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体育館の隅っこに座り、肩を並べて汗を拭っている途中だった。赤司の横顔を見れば、うっすらと笑顔を浮かべてまだ練習している部員を眺めていた。
いつも通りの休憩時間にいきなり聞かれる。


今見ている現実が、現実じゃないと言われたらどうする?


とりあえず、はあ?と答えといた。
なぜそんなことを聞いてきたかは深く考えないでおく。頭の良すぎるコイツの思考をオレが理解できる日なんてきっと来ないから。

聞かれたからにはまあ、とりあえず答える。
「……いや、現実だろ」
だって見えるし、触れるし、五感が現実だといっている。

「仮定の話だ」
そんなことを言われても想像し難い。
小麦色の自分の手を見て、ぐーぱーぐーぱーしてみる。これが、架空の世界だったら、と想像してみた。いや、全然想像できなかった。
「オレは現実って思ってるから、そんなことを人から言われたら信じるわけねーし、混乱するに決まってんだろ」
何を言われているか分からず眉を寄せて赤司を見つめる。赤司はこちらを見ようとしない。

「そう。それが正解」
赤司の口元がやわらかく横に伸びた。
「自分の見ていたものが、信じていたものが、人から完全に否定されると人は混乱する。今見ているものが現実なのか虚言なのか、全ての事象に対して疑心暗鬼に陥り、信じるものを見失う。そして自分自身も現実には存在していないんじゃないか、と思い至る」
青峰は黙って耳を傾けた。
何の話をしているか理解するために。
そんな青峰を察して赤司は解説を付け加えた。

「ある精神疾患の症状だ。幻覚ぐらいお前にも分かるだろう?」
「まあ、そりゃあ」
ファンタジー全開の厨二的な話をしているのかと思えば、現実の話をしていたらしい。
幻覚、と言われると知識としてはそれなりに分かるけど、体験したことなんてないから何となくしか分からない。
首を傾げる。

「手に触れるものも、目に映したものも、耳で聞いたものも、全て現実であるのに、それが人には見えない世界がお前には想像つくか?」
「は?わかんねェよ」
何が言いたいのかわからず怒りを交えて吐き捨てる。首にかけていたタオルを引っ張って口元を拭った。

そしたら、気づかないうちに赤司はこちらとの距離をつめていて、床に置いていたオレの手を握ってきた。
痛いぐらいに強く。

「っ、」
「オレも幻覚をみたことないからお前と同じで分からないけれど、幻覚という現象から脳はひどく曖昧ということだけわかる」
赤司は顔までも近づけてきた。

「青峰、もしこれが、現実じゃなかったら?」

握られる手がひどく痛い。
これ…?
赤司の言う、これ、というものがどれを指すかは分からない。
オレが現実じゃないのか。赤司が現実じゃないのか。それとも両方現実じゃないのか。

思考の波に飲み込まれる寸前、赤司が顔を傾けて唇が重なりそうになる。
「え、ちょ、……」
「脳が曖昧で人間自体が不完全であるように、好きという感情もひどく曖昧なのかもしれないな」

赤司の言葉は脳に入ってこない。

ただキスされそうなこの状況に焦って視界がぐるぐるした。薄く笑うほど余裕のある赤司は身を乗り出して青峰を壁に追いつめる。背中に当たった固い感触に逃げ場を失う。
「あ、か…し」
「うるさい、何だ」
おい、待て、待てって。
唇と唇の間に手を挟み込んで阻止するとイラついた声。
「ここ、どこか分かってんのか」
襲われる五秒前。小声で話して目をそらす。ちら、とみんなの方を見たらこちらには気づいていないようだった。いや、そんなのも時間の問題。
「体育館」
正解。つか、そんな模範解答されても困る。そーいうことじゃねェんだけど。
「周り、部員いるだろーが」
「別にいい」
「…よくねーよ」
「キスしたい」
「そんなの、二人っきりの時にいっぱいしてやるから、…」
「今がいい。したい」
いつもはキスするたびにしつこいだのヘタクソだの罵声浴びさせられっぱなしだが、やたら甘い声で積極的に誘ってくる赤司に心臓がうるさく跳ね上がる。
阻止していた手をどかされて、柔い唇が重なる。ん、ん、なんて鼻にかかるかわいい声を上げながら、赤司は夢中になって唇と舌を吸う。体育館の隅っこでイケナイことをしている状況に興奮誘われ、そのまま流されるとこちらからも舌を出す。顔を傾けて、吐息を漏らして、手を握り替えした。
また横目で部員にバレてないか見れば、目を見張る。黄瀬がこちらに向かって歩いてきた。バスケットボールを脇に抱えて汗だくの彼。

「っ、…!」

反射的に赤司の肩を押せば小柄なためか尻餅をついて後ろへ倒れる。倒れたのを労る間もなく、黄瀬にどう言い訳しようか悩んでいる間だった。
「もー青峰っち、そろそろ休憩終わりじゃないっスか?早く来ないから赤司っちが怒ってるっスよー」

え、

声が出なかった。尻餅をついている赤司はキスした唇を濡らしながら薄く笑っていて、遠くにはもう一人の怒っている赤司がいる。
黄瀬はそれだけ言うと小走りでみんなのところへ戻っていったが、追いつくための足が、動かない。思考が追いつかない。



今見ている現実が、現実じゃないと言われたらどうする?





ついさっき言われた赤司の声がもう一度、鼓膜を叩いた。




He's end that no one knows.

脳の中に生き住む彼は、己の存在を知らせて、愛の消失を願った




2013.0421

He's end that no one knows.
誰も知らない彼の末路。