記憶の底に墜ちた | ナノ


※鯖嗣




『最小の、最低の魔力をもって臨め。私に迷惑をかけさせるな、いいな。』

召還された時に交わした会話がそれだった。マスター本人も最前線で戦地に出向くと知って、ようやく意味を理解できたがなんとも失礼な話だと衛宮は思わずにはいられない。それではまるで、闘うなと言っているようなものではないか。全くもってサーヴァントの力をなめているマスターだ、と眉間に皺を寄せずにいられない。

頭の四隅で最低の魔力で戦えという事実を知り得ておきながら、それでも意識喪失手前まで戦闘を余儀なくされていた。あの言葉が、きっと敗因。
近くに己のマスターがいなかったから結果独断で戦線を離脱した。そして今に至る。

服は破け、その隙間から赤い血液を流す己の身なりを見下ろしてぼんやりと自嘲する。体を引きずりながら額に眉を寄せて言峰邸を睨み上げるのが今の精一杯。残念ながら霊体化へ切り替えられるほど魔力は残っていなかった。


これは、言峰に怒られるだろうか。
本来ならば現界の方が魔力を削るが、霊体化すら億劫とは…。


徐脈で息も絶え絶えの中、屋敷の扉を押し開けたら今の今まで待っていたかのように、言峰が壁に寄りかかって眠っていた。
豪勢な扉の軋んだ音は室内に響いて目覚めるにはちょうどいい音量。
瞼を押しあげ横目でちらりと見る瞳はいつも通り何を考えているのかわからない。きっと怒っているのだろうなということだけはわかる。
「また随分と時間がかかったな」
「マスター…」
腕組みをして心底面倒くさそうに体勢を変えてこちらに向き直ると、ズカズカと近づいて硬直した衛宮の腕を痛いほど掴んだ。もちろん、腕から出血しているにも関わらず無造作に掴まれ、さすがの衛宮も激痛で表情を歪ませる。
「ッマスター…!ぐ、っう、離、し…」
傷口に爪を立てられているせいで振り払おうにも振り払えなかった。フローリングに血の跡を点々と残しながら問答無用でリビングまで引きずられる。
何をされるかわかったもんじゃない。そもそもこの言峰綺礼がどういう人物なのか知らないのだ。気づけばまともに会話をしたことがない。いつだって命令口調で一方的。こちらの意見を汲み取ったことなどない。僕は言峰という名前だけ知っていても、このマスターは僕の真名すら知らないのだ。知ろうともしない。興味のない、ただの人形。道具として扱うだけ。
何を考えているかなど、到底わかるものではない。
労るような素振りもなく床に放り投げられるとこれから何をされるかわからない衛宮は咄嗟にうつ伏せから仰向けになり、腰の間を跨ぐマスターを見上げた。マスターであるのに、臨戦態勢に入ろうか迷ったほど悪寒が止まない。

今ならば先ほど闘った相手より何倍も恐怖できる。尋常でない殺気の量。
わずかに殺意のこもった衛宮の視線を言峰は無視すると、ゆっくりと膝を折って屈みいちばん傷の深い太股に手を置いた。
容赦なく、確実に圧迫する。
無論、痛い。痛くてたまらない。しかしこの拷問にも等しい圧迫の意味ぐらいわかる。
――――紛れもない圧迫止血だった。
「アサシン。事態の報告をしろ」
「……っ…ぐ」
出血量が尋常ではない。フローリングを徐々に朱色で染めていくのを見下ろしてマスターに向き直った。彼に慈悲すらない。痛みに耐えるこちらを楽しむようにもみえない。ただ、見られていた。
汗が止まらない。例えるなら全身の毛穴という毛穴から汗が漏れ出しているように感じた。
息が、酸素が、足りない。
血が、
息が、
「マスター…魔力を、」
ぼやける視界の中、言峰の輪郭を捉えると震える手で弱々しく肩を掴む。しかしそれは当たり前のように振り払われ拒絶された。床に落ちる手は真っ白で血の気がない。
「アサシン」
「ま、…すた…おねが、僕は、…まだ」
「敵を殺してこなかったのか」
「…っ、…あぁ」
朧気な意識の中、マスターは落とされた片手を振り払ったくせにその振り払った手で、握り返した。しっかりと、痛くない程度の力で。そうして、一度、指に指を絡めた。
――――――何?
生暖かい感触を手にすると反射的に、そして無意識に握り返していた。それに対して言峰は、瞼を伏せ身を絞り出すような声で、一言、こう言う。

