いくら洗っても汚れが取れない気がする。
爪を立てて、皮膚に傷を付けた。
赤い血がとてつもなく汚ならしく見えて、更に抉った。
体内に、不快感が残っている。
子宮も膣も、何もかも取り払ってしまいたい。
己が女だと自覚することが苦痛である。
気分は晴れない。
あの日から動けない。
動こうとすればするほど、嫌な記憶が絡み付く。
ふと、不安と恐怖とが同時に襲ってくる。
もし、もしも、あの時の種が、実っていたら。
背筋を冷たいものがかけ上がってくる。
汗がつう、と一筋、伝う。
いてもたってもいられない。
ああ、そうだ。
庭先になっているあの実を。
己と同じ名の、あの鮮やかな実を。




地獄に着いた頃には既に日は落ち、辺りは墨をぶちまけたように暗くなっていた。星がちらちらと光り、闇ばかりの空に色を灯している。
この時間ならば業務は終わっているはずだと、白澤は鬼灯の自室に向かった。
部屋に招き入れてもらえないだろう、という諦念を持ちつつ訪れたその扉には鍵は掛かっていなかった。戸締まりはしっかりしているのが常であるというのに、珍しい事もあるものだと、軽く拳をぶつけて中にいるであろう人物に来訪を告げる。
「…」
中から返事はなく、留守かとも思ったが、鍵を掛けずに出掛けるなど鬼灯に限ってあり得ない。もう一度ノックをし、白澤は戸を開けた。
「鬼灯、入るよ」
そう言ってドアをくぐると、雑然とした部屋の奥、寝台に座る人影を見つける。その人影が、白澤の呼び掛けに対してぴくりと動いた。
なんだ、いるじゃあないか、と白澤は安堵と緊張の入り交じった息を吐き、後ろ手に扉を閉める。そうして近付けば、なにやら彼女の様子がおかしい事に気付いた。
足元に、植物の茎が落ちている。それに付いている葉の形、そして、実。
それらは綺麗に整えられているわけではなく、無造作に散らかっていた。実が付いているものと付いていないものが、まるでむしりとったような切り口、待て、何を食べている?
「鬼灯!」
異様さを理解して、白澤は叫んだ。距離を一気に縮めると、乱暴に鬼灯の肩を掴む。びくりと震えて拒絶を示す彼女に構わず、顎を掴んで己の方に顔を向かせた。
「ねえ、何してるの。口に入ってるもの、出しなよ」
そもそも食用ではないそれを食べている事も問題だが、それにしても量が多い。
白澤の言葉に、しかし、鬼灯は頷かない。むしろ、それに反抗するように、口に含んでいたらしい物を飲み込んだ。
そうして自由になった口で、「離してください」と呟く。
「ねえ、一体何をしてるの」
「…そんなの、私の勝手じゃないですか」
「勝手じゃない」
普段の声音からは信じられないような厳しいそれに、鬼灯は黙る。黙って尚、白澤から逃れようと体を捩った。しかし、肩を強く掴むそれはびくともせず、顎に宛てられている掌も同様であった。
「何してるの?お前が食べたもの、なんだかわからないわけじゃないよね」
きつい口調で言及すれば、暫しの沈黙を経て、わかってますよ、と返ってきた。
「わかってるから離してください」
「何を考えてるんだよ」
「…」
白澤が手をどける気がないことを了解し、鬼灯は白澤から身を離そうと踏ん張りはじめる。本気で逃れようとしているその姿に、白澤は冷水を浴びせられたように固まった。そうして、相手を掴んでいた力を緩める。その瞬間に、鬼灯はするりと白澤から離れ、距離をとった。
「…そんなに僕が嫌い?」
「嫌いじゃありません」
「じゃあ、その態度はなんなのさ。今だけじゃない、僕の事避けてるよね。それに、その植物、堕胎薬って知ってるくせに…そんなに僕と子供を作るのが嫌?」
「嫌なわけ、」
「じゃあなんなの」
「………それは、」
「なに」
高圧的な問答に、鬼灯は唇を噛む。白澤に会わない間、考えていた。果たして言ってしまっていいものだろうか、言わずに押し通せるならその方がいいのではないか?ちらりと白澤をみやる。その瞳がゆらゆらと揺れている。不審と悲しみが感じ取れる視線。分かっている、彼は、自分の嫌がる事などしない。それでもやはり、抗う事の出来ない、力の差が。
