもできず、ただ足をぶらぶらする。行ったり来たりを繰り返す。 松陽は気づいているんだろうか。俺の考えていることを。知っているんだろうか。この気持ちの紛らす方法を。聞きたい。聞いてみたい。けれど、できるわけない。恥ずかしくて。 俺は黙ったまま春に身を寄せていた。絹のような髪を風に靡かせた松陽も、さくらを見続けたまま口を閉じていた。 先に穏やかな空間を切ったのは松陽だった。 「私はあなたのことが好きですよ」 落ち着きを払い、それでも変わらない凛とした声音。ゆっくりと鼓膜が吸い込んで脳へ、そして全身に響く。息を、呑んだ。 「な…っ!なに言ってんだよ!」 いきおいよく顔をあげたせいで、松陽の穏やかな瞳と俺の瞳がぶつかる。赤くなった頬を隠すことなどできないけれど、もう一度うつむいてしまおうと瞳を伏せる。 なにより、この人の目を見て話すなど、できない。 「……嘘つき……」 本気で言ってないくせに。きっと同じ言葉を他の子にも言って信用させてきたんだ。だからあんなに慕われているんだ。俺の考えている松陽とはきっと違う。 「嘘ではありませんよ。わたしは銀時に人を完全に信用しろとは言いません。あなたにはあなたなりの過去がありますからね。しかし、これは嘘ではありませんよ」 瞳を揺らして伏せた目を起こす。 「…………」 この人の目を見ていると、ひどく幸せなような、逆に罪悪感に苛まれるような気持ちに襲われる。ただこの人を見るだけで、中に潜む鬼神がすっ、と消えるのだ。消えるのが正しいのか、消えずに居座り続けるのが幸せなのか。よくはわからない。 神聖すぎるその人は口許に弧を描いていて、あの初めの時と同じように俺の頭を撫でる。 「誰が決めたことか、わたしが決めたのか、きみが決めてくれたのか。よくはわかりませんがね」 ただ幸せだと、銀時と共に何かを学び見つけるのはこの上ない幸福だと、偽りが見つけられない瞳でそう答えた。 幸せの理由を問うても答えてはくれない。松陽先生は幸せだと繰り返すだけだ。 ああ、頭にのせられた手が暖かいと感じるのはきっと気のせいじゃないと不確かな確信をする。 さくらが、散る春の日だった。 それは愛に満ちたひとの話 記憶の底に埋もれた断片を拾い上げて、幾度も焦がれた。 今でも。 これからも。 きっと、ずっとその先も。 >>20110201 title:花洩 BGMはスキマスイッチの奏を推奨 |