本誌ネタバレ含みます。












湯気の立つ白いカップ。そこに並々注がれている液体は黒く、光をはねのけて、ゆらゆらと揺れている。香ばしい薫りを楽しむように、顔を近付け、一呼吸してから、ほんの少し、口に含んだ。苦味を飲み込んで、カップを置く。そうして、テーブルに用意されている角砂糖を、ひとつ、ふたつ、クリープも一匙、黒色に溶かしてくるくるとかき混ぜ、一気に半分ほど飲み干した。舌を滑る甘味がちょうどよく、満足する。
その様子を、向かい合って座るスケープは、大きな目を丸くして見ていた。そんなに砂糖を入れてしまえば、珈琲本来のうまみが殺されてしまう。せっかく、いいものを淹れたのに、と。
「おいしい珈琲ですね」
視線に気付き、スケープに向かって鬼灯は言う。殆ど動かない表情。訝しげな顔をしている目の前の動物。その顔を見るに、自分の言葉はいまいち信用を得られていないのだろう。
「ブラックも飲むんですよ。ただ、どうしても甘い物が」
ほしくて、と茶請けに出したマフィンをかじる。はあ、と、スケープは息を付いたような返事をする。
「これもおいしいです。手作りですか」
「いえ、御用達の店があるんです」
ここの焼き菓子は絶品で、現世に足を運んでいるとスケープが説明すれば、鬼灯はうんうんと頷き、この味なら納得ですと言い、三分の一ほど残っていたマフィンをすっかり食べてしまった。
「よかったらどうぞ」
スケープは、自分用に取り分けていたそれを差し出す。すると、彼の感情の乏しい目に光が宿る。その瞳は、少しの間逡巡していたが、欲には勝てなかったのか、丁寧に礼を述べたあとに二つ目のマフィンを口にした。
スケープ自らも珈琲を飲みながら、マフィンを食べる男の口元を眺めて、人にしては尖った犬歯だと思案し、すぐに、目の前の男が人ではないことを思い出す。
異国の地で働く男。
切れ長の目はどこまでも無感情で、冷徹である。その冷徹さを以て、罪人を裁き、その罪に然るべき罰を与えているのだろう。私情を持ち込むことは許されない、公平な立場であり続ける仕事。
はて、そういえば、この男は常に仕事に追われている身ではなかったか、こんなところで自分などを相手に道草をくっていていいのだろうか?
疑問をぶつければ、鬼灯は「今日は非番です」と素っ気なく応える。ああ、それはよかった、スケープは安堵した。
そうして、目の前の男が、自分を見ていることに気付く。
「何か」
問いかけると、鬼灯は、ああ、ええ、とはっとしたように声を漏らし、
「地獄に落として差し上げましょうか」
そう言って、残っていた珈琲を飲み干した。
唐突な台詞に、スケープは戸惑う。どうも感情を灯しにくい彼の瞳は、どんな意図を以て吐き出した言葉なのか、見当がつかない。
「えっ」
「あなたを、贖罪の山羊にした人間を」
私の手ずから、痛め付けて差し上げましょうか?
淀みなく紡がれる音。それにすら、鬼灯の心情は表れない。空の器の中に、声だけが響いているようである。
「どういうことでしょう」
「どうもこうも、他意はありません」
「はあ」
困惑した顔をすれば、鬼灯は一旦口を閉じ、茶請けの皿を見る。空である。
「恨む気持ちがあるのなら、わたしはそれを、あなたの代わりに実行することができます」
視線はスケープから外れることなく、まっすぐに向けられている。まばたきをして、その瞳を見返し、カップを覗き込む。珈琲が揺れている。
「恨みとは、違います」
荒野に放たれた山羊は、そんなものは抱いていなかった。
ひたすら生きたいと、精一杯で、それ以外のことを考える暇などなかった。瞬間瞬間を、ただ必死に、生きていた。
そうして生きて、死者として目覚めた時にあったのは、戸惑いと空虚感。なにより、目覚めた時、目の前に広がっていた、豊富な草木を見た時の、もう飢えなくて済むのだ、という、幸福感。
生前の渇望を満たすように、好きなだけ食べ、水を飲み、自身を癒した。恨む余裕など、どこにもなかった。
「それに、今、こんな生活ができて、私、幸せですから」
そう言って、温くなった珈琲で喉を潤す。珈琲を見ていた視線を上げ、鬼灯を見やると、彼は、眉を僅かに寄せて、なんと言ったらいいか、不思議な顔をしていた。ああ、この男もこんなに顕著に感情を出せるのか、と、スケープは目を丸くさせた。
少しの間、そのまま見つめあう。壁掛け時計の針だけが、音を立てている。ち、ち、ち、と、緩慢に、時を刻む。
何か、話し続けた方がよかったのだろうか?気の利いた話題はないかとスケープが口を開く直前、鬼灯がふ、と息をはいた。
「そうですか」
一言、呟くと、鬼灯はすっと立ち上がる。
その動作に、お帰りですか、とスケープが問い掛けると、鬼灯は短くはい、と答える。壁に立て掛けていた金棒を担いでいる様を見て、スケープは慌てて事前に包んでおいた菓子を鬼灯に手渡す。
鬼灯は無言で会釈をし、それを受け取った。そうして繊細な装飾が掘られているドアを開け、スケープに向き直る。スケープは客人を見送るよう、背筋を伸ばして立っていた。
「あなたは、強いですね」
えっ、とスケープが声を漏らす。独り言です、と鬼灯は言い、それから、ごちそうさまでしたと頭を下げて、扉を閉めた。
扉が閉まる直前に見えた鬼灯の表情に、スケープは、なぜこの男に共感したのかわかった気がした。






20130511
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