「どうして魚は溺れないんだと思う?」

顔は見えなかった。オレに背中を向けてなぞなぞにも似たそんな質問を投げ掛けられた。どうして魚は溺れないんだろう。溺れた魚なんて聞いたことがないし、よくよく考えれば魚が溺れない理由なんてないような気がしてきた。魚は水の中に存在するもので溺れるなんてそもそもおかしい。だけど彼女の口振りはまるで確たる答えを持っているといったような口振りだった。ああ気になる。だけどわからない。わからない?そう言った彼女は少しも声のトーンを変えずにじゃあヒントね、とこちらを向いた。

「どうしてわたしは笑わないんだと思う?」

ずきんずきんと何かが痛かった気がした。その言葉の通り彼女のその表情に笑顔の色は全くない。でもだからと言って無表情というわけではない。笑わない中にも彼女の喜びや悲しみなどの感情をくみ取ることは可能で、オレはそれが出来る数少ない人間だった。気付けば彼女が笑わないのは日常に溶けた違和感のない事実となっていて理由を考えたことなんてなかった。あまりに当たり前なことは考えないことが多いらしい。魚も然り、彼女も然りだ。当たり前過ぎてそれに頭をわざわざ使うことなんてなかった、ただそれだけ。じゃあ彼女が笑わない理由は?それが魚が溺れない理由に繋がるという。ますますわからない。彼女が笑わないのに理由なんてあったのか。魚が溺れないのに理由なんてあったのか。魚が溺れないのはね、ちゃんと理由があるんだよ。彼女はぽつりと言った。口を開く。彼女が空気を振動させてオレの鼓膜を振動させて、ゆっくり行き届いたその言葉は、わざわざ考える必要がないほどに簡単だった。あまりに簡単だった。

「溺れ方を知らないからだよ」

それと同じでね、わたしが笑わないのはわたしが笑い方を知らないから。いま彼女の感情という真っ白な、それも普通のひとより人一倍真っ白な画用紙には青い淡い色が塗られていっている。子供がクレヨンを握って押し付けるように描いたような太くて不安定なラインで少しずつうめられていっている。この色は悲しみの色。彼女は笑い方を知らないから笑わない。魚が溺れ方を知らないから溺れないように。これとそれは本当に同じなのだろうか。少なくともオレの中では大きな違いがあって、その違いは彼女が彼女たる所以であるような気もした。オレは魚に溺れて欲しいだなんて、溺れ方を知って欲しいだなんて思わない。けれどオレは彼女に笑って欲しいと、笑い方を知って欲しいと思っている。ただのオレのエゴかもしれない。

「バカだなあ」

いつの間にか彼女の画用紙は青で埋め尽くされて、その目からはその画用紙をふやかす涙が落ちていた。オレはそんな彼女の体を抱き寄せた。知らないなら学べばいい。知らない魚は溺れ方を学べばいい。笑い方を知らないのなら笑い方を知ればいい。全部オレが教えるから。魚が溺れて死んで苦しむように、彼女が笑って苦しむかもしれないけれどそれでも。ああ少し、おふざけが過ぎる。


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