「…怖いんです」
意を決して、鬼灯は口を開いた。自分でも驚くほど小さく、掠れた声が、震えていた。その声で、先ほどの白澤の腕の力で、言い知れぬ恐怖がフラッシュバックする。
混乱しそうになる頭を必死に理性で押さえつけて、言葉を探す。目線は下に落とし、白澤の姿を映さないように心掛けた。もしも今、その姿を見てしまったら、逃げ出してしまいそうだった。
「あなたが、男性が怖いんですよ…だから、お願いですから」
「鬼灯…?」
「止めてください!」
明らかに怯えている目の前の愛しい相手を、抱き締めようと手を伸ばせば、普段ならば考えられないような金切り声で拒まれる。
「頼みます…これでも精一杯なんです、わかってください」
小刻みに震える肩。それを抱き寄せ慰める事が出来ない。それ以上の事情を問い質す事が憚られる一方で、事情を知りたい欲求も強くなる。気丈な彼女をここまで追い詰めるものは何なのか。自分が何故拒絶されているのか。
「…暴漢に襲われただけです、別に大したことでは」
大きく息を吐きながら発された言葉に、耳を疑う。
「ちょっと混乱しているだけで、白澤さんとは落ち着いてからお会いしようと」
「な…」
二の句が継げずにいると、鬼灯が僅かに視線を上げた。
「別に、あなたがどうこうじゃあないんですよ」
誤解させてしまったならすみません、と呟くように謝る鬼灯を見て、白澤は拳を握り締めた。
あの鬼灯がここまで変わったのである、余程の事であったのだろう、想像したくはないけれど。そしてなにより、ホオズキを食していたということは、つまり、そういう事なのだろう。
座り込んでいる鬼灯に目線を合わせ、恐怖をなるべく感じさせないよう、手を伸ばす。
「っ、嫌だ」
「鬼灯、大丈夫だから、何もしないから」
体、怪我とかしたでしょ、見せて、と言うと、瞳には相変わらず恐れを湛えながらも、抵抗は小さくなった。
その様子にほっとして、なるべく肌に接触しないよう帯をほどき、着物を脱がせる。
腹部や背中、腕のあちこちが紫や黄色になっている。殴られただけではなく、噛み痕も少なくなかった。それとは別に、腕に残る真新しい無数の傷。明らかに最近出来たものである。
「これは?」
触れぬように訊ねれば、鬼灯は視線をずらした。
「なんだか気持ちが悪くて」
「自分で付けたの」
その言葉に頷く。よくよく見れば、脇腹や太股にも同様の傷(おそらく引っ掻き傷である)を見つけることが出来た。
一通り見終わると、服を着させて、
「明日、塗り薬でも持ってくるよ」
と、一言、言葉を絞り出した。
「気付けなくてごめん」
「私が気付かせたくなかったのですから」
目を伏せてそう答える姿に、かき抱きたい衝動と歯痒さを覚えた。
今、彼女に対して出来ることなど何もないのである。抱き締めて、心配などいらないと言いたくとも、その行為事態が彼女の恐怖心を煽る。己の感情のまま行動する事が出来ない。
「ああ、」
ふと、白澤は思い付いた。
「ねえ、鬼灯。せめて今晩は一緒にいさせてよ」
「白澤さん、申し訳ないですが、私は」
「人の姿じゃなきゃ平気でしょう」
そう言うと、みるみるうちに白澤はその形を変えた。白く長い毛を持つ獣。いくつもの目がこちらに向けられる。
その姿で、躊躇いがちに寝台へと上がり、鬼灯へと近付いた。
恐る恐るその顔に鼻先を寄せれば、不意に鬼灯が微笑む。そうして白澤の顔を両手で撫で、首筋に顔を埋めた。ぎゅう、と細い腕に力がこもる。
「獣のあなたは平気です」
「避けられてショックだったよ、僕」
「すみません」
体を密着させるように、白澤がすり寄る。人よりも高めの体温が鬼灯を包んだ。その毛皮に完全に体重を預け、目を閉じた。
「ねえ、鬼灯」
「はい」
側に居させてね、と言えば、鬼灯は面食らったような顔をして、照れたように頷いた。






20111229
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