まだ覚めきらぬ頭で手を伸ばせば、そこにあるはずの肉質は存在せず、さらりとしたシーツがたゆんで小さく音を立てた。その感触が胸中にまで広がり、ぽっかりとうろが空いた錯覚に陥る。ああ、昨日のあの子は帰ってしまったんだ、と思い出すと、一層虚しさは大きくなり、ごまかすように抱き締めた枕からは、自分とは違う匂いが香った。
おや、と目を擦ると、その刺激でわずかばかり覚醒した脳が辺りを認識し始める。雑然とした品物が壁際に押しやられ、一時的な措置のように設けられた生活空間。積まれた段ボールや瓶がところ狭しと並んでいる。桃太郎に与えた部屋であることに漸く気付き、それと同時に、昨夜己が彼の床に潜り込んだことを思い出す。
ふわりと香るのは朝食の匂い。食欲を掻き立てる温かなそれが台所から溢れて白澤の元まで届く。枕元に置かれた小さなテーブルの上には、しっかりとアイロン掛けのされた白衣と服が、ベッドサイドにはスリッパが揃えて置いてある。白澤はくしゃくしゃと頭を掻いた。
一日で最も白く鋭い日が射し込む。体温で暖められた布団に、柔らかな質感。食べ物の、温かさと匂い。朝の風景。ぐう、と腹の虫が鳴いた。
のろのろと心地いいそれから抜け出し、スリッパを履くと、すっかりシワのついてしまった服を脱ぎ捨て、桃太郎が用意してくれたのであろう新しいシャツを手に取った。袖を通しながら歩き出せば、大して広くもない部屋、すぐに出入口の前に辿り着く。ドアノブに手を掛ければ、キイ、と音がして、リビングが現れた。その音に反応したのか、自分以外の気配を感じ取ったのか、キッチンに向かう桃太郎がこちらを振り向く。白澤を捉えると同時に発されたおはようございます、と言う声は、耳に馴染んだもので、まるで生活音のように鼓膜に溶けた。おはよう、と回らぬ舌で唱えれば、その間の抜けた口調に小さな笑いが返された。
「今、起こしにいこうと思っていたところなんです」
丁度よかった、と、湯気の立つ白米をよそいながら桃太郎は言う。うん、と曖昧な返事をしながら椅子に腰掛けると、目の前には箸と、副菜(ホウレン草の和え物)、ぼう、とそれを眺めながらふと、いつの間にか日常に練り込まれた全てを、当たり前に受け入れていた事に気付く。
自分が作らなくとも用意される食事。中華ではないそれも、すっかり舌に慣れた。おはよう、と返ってくる声や、自分のものではない足音。連れ込む女達のような甘ったるくない匂い。揃えられたスリッパ。畳まれた衣服。ちょっとした気分の変化を指摘したり、いい加減な生活を煩わしいほどに注意してくる口。なんとなく決まった、相手と自分の席。
ことりと置かれた茶碗に入った米。味噌汁には豆腐とわかめが入っている。
かた、という音に目を上げれば、桃太郎が向かいの席に腰を下ろしていた。白澤に目を向けるから、視線がかち合う。にこり、桃太郎が笑った。
「いただきます」
「我吃了」
手を合わせて言う食事の挨拶も、今ではすっかり慣れたものである。
ああ、
「あったかいね」
「そりゃあ、炊きたてですから」
たった一言では、白澤の意図は通じず、しかし返された言葉は妙に胸を膨らませて、収まりきれない感情が、ふふ、という声になって漏れた。






20120227
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