「……衛宮」

弱々しいその単語は衛宮の耳に不思議としっかり届き、思わず耳を疑う。振り払われたはずの片手は熱を帯び、じんと痺れるように痛む。だがそれどころではなかった。
なぜ、なぜ?
どうして?
「ど、して、名前、を…」
「……」
知るはずのない名前が言霊となり、部屋に響いたのは実に生々しかった。懐かしみを含むような優しげな声音に魅せられたが、それも束の間。
朧気な意識は限界でぼんやりと見つめていたら、間合いもへったくれもなく触れたのは唇だった。
ほんの一瞬の隙。
寝起き直後のような意識はすぐさま覚醒し、現実へと引き戻される。一体何事かと唇を固く結びこれでもかというほど目をぎゅっと閉じた。握られた手だけは離さないのはなぜなのか、ぼんやりと思う。
ぬるりと舌が唇を舐めるが、それでも唇を割開かない衛宮に言峰は眉を寄せ、嫌悪を露わにする。一度口を離すと舌打ちでもしそうな口調で吐き捨てた。
「魔力補給を受けたいのならば口を開け。さもないと死ぬぞ」
男に唾液を通して魔力補給を行うなど御免だが、生命をかけているならば仕方ない。
しかし、そこまでして回路を通して魔力を送りたくないのかと半ば呆れながらしぶしぶ唇を開く。
フローリングの血は止まない。
生暖かかった血液は徐々に冷めていった。

くそ……

「ん、ん、っ」
顎を傾けて見上げる形で口付ける。ちゅ、と卑猥な音に耳を塞いでしまいたかったが悠長なことは言っていられない。舌を差し出して自ら言峰の唇を割った。
甘い。ただひたすら甘い。舌から受け取る蜜の甘さは尋常ではなく、全身に易々と溶け込んでいく。まるで人間の体に必要な水分を体が拒絶せずに受け入れているのと同等だった。
太股から流れ出る血液は嘘のように、深く抉れた腕は魔法のように傷が癒えていく。それでもまだ足りなかった。
一度覚えた味を手放したくないと、マスターの腕へすがりつく。それほどまでに体力が回復していった。
「…ん、っん、は、ッぅ」
みっともないほど唇を貪っていた気がする。舌を差し出して頬裏を、歯列を、舌をなぞる。吐息すらも飲み込んで自分の細胞にしてゆく自分自身が信じられなかった。そしてそれに応えるよう、言峰も言峰で舌を擦り合わせてきたものだからたまったものじゃない。魔力を吸いすぎたのだと思う。目眩すら感じてようやく口を離した時には体がぐにゃぐにゃに柔らかくなっていた。腰は抜けて、足に力が入らずうなだれる。
俯いて乱れた呼吸を整える間も、言峰は無表情で見下ろすだけで労りなどない。
――――無情。

「助力補給だとしても事足りるのだな」
余裕のないこちらとは打って変わり、大腿の圧迫止血をしていた手を離し血液がべったりついた掌をじっくりと眺めて興味がなさそうに淡々と呟いた。すでに太股の傷は完全に塞がっている。

そしてどこまでも冷静な彼はサーヴァントを突き放す。
「さぁ、もう魔力補給はできただろう。狩り逃がした兎を狩ってこい。それが貴様の仕事だ」

道具にしか見なさない己のマスターを見上げ睨んだところでどうにもならない。反抗でもしようか迷ったがどうせこの人間には聞かないだろうと諦めた。
唇の熱は冷めない。
その煩わしい熱を手の甲でゴシゴシと拭ってみるが、意味を成すわけがなかった。
名前を呼ばれ、口を交わして魔力補給をするこの過程はただの行為でしかないはずなのに、なぜこんなにも懐かしいのか。
あらゆる問いかけを思いつくが、出てきたのは一言。

「言峰、」

名を、ただ、呼ぶ。
「貴様は私のものだ」
今にも切れてしまいそうな細い声で、僕を抱きしめる意味は果たして何なのかわからないままマスターの背に手を回し、わけのわからないその懐かしい匂いに顔を埋めた。


記憶の底に墜ちた五感だけを拾って

おかえり、愛しい人


20120420



なつきさんのリクエストでした!ありがとうございました!




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