執務室の扉を開け、入ってきたのは桃太郎であった。桃源郷で働く彼が閻魔殿を訪れるのは珍しい。鬼灯はその珍客の姿を一瞥し、筆を置くと、心なしか恐縮気味の彼に向かって声を掛けた。
「そんな入り口に立っていないで入ってくればいいでしょう」
静かな口調で言えば、桃太郎は弾かれたようにその場から離れ、鬼灯のすぐ前まで足を運ぶ。机を挟んで向かい合った状態になると、鬼灯は再び書類に目を落とした。
「何かご用ですか」
「あの、白澤様から書類を預かって来て」
「そうですか。ご苦労様です」
目の前の彼から差し出された紙を受け取りながら労いの言葉を掛ける。その台詞を聞き、己の手から書類が離れると同時に、書類を届けねばならぬというプレッシャーから解放されたのか、桃太郎はほうと息を付いた。表情も僅かに柔らかくなり、そのことからも、桃太郎が気を緩めたことが分かる。
それを見て、全く律儀な男だと鬼灯は内心でぼやいた。与えられた仕事を正確にこなしていくことは大切だが、桃太郎に仕事を与えているのはあのろくでなしである。そんな奴の言いつけひとつひとつに気を張りつめすぎではないだろうか。
「桃太郎さん、頼まれ事をやり遂げねばならないというその姿勢は大変素晴らしいですが、所詮はあの白豚の指示することです。もう少し肩の力を抜いたらどうですか」
「自分が仰せつかった事なんですから気なんか抜けないですよ。…ていうか白豚って…」
「おや、白豚なんて言いました?それは失礼」
言いながら桃太郎の持参した書類に目を通し、判を押すと、再度桃太郎に視線を戻した。
「確かに確認しました。これはこちらで預かります」
「ありがとうございます。では、俺はこれで」
「あ、」
「え」
踵を返そうとした桃太郎を鬼灯が呼び止める。立ち上がり、机を回り込んで桃太郎のすぐ傍らに移動した。桃太郎が怪訝な顔で見上げれば、鬼灯はじっと桃太郎を凝視している。必然的に目が合ってしまい、桃太郎は無意識に唾を飲む。自分を値踏みするように鋭い眼光が向けられているのである。
まるで咎められているような気すらして、何か書類に不手際があったのか、それとも自身の言動に問題が合ったのかと必死に頭を巡らせる。
そうしているうちに、鬼灯の眉は寄せられ、不機嫌さが手に取るように感じられるようになった。その雰囲気、射るような視線、そして沈黙に耐えきれず、桃太郎は二、三度口を開閉させてから、腹を括って言葉を吐き出すと、
「あの」
「全く忌々しいことです」
全身全霊で発した声は、あっさりと鬼灯の台詞に上塗りされてしまった。
「えっ」
「本来ならあのような男の所になど行かせないのですが…」
そう呟きながら桃太郎の額にそっと触れる。感触を楽しむようになぞると、そのまま髪を一房つまみ、指ですくように滑らせた。その動作を経て、鬼灯の瞳からは冷ややかな光が消え、代わりに慈しみにも似た柔らかい熱が宿る。
普段ならばあり得ない彼の変容に、二の句が次げずにいる桃太郎を見て、愉快だったのか、鬼灯の口角が僅かに上がる。
「あの男に少しでもセクハラされたようならば、すぐに私に言ってください。神獣といえど関係ありません。地獄に落として責め苛んでやりますから」
え、え、と混乱する桃太郎に向かい、笑い掛けると、鬼灯は部屋の出入り口まで彼を誘った。
「桃源郷での業務もあるでしょうし、もうお帰りなさい」
「え、あ、はい。…あの、鬼灯様」
「なんでしょう」
桃太郎は戸惑ったように視線をさ迷わせ、鬼灯を見やる。いつもと同じ無表情、きちんと着込まれた着物、いつも通りの姿である。
ただ、
「なんか今日おかしくないっスか」
「おかしいことはありません」
「いや、だって」
「そうです。だって」
桃太郎の言葉を遮って、そのまま額に口付ける。流れるような一瞬の動作に桃太郎は固まった。
それを見てくすくすと笑いながら、桃太郎を廊下へ出すと、続けた。
「私だって嫉妬くらいしますから」
そうして執務室の扉が閉められる。その直前に、天国に飽きたらいつでもおいでなさい、と、冗談めかして告げられた。
「……はあ?」
音を立てて閉じられたドアの前で、鬼灯の言動を反芻しながら、桃太郎は暫くの間、呆けたように立ち尽くしていた。






20111116
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